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続:湊川神社が創建された日

2008-05-24 | 歴史
尊氏没後、室町幕府は、北朝の正当性を強調する中、後醍醐天皇の為に戦って殉じた正成は当時逆賊として扱われていたろうことは想像できる。以下参考に記載の「文芸ジャンキー・パラダイス【 あの人の人生を知ろう ~ 楠木 正成 】 によれば、正成の首は一時京都六条河原に晒されたが、死を惜しんだ尊氏の特別の配慮で、彼の首は故郷の親族へ丁重に送り届けられた。尊氏側の記録(『梅松論』)は、敵将・正成の死をこう記しているという「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」・・・と。正成終焉の地・湊川にあった小さな塚ともいえる墓は永らく荒廃していたが、彼の死後300年近くたった江戸時代には、摂津尼崎藩の第2代藩主青山幸利によって五輪の石塔も建てられていたようだ。
湊川神社本殿の西側奥には、「史跡楠木正成戦没地」の碑があるここが、自刃した場所と言われている。表門を入った東手前には、元禄5年(1692年)になり、徳川光圀が「逆賊であろうと主君に忠誠を捧げた人間の鑑であり、全ての武士は正成の精神を見習うべし」と建立した「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑と、それを建立した徳川光圀の像がある。しかし、光圀がここに来たわけではなく、この碑の建立の提案又、工事の監督を指揮したのは水戸黄門に出てくる助さん(佐々木助三郎)こと佐々宗淳(佐々介三郎とも)だといわれている。
『太平記』の現存流布本は全40巻があるが、以下参考に記載の「太平記・国民文庫本・全巻」で読める(原文に読み仮名付きのものあり)。この中で、湊川の戦いは巻第16○正成下向兵庫事から○正成兄弟討死事に書かれている。この作者・成立時期は不詳であるが、14世紀中ごろまでには後醍醐天皇の崩御が描かれる巻21あたりまでが編纂されていたものを増補・改訂されてゆき、応安2年(1370年)ころまでには現在の40巻からなる太平記が成立したと考えられているが、室町幕府3代将軍足利義満や管領細川頼之が修訂に関係していた可能性も指摘されている。内容は、一貫して南朝よりであるのは、南朝側の人物が書いたとも南朝方への鎮魂の意味があったとも推測されており、「ばさら」と呼ばれる当時の社会風潮や下剋上に対しても批判的に書かれているようだ。全体の構想にあるのが儒教的、仏教的思考が基調に有り、宋学の影響を受けたとされており、後醍醐天皇は作中でを欠いた天皇として描かれるが、光圀は修史事業として編纂していた『大日本史』において天皇親政をめざした後醍醐こそ正統な天皇であると主張。これにより足利尊氏は逆賊であり南朝側の楠木正成や新田義貞などは忠臣として美化された。徳川将軍家は新田氏の末裔を称しており、光圀も又徳川家の一族に過ぎない。そのようなこともあり、大楠公建碑の着手にもかかわったのだろう。
以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬され、幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、彼らの熱烈な崇敬心は国家による楠社創建を求めるに至り、慶応3年(1867年)、尾張藩主徳川慶勝により楠社創立の建白がなされ、明治元年(1868年)、それを受けて明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、明治2年(1869年)、墓所・殉節地を含む7,232坪(現在約7,680坪)を境内地と定め、明治5年(1872年)5月24日、湊川神社が創建された。これが、後の太平洋戦争前の皇国史観へと至るのである。
「桜井の別れ」など太平洋戦争で敗戦するまでは、日本の国語及び修身の教科書に必ず掲載されており、忠臣楠公の美徳が教育されて生きた。
(画像は、昭和36年当時の湊川神社。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
湊川神社 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%8A%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E7%A4%BE
楠木正成
http://kouhou.city.kobe.jp/kids/data/kr/kr02/kr02003.htm
いざ兵庫・湊川へ、楠正成の戦い
http://www.ten-f.com/masashige.html
小さな資料室資料(208 朱舜水「楠公碑陰記」
http://www.geocities.jp/sybrma/208syusyunsui.nankouhiinki.htm
幕末最後の天皇「孝明天皇 」誕生日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/c0cb66e24709889767d2035fc54e5799
いざ兵庫・湊川へ、楠正成の戦い
http://www.ten-f.com/masashige.html
会下山公園と桜
http://kobe-mari.maxs.jp/kobe/egeyamakouen.htm
太平記・国民文庫本・全巻
http://www.j-texts.com/sheet/thkm.html
梅松論 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%9D%BE%E8%AB%96
芝蘭堂◆ 軍記で読む南北朝・室町 ◆
http://homepage1.nifty.com/sira/index.html
文芸ジャンキー・パラダイス【 あの人の人生を知ろう ~ 楠木 正成 】 
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic27.html
南北朝の写真
http://sky.zero.ad.jp/~zac28831/syashin-m2.htm
六条河原 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%9D%A1%E6%B2%B3%E5%8E%9F
皇国史観 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%A6%B3
修身教科書
http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/siso/shushin.html
【換暦】暦変換ツール
http://maechan.net/kanreki/

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2 コメント

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大楠公 (Linda)
2008-05-27 14:39:19
よーさん、こんにちは。
何年か前にキャナルロード、清盛塚、新開地などを歩き回ったことがありますが、湊川神社にはブルーシートの住人が沢山居てはりました。大楠公も嘆いてはるやろなと思ったものです。
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被災者 (よーさん)
2008-05-28 07:23:26
Linda三、阪神大震災の後、長い間、公園や神社境内などに避難者がテントを張って済んでいる人が多かったですね。
しかし、あの時、それまで、湊川辺りの駅や地下構内に多く見られた浮浪者の姿は全く見られなくなりましたよ。考えてみれば、被災にあっって家をなくした人が皆浮浪者のような生活になったので、その中に紛れ込んでしまったのですね。
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