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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

疑わしきは罰せず

2016-05-20 | 歴史

上掲の画像は「白鳥事件」犯行声明ともみられるアジビラ
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刑事裁判は、犯罪を起こした疑いのある人が本当に犯罪を行ったのか(有罪か無罪か)。もし行ったとしたのならどの程度の刑罰を与えるのか(懲役や罰金など)などを決める裁判のことである。
「疑わしきは罰せず」(ラテン語:in dubio pro reo)は、ラテン語の直訳から「疑わしきは被告人の利益に」ともいう。
刑事訴訟(刑事訴訟法参照)において、被告人が有罪だということに「合理的な疑い」(※1)が残らないほどまでに、検察官証明しなければ、裁判所は被告人を有罪にしてはならないという原則を示す法諺(ほうげん)なのである。
その萌芽)は、すでにローマ法にみいだすことができるが、刑事訴訟においてこの原則が確立するのは、近代になって人権の尊重が強調されるようになってからであるらしい。被告人は「無罪の推定」(推定無罪参照)を受けるという原則と同じ意味をもつ。
つまり、「疑わしきは罰せず」の言葉は事実認定の過程を裁判官の側から表現したものであり、これを、当事者側から表現した言葉が「推定無罪」であり、ふたつの言葉は表裏一体をなしている。
フランス革命の際に発せられた人権宣言(人間と市民の権利の宣言)は、「すべての者は、犯罪者と宣告されるまでは、無罪と推定されるものである・・・」(9条。ここ参照)と規定し、世界人権宣言(1948年)も、「犯罪の訴追を受けた者は、・・・・法律に従って有罪の立証があるまでは、無罪と推定される権利を有する。」(第十一条の1。※2参照)として、この原則を明言している。
したがって、すべての者は、犯罪者と宣告されるまでは、無罪と推定されるものであるから、その逮捕が不可欠と判定されても、その身柄を確実にするため必要でないようなすべての強制処置は、法律により非常にきびしくに抑圧されなければならない(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)。
このように、刑事訴訟法では、訴える側に立証責任(証明責任)が有り、その証拠がなければ、裁判官は判決を下す事が出来ない。
その証明の程度としては、「合理的な疑いを差し挟まない程度まで」検察官が証明することが要求される。つまり、その証拠証明が、「合理的である」と裁判官が認められない場合、「疑わしきは罰せず」となるのである。
日本の場合、この「疑わしきは罰せず」は、戦後の「白鳥事件」の頃から、目立って来たのではないだろうか。この概念自体は以前から有っただろうが、「合理的である」証拠が重要とされたのは、近代になってから、1975(昭和50)年5月の「白鳥事件」の再審請求で、最高裁が「白鳥決定」で、「疑わしきは被告人の利益に」という原則を再審にも適用するとの判断を示して以降、冤罪の差し戻しが増えたのではないかと言われている。
しかし、皆さんはこの「白鳥事件」についてどのくらいのことをご存じですか?
「白鳥事件」とは、1952(昭和27)年1月21日に札幌市警本部警備課長白鳥一雄警部が射殺された事件である。・・・が、その詳細は、正直、私もよくわからない。
このような近代の歴史的なことについては、私はいつも参考にしている蔵書・朝日新聞出版の分冊百科『朝日クロニクル週刊20世紀』(ここ参照)や毎日新聞社版の『戦後50年史』などを手掛かりにし、これをもとに、ネットなどで調べながら書いているのだが、残念ながらこのどちらにも、詳しいことは何も書かれていない。
「白鳥事件」が発生した1952(昭和27)年の重大ニュー(国内)としては、以下のようなものがある(※4,※5参照)。
(1)4月28日、「サンフランシスコ講和条約」(日本国との平和条約)が発効し、GHQが廃止され、外国軍隊の占領から解放され主権が回復されたこと(ただし、沖縄皇居外苑で「血のメーデー事件」が発生したこと。デモ隊警察部隊とが衝突した騒乱事件であり、事件は一部の左翼団体暴力革命準備の実践の一環として行われたものと見られている(第13回国会本会議において木村篤太郎法務総裁より事件の概況、被害状況、その後の取締り及び背後関係に関する陳述。※3参照)。戦後の学生運動で初の死者を出した事件である。
(3 )4月9日の伊豆大島に旅客機(愛称「もく星号」)が墜落した航空事故「もく星号墜落事故」がある。戦後最初の旅客機として前年10がに就航した日本航空機が乗客乗員37名を載せて伊豆大島に衝突。一時は「全員救助」の情報も流れたが、24時間後原型をとどめない機体の残骸が発見された(乗客乗員全員が死亡)。当時の日本は敗戦による被占領下(日本国との平和条約が締結され占領が解かれたのは月末)[にあり、日本の空を日本人による自主的航空運営が認められていなかったが、アメリカ軍の協力も得られず事故の原因は不明のままである。
上掲の(1)~(3)については、『朝日クロニクル週刊20世紀』の1952年号にも詳しく書かれているが、「白鳥事件」のことについては、(2)5月1日の「血のメーデー事件」を取り上げた“地おメーデー、日本革命の夢はるか”と題して書かれている、2Pから5Pまでの記事の中に、「白鳥事件」としての記事といえるものはなく、冒頭の画像を掲載し、その添え書きとして、以下のように書かれているだけである。
白鳥事件
1月21日に札幌市警本部警備課長白鳥一雄(かずお)警部(36)が射殺されたる。白鳥警部が、労働運動や共産党対策にあたっていたことから、警察は共産党関係者の犯行と判断いた。一方、事件の3日後、犯行声明とも思える日共札幌委員会名義のアジビラ(冒頭の写真。画像クリックで拡大)が札幌市内でばらまかれた。共産党員が逮捕され、75年最高裁で有罪が確定したが、はっきりした証拠はなく、後味の悪い結末となった。97年、当時の容疑者の1人が中国で生存していることが分かった。
・・・と。
そして、このページの記事の下の欄外に、白鳥事件の影響として、「最高裁判決では、最審請求について、新証拠などによって確定判決事実認定に合理的な疑いが生じた場合、「疑わしくは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則が適用される、との判断を示した。これが、死刑が確定していた免田財田川松山事件の再審につながった。」・・・・と。
そして、ほかにも詳しく書いたところがないかを他の年度でも調べたが、年表のところに、以下の3件が記載されていただけである。
1952(昭和27)年号、1月21日:札幌市で白鳥一雄警部が射殺される(白鳥事件)。55年8月、容疑者として共産党員村上国治ほか2人を起訴。
1963(昭和38)年号に、10月17日:最高裁が白鳥事件上告審で2審判決(村上国治に懲役20年)を支持して、上告棄却。
1975(昭和50)年号に、5月21日:最高裁が白鳥事件で村上国治の最新請求を棄却。
・・・・と。

