5月16 日はシャルル・ペロー(仏:詩人,童話作家,評論家『長靴をはいた猫』) の1703年の忌日<75歳>
日本では「長靴をはいた猫」などを収めた童話集(通称「ペロー童話集」)の作者として有名なシャルル・ペロー(Charles Perrault)は、フランスの詩人、童話作家、そして評論家でもある。
ペローは、1628年1月12日にパリの裕福な家庭に生まれ、オルレアン大学で法学を学び、弁護士として活動する一方で、1671年にはフランスの国立学術団体の中でも最古のアカデミーであるアカデミー・フランセーズの会員となり、活躍。コルベールに認められ、ルイ14世に仕えた。学芸に関して、当時の古典(オウィディウスやウェルギリウスなどの古典文学)尊重の文芸思潮に反発し、古今論争(新旧論争ともいう)の火付け役となったのが彼で、そのきっかけとなったのは、彼が、ルイ14世の病気快癒を祝う称詩「ルイ大王の御代」のなかで、ルイ14世の治世は、古代ローマのアウグストゥスの時代をしのいで優れていると述べたことに始まるという。(詳しくは啓蒙時代を参照)。
また、物語作家としては、「韻文による物語」3篇(グリゼリディズ、愚かな願い事、ロバの皮)と「散文による物語」8篇(赤ずきん、長靴をはいた猫〔ねこ先生〕、青ひげ、眠りの森の美女、仙女たち、サンドリヨンまたは小さなガラスの上靴〔シンデレラ〕、巻き毛のリケ、親指小僧・親指太郎)、計11篇を残している。このうちの『韻文による物語』3篇は、当時のサロンで一篇ずつ朗読披露された後、1691年から1694年に出版されたもので、シャルル・ペローが作者であることははっきりしているが、その後の1697年に発表された散文による物語『過ぎし昔の物語ならびに教訓』は 『寓意のある昔話、またはコント集~がちょうおばさんの話』の名でも知られるがこれは、欧州の民間伝承を詩の形にまとめ、教訓を加えたもので、この童話集(通称『ペロー童話集』と呼ばれる)は、グリム童話集やマザー・グースなどより前に民間伝承をまとめたものとして知られているが、発行当初は著者名がなく、第二版が出たときには献辞の署名がシャルル・ペロー自身のものではなく、息子の名になっていたといい、実際の作者が誰なのかという議論を呼んでいるようだ。しかし、大方の見方として、ペローの手が入ったことは間違いないのではないかといわれており、その書名のない理由としては、アカデミーの一員として名をなした彼が、子どもの物語に関わるのは恥ずかしいということで、息子の名を使ったのではないか、又、そもそも物語集を出すのは息子のアイデアであったという説などがあるようだ。
ペローの童話集は、すでに世間に伝わっていた物語が、乳母や召使いなどの口から、上流階級のお嬢様などに伝わっていったものを宮廷を中心とするサロンの女性たちのために集大成したという側面がある。ペローの童話集以前には、イタリア・ナポリ出身の詩人・ジャンバティスタ・バジーレが、主にナポリ地方に昔から伝わる説話(創作によらず人々の間で伝承されてきた作者不詳の物語で、民間説話(民話)や神話、仏教説話を含む)を蒐集し、『物語の中の物語、即ち幼い者達のための楽しみの場』として名付けられたこの説話集はバジーレの死後の1634年に、ボッカッチョの『デカメロン(十日物語)』に倣って『ペンタメローネ(五日物語、Pentamerone)』と改称されて刊行され、この『ペンタメローネ』は、10人の語り女たちが5日にわたって競ってまくしたてる50の物語を収めるおとぎ話の宝庫であり、この『ペンタメローネ』の中には、「シンデレラ」「眠れる森の美女(眠り姫)」「長靴をはいた猫」などおなじみのモチーフが数多く詰め込まれており、これが、「ヨーロッパにおける童話集のさきがけとなったといわれているようだ。
ペローの童話集は、すでに世間に伝わっていた民間伝承に、当時の王朝時代の風俗を取り入れ、また、下品なシーンや残酷なシーンなどを削除したり変更が加えられるなどの脚色が加えられたことで、サロンの女性たちには読みやすい物語となったといわれている。ぺロー童話の舞台の多くがイタリア界隈のようであるのは、フランスがイタリアから文化を輸入して独自の文化を熟成し始めた頃の民話集であるからとも言える。一方、ペロー童話には、昔話の収集としては余分な脚色が入る結果となったことが、伝承文学研究分野で、ペローが童話集のパイオニアとなりえないということでもあるのだろう。
