
今日(2月19日)は、浅間山荘事件の日。
浅間山荘事件とは、1972(昭和47)年2月19日に始まる、長野県軽井沢町にある河合楽器の保養所「浅間山荘」において連合赤軍の坂東国男、坂口弘等5人が起こした事件である。
当時、連合赤軍は銃砲店を襲って銃と弾薬を手に入れて逃走を続けていたため、警察は必死になってその行方を追っていた。警察に追われていた連合赤軍のメンバーは、群馬県の山岳地帯に拠点「榛名山ベース」を構え、潜伏して逃避行を続けていたが、仲間内でリンチ殺人事件を起こす(山岳ベース事件)などして組織は極度に疲弊し、追い詰められていた。そして、警察の山狩りによって、榛名山や迦葉山のベースを発見された事をラジオのニュースで知ると、群馬県警の包囲網が迫っている事を感じ、群馬県を出て隣接する長野県に逃げ込む事にしたが、山中で道に迷い、偶然軽井沢へ出てしまった。そして、2月19日の正午ごろ連合赤軍のメンバーは軽井沢レイクニュータウンにあった無人のさつき荘に侵入し、台所などにあった食料を食べて休息していたが、検索中の長野県警機動隊一個分隊が近づいてきた事を察知し発砲。機動隊側もこれに応戦。午後3時20分ごろ連合赤軍のメンバーは、包囲を突破してさつき荘を脱出。さつき荘の近所にあった「浅間山荘」に逃げ込み、管理人の妻牟田泰子さんを人質に立てこもった。
浅間山荘がある南軽井沢の通称レイクタウンは、普段は静かな別荘地。連合赤軍の籠城で警察官はライフル銃で武装して連合赤軍が立てこもっている山荘の回りを二重、三重に取り囲んだ。彼らがたてこもって、10日目の2月28日午前10時、1500人の警察官の山荘突入作戦は始まった。催涙ガス弾と、激しい放水。大型クレーン車から吊るした大きな鉄球が山荘の壁を抜く。連合赤軍が銃で応戦。追い詰められた連合赤軍のメンバーが時折窓から顔をのぞかせる姿も・・・。浅間山荘に立てこもった連合赤軍の抵抗は警察官の予想を超えるものであった。最前線の指揮官が次々と狙い撃たれた。警察官達は、放水でバリゲードを壊し、一階に取り付くが、山荘の2階の犯人達は銃の乱射や手投げ弾で応戦。攻防は8時間余り続きずぶ濡れになっていた人質の泰子さんを無事救出し、弾を撃ちつくした犯人5人を逮捕したのは、午後6時15分だった。この時、警察官2人が死亡、テレビ・カメラマン1人を含む13人が重軽傷を負った。逮捕された坂東国男の父は「死んでおわびします」の遺書を残して同日自殺した。この日、NHKや民放テレビは約10時間に及ぶ現場中継を行い、人質を救出した午後6時代の視聴率は89,7%に達したという。
このような事件の起こる発端は、1960年代の学生による第二次反安保闘争がきっかけとなって始まった「東大・安田講堂事件」を頂点とした大学闘争終焉後、学生達の間ではシラケが進行し、一部のセクトが過激化、武装化への道を進み「武器蜂起」を狙う赤軍派と「銃口から革命が生まれる」を信条に掲げた京浜安保共闘が結成され、1971年9月両派は連合赤軍を組織して、軍事訓練を続けていた。そして、ついにこのような浅間山荘事件、へとつながっていくのである。
この「東大・安田講堂事件」が起こった経緯等については、以前に私のブログ「フランシーヌ・ルコントがパリで焼身自殺した日」の中で書いた。又、連合赤軍が浅間山荘事件の前に起こしていたリンチ殺人事件のことなどもブログ「連合赤軍リンチ事件で妙義山中に最初の遺体が発見された日」で書いたので、これらのことは書くのを省略する。
この事件の起こる前、全国をまたにかけ逃走を続けた連合赤軍に対し、警察庁では警備局・刑事局・全国の各管区警察局などが陣頭指揮を執り都道府県警察と総合調整を図って捜査していた。この事件に関する、事件の発端、警察の対応、事件の収束、事件が長期化した要因、事件後の情勢などは、Wikipediaに詳しく書いてあるので見られるとよい。
私の前のブログ「連合赤軍リンチ事件で妙義山中に最初の遺体が発見された日」の中でも触れたように、現・国民新党の亀井静香氏のHP「あさま山荘事件 無念の作戦失敗」で当時、亀井氏は警察庁警備局公安第一課課長補佐として作戦に加わっていたが、この事件では、”目の前で、内田尚孝警視庁第二機動隊長、特科車両隊の高見繁光氏の両警察官が撃ち殺され、多くの重軽傷者を出した。これは、警察のとった作戦の失敗であり、何より慚愧に堪えないのは、私の捜査が万全ならば、そもそも浅間山荘事件は起こらなかったという思いがあるからだ”と述べられているように、事件への警察の対応もよくなかったようである。
兎に角、この浅間山荘突入に関する様子は、テレビで生中継され、その日の総世帯視聴率は調査開始以来最高の数値を記録し、人質救出の瞬間は民放、NHKを合わせて90%弱を記録するという、1953(昭和28)年にテレビが、放送を開始して以来の中継記録を作った。世相に敏感なテレビっ子たちは、この年、学年末のお別れ会で「浅間山荘」事件を劇にした。「最近じゃ~、一番おもしろいニュースだったからね~」と、作・演出にあたった小学4年生。事件そのものについては、「はじめは勇ましいな~と思ったけど、つかまったときには、バカだな~と思った」など、子どもなりに見るところはきっちりと見ていた。(朝日クロニクル「週間20世紀」)・・・というから、一安心したものだが・・・。