この白鳥事件は、敗戦後5年、サンフランシスコ講和条約の発効目前(調印=1949年)の、朝鮮戦争勃発(1950年)により日本が再軍備へと向かう混沌とした時代に起きた事件であった。
この事件は、冤罪か否かなど謎も多いのだが、先にも書いたように、朝日新聞社編の『朝日クロニクル週刊20世紀』でも“地のメーデー、日本革命の夢はるか”と題した記事の中に、そっと、冒頭のアジビラの写真を掲載し、それの添え書のようにして、、前述した程度のことがサラっと記載されているだけでその全容はわからないが、これが、権力に弱いマスコミのやり方なのだろう。しかし、他の書物やインターネットには、白鳥事件やそれに関連する事件について書かれたものは少なくない。
ただ、このような事件の場合、往々にして権力側に立つ者、また、その反権力者側の者など、それぞれの視点、イデオロギーのもとに書かれている場合が多く、白鳥事件の真相を私たちが判断するのは容易ではないが、以下参考の※6:「オワリナキアクム(事件録)」は、多くの資料を参考によくまとめた事件禄であり、わかりやすく書かれているので、時々私も参考にさせてもらっているページであり、まずは、Wikipedia-「白鳥事件」とともに、ここ(白鳥事件参照)を読まれると事件の全体像がよくわかるのではないか。
また、他では、元共産党の幹部で,同党のことに通じている社会運動研究家宮地健一夫婦が共同で作っている「宮地幸子と健一のホームページ」(※7参照)の“健一のMEN U”の中には、この事件に関連することが、資料も豊富に詳しく書かれており、参考にはなる。6、「逆説の戦後日本共産党史」の以下を参照。
1、朝鮮戦争と武装闘争路線, 
2、白鳥事件
3、メーデー事件
これを見ると、当時、武装闘争路線へと傾倒していく日本共産党の北海道内組織の動向と射殺事件の関係などもよくわかる。
『亡命者 白鳥警部射殺事件の闇』(筑摩書房。ここ参照)の著者 後藤篤志は,1948年に北海道紋別市生まれで,北海道大学の教育学部に学んでいる、まさに70年安保闘争の世代で、サッカーに熱中し,ベ平連のデモに参加する「ノンポリ」であった彼は、「白鳥運動」などを通して,「白鳥事件は冤罪だ」と思っていたが,「北大で白鳥事件のことになるとOBや先輩達の口が重くなるのを不思議に思っていた」という。そして、教育学部教授の布施鉄治のように,「権力への鋭い告発をしてきた反骨の学者」でさえ,「白鳥運動」に取り組もうとする人に,「冤罪と思っている人は北大にはいない。白鳥事件を三鷹事件松川事件と同列に論じる訳にはいかない」と釘を刺していたという。その声を聴いた彼が,その後、社会派ジャーナリズムとして、70年代から追いかけてきた白鳥事件の真相をまとめたのが同著だそうである。
確定判決によれば,白鳥事件は,日本共産党中核自衛隊の組織的犯罪とされている。
当時、共産党は細胞とよばれる基礎組織を日本全国の学校や党員の職場などで結成していたようだが、四全協・五全協軍事方針が実行に移されるようになるのは1952(昭和27)年に入ってからで、この白鳥事件、青梅事件(東京・青梅線の貨車暴走事件)、小河内村山村工作隊事件(東京小河内村の山村工作隊一斉検挙)と大小無数の武装衝突事件が起こっていた(日本共産党の戦後秘史(1))。、そのため、同年7月には日本共産党の武装闘争を取り締まるため破壊活動防止法が制定・施行されたくらいである。
北海道では、その前年(1951年)に炭坑から掘り出された石炭を輸送する列車を赤信号で停め、石炭を市民に奪わせる計画が暴露された(「赤ランプ事件」 3度とも失敗に終わる)があり、これに関わったとされるのが、白鳥警部射殺事件後に逮捕された村上らの面々だったようだ。
白鳥事件での共産党の武装闘争は無軌道で混乱したものだったが、これは、一方で当局の捜査も、実行犯が行方不明のまま、唯一の物証である弾丸の捏造(ねつぞう)疑惑を裁判官に指摘されるというものだった。
射殺された白鳥一雄は戦前・戦中は特高警察であり、ハルピン学院に派遣(留学)されていたこともあるとされており、終戦時も特高警察の外事係として情報収集にあたっていたようだが、戦後は札幌市警の警備課長として左翼運動を監視し、当時GHQ相手の売春婦の取り締まりや半ば非合法に活動していた共産党の取り締まりの実務を行っていたらしい。
当時、日本はまだ占領下にあったので白鳥は、占領当局(GHQ)との公然、非公然の情報取引も行っていたらしく、さらには、私的に情報収集の民間人(ヤクザ右翼)の協力を得ていたとの伝聞もあったようだ。
そんな白鳥警部殺害には、彼の具体的な行動に対する憎悪だけではなく,「特高」の匂いに対しての面もあったのかもしれない。戦前に治安維持法によって、共産主義者の名をもって逮捕されたものの数は定かではないが、数十万名にものぼり、送検後拷問などにより死んだ者の数は1600人以上いるという(※7の戦前の治安維持法等弾圧諸法令と被害の実態について参照)が,「特高」の匂いは,この組織の戦前から引き継いだ本能を強烈に刺激したのだろう。
また、当時、中・ソの共産党幹部は、日本の共産主義者の活動により、米軍占領地域で政情不安となり、あわよくば、赤色革命が起きればよいと考えていたようだ。
そんな中、日本共産党の中核自衛隊は、米軍に直接攻撃を加えることはせず、日本共産党の取り締まりを図る白鳥警部を狙った。・・白鳥殺害の動機にはそのようなことがあったのかもしれない。しかしいずれにしろ、人を殺害するといった大それた行動を数名の中核自隊員だけで勝手にやれるはずはなく、当然、上部からの命令でやったものであるようだ(元委員長の宮本顕治が深くかかわっていたといわれる。※7の白鳥事件と宮本顕治の関与度・党内外犯罪参照)。
逮捕された、村上國治には、刑事訴訟法上は無罪判決が下されるべきであったかもしれないが,判決後現われた多くの事実と証言によって,白鳥殺害への組織と村上個人の関与は裏付けられている。したがって村上有罪の各判決の結論は,仮に「誤判」(裁判官が誤って下す判決)と呼ぶことはできたとしても,「冤罪」と呼ぶべきではないようだ。
白鳥事件では,裁判官が適正手続外で認識する諸情勢は、村上國治の関与を強く指し示しており、札幌委員会および中核自衛隊関係者の証言によって,組織の関与も明白であるが、訴追側の行動にいくつかの逸脱があって,その最大のものは証拠弾丸の捏造だが,それにもかかわらず幌見峠で火器を使った軍事訓練が行われたという事実は完全に証明されているようだ。
しかし、組織は,「実行者」だけでなく,「目撃証人」をも当時日本と国交が無い中国に逃亡させるなど、意図的組織的な証拠湮滅によって実体的真実に迫る道を阻害しているという状況が存在していたことから考えると、白鳥事件をめぐる裁判結果は、村上有罪という官憲側の勝利と「白鳥決定」という弁護側(共産党側)勝利の相打ちに終わったともいえるようだ。