グリムの童話集は長い間「ドイツの農家の非識字者の老婆からの聞き取りをしたものを出版した」ものとされていたが、実際には、そうではなく、物語の採集元となった人物も、大半は非識字者の老婆などではなかったことが今では明らかにされている。
グリム童話が出版された時代のドイツではシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒涛)と呼ばれる文学運動が発生し、ドイツ固有の文学の見直しが叫ばれ、民謡や童話に注目が集まっていた。その結果、様々な民謡集や童話集が発行されたが、その大半は編者による改作を受けており、原話とはほど遠いものとなっていたため、グリム兄弟は資料性を求めて独自に童話の原話の収集を始めた。兄弟は、古文献から抜き書きしたり、友人や近隣の人たちから聞き書きしたりして、民話を正確に記録した。しかし、グリム童話の中には、「赤ずきん」「灰かぶり(シンデレラ)」などフランスのペロー童話出自の作品なども多く含まれている。そのため、「長ぐつをはいた猫」のように、のちには削除されたものもあるが、そのことは、はじめに聞き書きに応じた人々の一部がフランスから移住したユグノー派の住民だったという、事実が最近判明したこととも関係があるだろうといわれている。しかし、そのようなものを全て削除するわけには行かない。「グリム童話」が、版を重ねるごとに、物語を少しずつ改変(再話)している・・・といわれるのもそのあたりに問題があったからなのであろう。その結果、17世紀フランスのきらきらとした輝かしい雰囲気を反映したペロー童話に比し、19世紀ドイツの質実剛健な雰囲気に満ちたグリム童話には、「文章に飾り気がない」半面、残酷な内容にも解釈でき「本当は怖いグリム童話」と言われるのも同じ伝承の民話でも作品が作られた時代背景や文化的背景の違いによるものであろう。
私も、これらの童話を子供の頃に読んだり、話を聞いたが、その中で、「捲き毛のリケ」の話が教訓的で面白い。醜いが知恵のある巻毛の王子リケと、美しいが知恵のないお姫さまが結ばれ幸せになる話であるが、この物語の中で、自分のあまりの愚かさに嫌気がさしたお姫様に対して、リケが「「自分で利口でないと思っているのは、お姫さまが、利口であることの何よりの証拠です。そもそも知恵というものは、それをもっていればもっているほど、自分では、それだけ足りないと思うものなのです」と言う下りがある。
何か、古代ギリシアの哲学者ソクラテスの「無知の知」を思い出す。
ソクラテスは、自分の知識が完全ではない事に気がついている、言い換えれば無知である事を知っている点において、知恵者と自認する相手より僅かに優れていると考えた。また知らない事を知っていると考えるよりも、知らない事は知らないと考える方が優れている、とも考えた。昔、おばあさん達が女の子に「大学に行くと馬鹿になるよ」・・・とよく言ったとか・・。
美しいが知恵のないお姫さまは、王子リケと結ばれて幸せになるが、醜くて頭のいいもう一人のお姫さまは、不幸になる。
旧約聖書の創世記においてエデンの園を追われる以前のアダムとイヴがそうであった様に、無知は必ずしも悪徳とはされない。無知とはある意味では純粋さの象徴であり、蛇にそそのかされてエデンの園の中央部にあった命の木と善悪の知識の木の2本の木のうちの善悪の知識の木の実を食べたことによって裸の姿を恥ずかしいと思うようになり、葉で陰部を隠した。そして、命の木の実をも食べることを恐れた神は罰としてエデンの園からアダムとイブを追放した(失楽園)。
それから、長い長い年月を経て、少子・高齢化の今の日本の世の中、醜い頭の良い女(男も)は、色々理屈をつけて、男女の区別や役割を否定し、自由気ままな生き方をするために結婚することさえ拒み、独身貴族を決め込む。せっかく結婚したとしても子供を作ると自分達が楽出来ないと子供も作らない。いずれそれが、破滅への道であることを知ってか知らずか・・・・。
(画像は、『長靴をはいた猫』シャルル・ペロー著、澁澤龍彦訳 出版社:大和書房)