1953(昭和28)年にテレビNHK東京テレビジョンが開局し、1959[昭和34)年、皇太子ご成婚で大きく飛躍し、一般庶民のメディアとなっていった。衛生中継の成功があり、1964(昭和39)年、東京オリンピックをはさみ、1960年代のテレビ報道は、まさに意気盛んであった。報道番組のみならず、ドラマ、ワイドショー、バラエティーなど全てが出揃って、百花繚乱、まさにテレビの黄金時代到来といったところであった。しかし、1960年代後半、ベトナム戦争が激化し、テレビが北爆を伝え、悲惨な戦争の映像をリアルに報道し、ハノイからの中継も入る事になったとき、テレビジャーナリズムは早くも一気に方向を変えることになった。そして、政府の番組への介入、相次ぐ番組の放送停止、テレビ報道現場の闘争の場化した。
さらに、成田空港反対闘争、大学闘争と続く中でキャスターの降板、記者や番組制作者たちの相次ぐ配転をうけて報道の自由を求める闘はやがて、職場の分裂をさえまねくこととなった時代があった。
以下参考の「MAMO's放送お騒がせ史「局や局員の事件事故・規制・放送中止・不祥事・テレビ珍事件を読む放送年表」を参考にされると良い。↓
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/mamos/data/oswgs60.html
それでも、ジャーナリズムとしての、テレビ報道は、速報性において、同時性において、独自性を持っており、1970年代前半の浅間山荘事件の生放送や、1990年代前半の湾岸戦争の衛生中継では視聴者をテレビの前に釘付けにした。しかし、テレビ、ジャーナリズによるベトナム戦争報道により、結果的に敗北を招いたとするアメリカは、湾岸戦争では、代理店が製作をしたビデオを放送するなどして世論作りを目指しプロパガンダを行っている。、テレビでは、フセイン像が歓喜したイラク市民らの手によって引き倒された映像などは、まさにそれだろう。しかし、日本のテレビは、そのような問題に自ら直面することなく衛生中継を垂れ流した。日本のテレビは米国のメディアの思う壺にはまり利用されたといえるだろう。
テレビの世界では特に民放テレビは、常に視聴率に脅かされる運命にある。かっては、番組の「偏向」などを理由に政府との激しい対立もあった。かっては話題のテレビドキュメンタリーを生み出した各テレビ局のドキュメンタリー枠もなくなって久しい。ドキュメンタリー番組が情報番組やバラエティー番組に変わり、そのそのどちらの危険からものがれることとなったのだろう。今視聴者が求めているものは、情報であり、エンターテイメントであり、せいぜいニュースの解説である。これから、デジタル放送時代に入って、ますます、テレビはジャーナリズムからは遠のいていく事になるのだろう。
いま、話題となっている関西テレビの「発掘!あるある大事典Ⅱ」の納豆ダイエット番組捏造事件は、酷すぎるが、捏造ではなくても、極端に誇張したものや、さももっともらしく大げさに報道している番組は多くありそうで、私なんか見ていると、ほとんどは、やらせの番組に近いように思われる。
テレビも昔のような生中継のものは少なくなり、製作もほとんど自ら行わず、下請け孫受けに作らせたものを、流しているようである。そして、殆どのものは編集し直してから放送されているものであり、フィクションとノンフィクションの境界は非常に曖昧なものとなり、全体としては「ドキュメンタリー」も以前ほど「真実」に近いものとしては受け入れられなくなりつつあるようだが、ジャーナリズムとしては、もう少し、ドキュメンタリーなものの放送に力を入れて欲しいものだ。
(画像は、浅間山荘事件を伝える2月28日付朝日新聞号外)
参考:
あさま山荘事件ーWikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%96%93%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6
フランシーヌ・ルコントがパリで焼身自殺した日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/48b242487e2d82ab97d721db7cb9ce72
連合赤軍リンチ事件で妙義山中に最初の遺体が発見された日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/bcebdb2c939e5cf2849cdd5e83df815e
東大安田講堂事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AE%89%E7%94%B0%E8%AC%9B%E5%A0%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6
MAMO's|テレビ資料集|放送年表(放送お騒が史―局や局員の事件事故 ...