「疑わしきは罰せず」(ラテン語:in dubio pro reo。ラテン語直訳:「疑わしきは被告人の利益に」)は刑事裁判における原則である。
1975 (昭和50)年5月 20 日、最高裁がこの「刑事裁判の鉄則を再審にも適用すべき」などとする画期的な「白鳥決定」が出てから 今年で、41年目になる。「白鳥決定」以前は、再審は「開かずの門」と言われて、幾多の事件で無実を叫び続ける悲痛な叫びも、裁判所の厚い壁の前に押しつぶされる時代が長く続いてきたが、「白鳥決定」以降その流れが変わった。
刑事裁判の大原則「疑わしきは罰せず」は、刑事裁判での冤罪は被告人の人権に回復不可能な侵害をもたらすため、刑事裁判は慎重に行うべきであり、「間違いなくこの人物が犯人だ」という確証がない限り、有罪判決を言い渡すべきではないという意味であるが、現実に、法廷で、どれだけ徹底されているのかは疑問があるようだ。
日本では、前科のある被告、とくに暴力団関係者に対しては、「疑わしい」だけで有罪判決が言い渡されている現実があるという。
例えば、薬物事件の裁判で被告人が「飲んだ酒の中に薬物が入っていたのに気が付かなかった」と主張し、別の人物が酒の中に薬物を入れたと証言したとしても、被告人に同種前科があれば自発的に飲んだと認定され、有罪判決が言い渡されているという(※8参照)。
この例は、近年の日本の犯罪史(日本の刑事事件の一覧 参照)上、帝銀事件( 1948年)や和歌山毒物カレー事件( 1998年)とともに三大毒殺事件の一つとも言われている三重県名張市葛尾(くずお)地区の公民館で起きた毒物混入事件「名張毒ぶどう酒事件」(1961年)のことであろう。この事件は再審請求取り消しをめぐって「疑わしきは罰せず」の原則が注目を集めた。
日本弁護士連合会が、基本的人権を著しく侵害するもののひとつが冤罪事件であることに鑑み、冤罪事件である可能性のある事件を人権侵犯事件(人権が侵害された疑いのある事件)として特に支援している最初の事件である(日本弁護士連合会が支援する再審事件参照)。