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日本では「長靴をはいた猫」などを収めた童話集(通称「ペロー童話集」)の作者として有名なシャルル・ペロー(Charles Perrault)は、フランスの詩人、童話作家、そして評論家でもある。
ペローは、1628年1月12日にパリの裕福な家庭に生まれ、オルレアン大学で法学を学び、弁護士として活動する一方で、1671年にはフランスの国立学術団体の中でも最古のアカデミーであるアカデミー・フランセーズの会員となり、活躍。コルベールに認められ、ルイ14世に仕えた。学芸に関して、当時の古典(オウィディウスやウェルギリウスなどの古典文学)尊重の文芸思潮に反発し、古今論争(新旧論争ともいう)の火付け役となったのが彼で、そのきっかけとなったのは、彼が、ルイ14世の病気快癒を祝う称詩「ルイ大王の御代」のなかで、ルイ14世の治世は、古代ローマのアウグストゥスの時代をしのいで優れていると述べたことに始まるという。(詳しくは啓蒙時代を参照)。
また、物語作家としては、「韻文による物語」3篇(グリゼリディズ、愚かな願い事、ロバの皮)と「散文による物語」8篇(赤ずきん、長靴をはいた猫〔ねこ先生〕、青ひげ、眠りの森の美女、仙女たち、サンドリヨンまたは小さなガラスの上靴〔シンデレラ〕、巻き毛のリケ、親指小僧・親指太郎)、計11篇を残している。このうちの『韻文による物語』3篇は、当時のサロンで一篇ずつ朗読披露された後、1691年から1694年に出版されたもので、シャルル・ペローが作者であることははっきりしているが、その後の1697年に発表された散文による物語『過ぎし昔の物語ならびに教訓』は 『寓意のある昔話、またはコント集~がちょうおばさんの話』の名でも知られるがこれは、欧州の民間伝承を詩の形にまとめ、教訓を加えたもので、この童話集(通称『ペロー童話集』と呼ばれる)は、グリム童話集やマザー・グースなどより前に民間伝承をまとめたものとして知られているが、発行当初は著者名がなく、第二版が出たときには献辞の署名がシャルル・ペロー自身のものではなく、息子の名になっていたといい、実際の作者が誰なのかという議論を呼んでいるようだ。しかし、大方の見方として、ペローの手が入ったことは間違いないのではないかといわれており、その書名のない理由としては、アカデミーの一員として名をなした彼が、子どもの物語に関わるのは恥ずかしいということで、息子の名を使ったのではないか、又、そもそも物語集を出すのは息子のアイデアであったという説などがあるようだ。
ペローの童話集は、すでに世間に伝わっていた物語が、乳母や召使いなどの口から、上流階級のお嬢様などに伝わっていったものを宮廷を中心とするサロンの女性たちのために集大成したという側面がある。ペローの童話集以前には、イタリア・ナポリ出身の詩人・ジャンバティスタ・バジーレが、主にナポリ地方に昔から伝わる説話(創作によらず人々の間で伝承されてきた作者不詳の物語で、民間説話(民話)や神話、仏教説話を含む)を蒐集し、『物語の中の物語、即ち幼い者達のための楽しみの場』として名付けられたこの説話集はバジーレの死後の1634年に、ボッカッチョの『デカメロン(十日物語)』に倣って『ペンタメローネ(五日物語、Pentamerone)』と改称されて刊行され、この『ペンタメローネ』は、10人の語り女たちが5日にわたって競ってまくしたてる50の物語を収めるおとぎ話の宝庫であり、この『ペンタメローネ』の中には、「シンデレラ」「眠れる森の美女(眠り姫)」「長靴をはいた猫」などおなじみのモチーフが数多く詰め込まれており、これが、「ヨーロッパにおける童話集のさきがけとなったといわれているようだ。
ペローの童話集は、すでに世間に伝わっていた民間伝承に、当時の王朝時代の風俗を取り入れ、また、下品なシーンや残酷なシーンなどを削除したり変更が加えられるなどの脚色が加えられたことで、サロンの女性たちには読みやすい物語となったといわれている。ぺロー童話の舞台の多くがイタリア界隈のようであるのは、フランスがイタリアから文化を輸入して独自の文化を熟成し始めた頃の民話集であるからとも言える。一方、ペロー童話には、昔話の収集としては余分な脚色が入る結果となったことが、伝承文学研究分野で、ペローが童話集のパイオニアとなりえないということでもあるのだろう。