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/mamos/data/oswgs60.html
メディア・トピックス(JCJ WEB PAGE)「NHKへの「放送命令」に対し新聞協会編集委員会代表幹事が談話を発表」
http://www.jcj.gr.jp/massinfo.html
三省堂辞書サイト]10分でわかる「メディア」
http://dictionary.sanseido.co.jp/topic/10minnw/040media.html
メディア (媒体) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2_(%E5%AA%92%E4%BD%93)
ドキュメンタリー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%BC
成田空港問題 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%94%B0%E7%A9%BA%E6%B8%AF%E5%95%8F%E9%A1%8C
asahi.com:「あるある大事典」の納豆ダイエットで捏造 関西テレビ
http://www.asahi.com/life/update/0120/013.html
浅間山荘事件とは、1972(昭和47)年2月19日に始まる、長野県軽井沢町にある河合楽器の保養所「浅間山荘」において連合赤軍の坂東国男、坂口弘等5人が起こした事件である。
当時、連合赤軍は銃砲店を襲って銃と弾薬を手に入れて逃走を続けていたため、警察は必死になってその行方を追っていた。警察に追われていた連合赤軍のメンバーは、群馬県の山岳地帯に拠点「榛名山ベース」を構え、潜伏して逃避行を続けていたが、仲間内でリンチ殺人事件を起こす(山岳ベース事件)などして組織は極度に疲弊し、追い詰められていた。そして、警察の山狩りによって、榛名山や迦葉山のベースを発見された事をラジオのニュースで知ると、群馬県警の包囲網が迫っている事を感じ、群馬県を出て隣接する長野県に逃げ込む事にしたが、山中で道に迷い、偶然軽井沢へ出てしまった。そして、2月19日の正午ごろ連合赤軍のメンバーは軽井沢レイクニュータウンにあった無人のさつき荘に侵入し、台所などにあった食料を食べて休息していたが、検索中の長野県警機動隊一個分隊が近づいてきた事を察知し発砲。機動隊側もこれに応戦。午後3時20分ごろ連合赤軍のメンバーは、包囲を突破してさつき荘を脱出。さつき荘の近所にあった「浅間山荘」に逃げ込み、管理人の妻牟田泰子さんを人質に立てこもった。
浅間山荘がある南軽井沢の通称レイクタウンは、普段は静かな別荘地。連合赤軍の籠城で警察官はライフル銃で武装して連合赤軍が立てこもっている山荘の回りを二重、三重に取り囲んだ。彼らがたてこもって、10日目の2月28日午前10時、1500人の警察官の山荘突入作戦は始まった。催涙ガス弾と、激しい放水。大型クレーン車から吊るした大きな鉄球が山荘の壁を抜く。連合赤軍が銃で応戦。追い詰められた連合赤軍のメンバーが時折窓から顔をのぞかせる姿も・・・。浅間山荘に立てこもった連合赤軍の抵抗は警察官の予想を超えるものであった。最前線の指揮官が次々と狙い撃たれた。警察官達は、放水でバリゲードを壊し、一階に取り付くが、山荘の2階の犯人達は銃の乱射や手投げ弾で応戦。攻防は8時間余り続きずぶ濡れになっていた人質の泰子さんを無事救出し、弾を撃ちつくした犯人5人を逮捕したのは、午後6時15分だった。この時、警察官2人が死亡、テレビ・カメラマン1人を含む13人が重軽傷を負った。逮捕された坂東国男の父は「死んでおわびします」の遺書を残して同日自殺した。この日、NHKや民放テレビは約10時間に及ぶ現場中継を行い、人質を救出した午後6時代の視聴率は89,7%に達したという。
このような事件の起こる発端は、1960年代の学生による第二次反安保闘争がきっかけとなって始まった「東大・安田講堂事件」を頂点とした大学闘争終焉後、学生達の間ではシラケが進行し、一部のセクトが過激化、武装化への道を進み「武器蜂起」を狙う赤軍派と「銃口から革命が生まれる」を信条に掲げた京浜安保共闘が結成され、1971年9月両派は連合赤軍を組織して、軍事訓練を続けていた。そして、ついにこのような浅間山荘事件、へとつながっていくのである。