地方局(東海テレビ)が作った異色のドキュメンタリー『ヤクザと憲法』(2015年3月放送)、それに続く 『ふたりの死刑囚』(2015年10月放送)が、再編映画化もされ、ミニシアターで上映されて話題になった。
前者には、“暴力団対策法から20年”の サブタイトルがあるように、憲法14条が定める「法の下の平等」に、ヤクザは含まれるのかという問題を指している。ヤクザ、一般市民には怖い存在だが、そんなヤクザにも妻や子など家族がいる。そんな家族を養っていかなければいけない。しかし、暴対法のおかげで生活が苦しくても足を洗えないという現実がある。
『ふたりの死刑囚』は、1966年に静岡で発生した強盗殺人放火事件「袴田事件」の袴田巌死刑囚(2014年に約48年ぶりに釈放)と、「名張毒ぶどう酒事件」の奥西勝(獄死)の今を追ったもの。
特に地元局の使命として、「名張毒ぶどう酒事件」は代々の記者たちが長期取材を敢行し、その過程で確証を得た奥西勝死刑囚の冤罪を訴え、映画『約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯』(2013年公開)も発表している。
冤罪を晴らすべく支援した人たちの努力は報われず、容疑者として逮捕・起訴された奥西は、裁判では一貫して無罪を主張したが、1972年死刑判決確定後、死亡するまでの43年にわたり確定死刑囚のまま収監され続け、再審請求を出し続けていたが刑が執行されることなく、2015年に89歳で獄死している。以下は弁護士をしている人のブログだが中に映画の動画など張られているので興味のある方は見られるとよい。