グリムの童話集は長い間「ドイツの農家の非識字者の老婆からの聞き取りをしたものを出版した」ものとされていたが、実際には、そうではなく、物語の採集元となった人物も、大半は非識字者の老婆などではなかったことが今では明らかにされている。
グリム童話が出版された時代のドイツではシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒涛)と呼ばれる文学運動が発生し、ドイツ固有の文学の見直しが叫ばれ、民謡や童話に注目が集まっていた。その結果、様々な民謡集や童話集が発行されたが、その大半は編者による改作を受けており、原話とはほど遠いものとなっていたため、グリム兄弟は資料性を求めて独自に童話の原話の収集を始めた。兄弟は、古文献から抜き書きしたり、友人や近隣の人たちから聞き書きしたりして、民話を正確に記録した。しかし、グリム童話の中には、「赤ずきん」「灰かぶり(シンデレラ)」などフランスのペロー童話出自の作品なども多く含まれている。そのため、「長ぐつをはいた猫」のように、のちには削除されたものもあるが、そのことは、はじめに聞き書きに応じた人々の一部がフランスから移住したユグノー派の住民だったという、事実が最近判明したこととも関係があるだろうといわれている。しかし、そのようなものを全て削除するわけには行かない。「グリム童話」が、版を重ねるごとに、物語を少しずつ改変(再話)している・・・といわれるのもそのあたりに問題があったからなのであろう。その結果、17世紀フランスのきらきらとした輝かしい雰囲気を反映したペロー童話に比し、19世紀ドイツの質実剛健な雰囲気に満ちたグリム童話には、「文章に飾り気がない」半面、残酷な内容にも解釈でき「本当は怖いグリム童話」と言われるのも同じ伝承の民話でも作品が作られた時代背景や文化的背景の違いによるものであろう。
私も、これらの童話を子供の頃に読んだり、話を聞いたが、その中で、「捲き毛のリケ」の話が教訓的で面白い。醜いが知恵のある巻毛の王子リケと、美しいが知恵のないお姫さまが結ばれ幸せになる話であるが、この物語の中で、自分のあまりの愚かさに嫌気がさしたお姫様に対して、リケが「「自分で利口でないと思っているのは、お姫さまが、利口であることの何よりの証拠です。そもそも知恵というものは、それをもっていればもっているほど、自分では、それだけ足りないと思うものなのです」と言う下りがある。
何か、古代ギリシアの哲学者ソクラテスの「無知の知」を思い出す。
ソクラテスは、自分の知識が完全ではない事に気がついている、言い換えれば無知である事を知っている点において、知恵者と自認する相手より僅かに優れていると考えた。また知らない事を知っていると考えるよりも、知らない事は知らないと考える方が優れている、とも考えた。昔、おばあさん達が女の子に「大学に行くと馬鹿になるよ」・・・とよく言ったとか・・。
美しいが知恵のないお姫さまは、王子リケと結ばれて幸せになるが、醜くて頭のいいもう一人のお姫さまは、不幸になる。
旧約聖書の創世記においてエデンの園を追われる以前のアダムとイヴがそうであった様に、無知は必ずしも悪徳とはされない。無知とはある意味では純粋さの象徴であり、蛇にそそのかされてエデンの園の中央部にあった命の木と善悪の知識の木の2本の木のうちの善悪の知識の木の実を食べたことによって裸の姿を恥ずかしいと思うようになり、葉で陰部を隠した。そして、命の木の実をも食べることを恐れた神は罰としてエデンの園からアダムとイブを追放した(失楽園)。
それから、長い長い年月を経て、少子・高齢化の今の日本の世の中、醜い頭の良い女(男も)は、色々理屈をつけて、男女の区別や役割を否定し、自由気ままな生き方をするために結婚することさえ拒み、独身貴族を決め込む。せっかく結婚したとしても子供を作ると自分達が楽出来ないと子供も作らない。いずれそれが、破滅への道であることを知ってか知らずか・・・・。
(画像は、『長靴をはいた猫』シャルル・ペロー著、澁澤龍彦訳 出版社:大和書房)
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