この「東大・安田講堂事件」が起こった経緯等については、以前に私のブログ「フランシーヌ・ルコントがパリで焼身自殺した日」の中で書いた。又、連合赤軍が浅間山荘事件の前に起こしていたリンチ殺人事件のことなどもブログ「連合赤軍リンチ事件で妙義山中に最初の遺体が発見された日」で書いたので、これらのことは書くのを省略する。
この事件の起こる前、全国をまたにかけ逃走を続けた連合赤軍に対し、警察庁では警備局・刑事局・全国の各管区警察局などが陣頭指揮を執り都道府県警察と総合調整を図って捜査していた。この事件に関する、事件の発端、警察の対応、事件の収束、事件が長期化した要因、事件後の情勢などは、Wikipediaに詳しく書いてあるので見られるとよい。
私の前のブログ「連合赤軍リンチ事件で妙義山中に最初の遺体が発見された日」の中でも触れたように、現・国民新党の亀井静香氏のHP「あさま山荘事件 無念の作戦失敗」で当時、亀井氏は警察庁警備局公安第一課課長補佐として作戦に加わっていたが、この事件では、”目の前で、内田尚孝警視庁第二機動隊長、特科車両隊の高見繁光氏の両警察官が撃ち殺され、多くの重軽傷者を出した。これは、警察のとった作戦の失敗であり、何より慚愧に堪えないのは、私の捜査が万全ならば、そもそも浅間山荘事件は起こらなかったという思いがあるからだ”と述べられているように、事件への警察の対応もよくなかったようである。
兎に角、この浅間山荘突入に関する様子は、テレビで生中継され、その日の総世帯視聴率は調査開始以来最高の数値を記録し、人質救出の瞬間は民放、NHKを合わせて90%弱を記録するという、1953(昭和28)年にテレビが、放送を開始して以来の中継記録を作った。世相に敏感なテレビっ子たちは、この年、学年末のお別れ会で「浅間山荘」事件を劇にした。「最近じゃ~、一番おもしろいニュースだったからね~」と、作・演出にあたった小学4年生。事件そのものについては、「はじめは勇ましいな~と思ったけど、つかまったときには、バカだな~と思った」など、子どもなりに見るところはきっちりと見ていた。(朝日クロニクル「週間20世紀」)・・・というから、一安心したものだが・・・。
1953(昭和28)年にテレビNHK東京テレビジョンが開局し、1959[昭和34)年、皇太子ご成婚で大きく飛躍し、一般庶民のメディアとなっていった。衛生中継の成功があり、1964(昭和39)年、東京オリンピックをはさみ、1960年代のテレビ報道は、まさに意気盛んであった。報道番組のみならず、ドラマ、ワイドショー、バラエティーなど全てが出揃って、百花繚乱、まさにテレビの黄金時代到来といったところであった。しかし、1960年代後半、ベトナム戦争が激化し、テレビが北爆を伝え、悲惨な戦争の映像をリアルに報道し、ハノイからの中継も入る事になったとき、テレビジャーナリズムは早くも一気に方向を変えることになった。そして、政府の番組への介入、相次ぐ番組の放送停止、テレビ報道現場の闘争の場化した。
さらに、成田空港反対闘争、大学闘争と続く中でキャスターの降板、記者や番組制作者たちの相次ぐ配転をうけて報道の自由を求める闘はやがて、職場の分裂をさえまねくこととなった時代があった。
以下参考の「MAMO's放送お騒がせ史「局や局員の事件事故・規制・放送中止・不祥事・テレビ珍事件を読む放送年表」を参考にされると良い。↓
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/mamos/data/oswgs60.html
それでも、ジャーナリズムとしての、テレビ報道は、速報性において、同時性において、独自性を持っており、1970年代前半の浅間山荘事件の生放送や、1990年代前半の湾岸戦争の衛生中継では視聴者をテレビの前に釘付けにした。しかし、テレビ、ジャーナリズによるベトナム戦争報道により、結果的に敗北を招いたとするアメリカは、湾岸戦争では、代理店が製作をしたビデオを放送するなどして世論作りを目指しプロパガンダを行っている。、テレビでは、フセイン像が歓喜したイラク市民らの手によって引き倒された映像などは、まさにそれだろう。しかし、日本のテレビは、そのような問題に自ら直面することなく衛生中継を垂れ流した。日本のテレビは米国のメディアの思う壺にはまり利用されたといえるだろう。
テレビの世界では特に民放テレビは、常に視聴率に脅かされる運命にある。かっては、番組の「偏向」などを理由に政府との激しい対立もあった。かっては話題のテレビドキュメンタリーを生み出した各テレビ局のドキュメンタリー枠もなくなって久しい。ドキュメンタリー番組が情報番組やバラエティー番組に変わり、そのそのどちらの危険からものがれることとなったのだろう。今視聴者が求めているものは、情報であり、エンターテイメントであり、せいぜいニュースの解説である。これから、デジタル放送時代に入って、ますます、テレビはジャーナリズムからは遠のいていく事になるのだろう。
いま、話題となっている関西テレビの「発掘!あるある大事典Ⅱ」の納豆ダイエット番組捏造事件は、酷すぎるが、捏造ではなくても、極端に誇張したものや、さももっともらしく大げさに報道している番組は多くありそうで、私なんか見ていると、ほとんどは、やらせの番組に近いように思われる。
テレビも昔のような生中継のものは少なくなり、製作もほとんど自ら行わず、下請け孫受けに作らせたものを、流しているようである。そして、殆どのものは編集し直してから放送されているものであり、フィクションとノンフィクションの境界は非常に曖昧なものとなり、全体としては「ドキュメンタリー」も以前ほど「真実」に近いものとしては受け入れられなくなりつつあるようだが、ジャーナリズムとしては、もう少し、ドキュメンタリーなものの放送に力を入れて欲しいものだ。
(画像は、浅間山荘事件を伝える2月28日付朝日新聞号外)
参考:
あさま山荘事件ーWikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%96%93%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6
フランシーヌ・ルコントがパリで焼身自殺した日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/48b242487e2d82ab97d721db7cb9ce72
連合赤軍リンチ事件で妙義山中に最初の遺体が発見された日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/bcebdb2c939e5cf2849cdd5e83df815e
東大安田講堂事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AE%89%E7%94%B0%E8%AC%9B%E5%A0%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6
MAMO's|テレビ資料集|放送年表(放送お騒が史―局や局員の事件事故 ...
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/mamos/data/oswgs60.html
メディア・トピックス(JCJ WEB PAGE)「NHKへの「放送命令」に対し新聞協会編集委員会代表幹事が談話を発表」
http://www.jcj.gr.jp/massinfo.html
三省堂辞書サイト]10分でわかる「メディア」
http://dictionary.sanseido.co.jp/topic/10minnw/040media.html
メディア (媒体) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2_(%E5%AA%92%E4%BD%93)
ドキュメンタリー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%BC
成田空港問題 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%94%B0%E7%A9%BA%E6%B8%AF%E5%95%8F%E9%A1%8C
asahi.com:「あるある大事典」の納豆ダイエットで捏造 関西テレビ
http://www.asahi.com/life/update/0120/013.html
お書きになっているブログの記事について、
少しうかがいたいことがありましたので、
ホームページよりメールアドレスを知り、
先週14日にメールさせていただきました者です。
もしかしたら迷惑メールと間違えられる可能性も
あるかと思いましたので、こちらのコメント欄に
書き込ませていただきました。
この記事とは関係のないことを書き込んでしまい、
すみません。メールをご覧いただけますと幸いです。
ご依頼の件、メール返送しておきました。
それにしても、ずーっと書き続けてこられて
いるんですね。すごいなあ。。。
いささかしんどくなっているのですが、3年間は続けようと思っています。