映画『ヤクザと憲法』(東海テレビ)を観たいと思いませんか?

奥西氏の死の後に残るのは、司法に対する絶望的なまでの不信感である。その後、2009(平成21)年5月21日には裁判員制度が施行されるなど、大きな刑事司法改革が行われ、 一部の事件には取り調べの全過程の録音・録画を義務づけるなど、制度の改革が行われてはいる。しかし、過去の裁判の誤りを認めることについては、裁判所の姿勢はほとんど変わらず、実に消極的だとの指摘がある。いくら有罪判決の根拠が崩れても、DNA鑑定や真犯人の出現などによって、別の犯人像が証明されでもしない限り、なかなか再審の扉「(開かずの門」)は依然として開かないようだ。
裁判員制度導入により、国民も裁判員として刑事裁判に関与し冤罪事件に無関心ではいられない時代を迎えている。この機会に、少しは勉強しておかないといけないだろう。 

このような冤罪事件とは逆に、日本ではこの「疑わしきは罰せず」の原則に反して密室で起きた性犯罪強姦強制わいせつ痴漢など)やセクシャルハラスメントに関係する裁判では、被害者の証言が全面的に採用され「疑わしきは罰する」と言うが如き判決が相次いでいるとの指摘もある。
また、交通事故等の過失犯にも、「疑わしきは罰せず」の原則が適用されにくい印象があるという。被害者が死亡して、目撃者がいないうえに物証(「物的証拠」)が乏しく、被害者の一方的な過失によって事故が生じた可能性がある場合でも、被告人の過失行為が事故の直接的な原因になったと認定され、有罪判決が言い渡されることが少なくないそうだ。
これは被害者や遺族の処罰感情に、裁判官が配慮しているためのようで、疑わしいが絶対的な証拠のない被告人を原則通りに無罪放免していたのでは、社会が納得せず、司法制度への支持が揺らぐことも避けられず、このような現実を前に、原則が棚上げされているのが実態なのだという。
そして、奇妙なのは、刑事裁判でより厳格に適用されるべき「疑わしきは罰せず」の原則が、むしろ民事裁判(民事訴訟参照)において、立証のハードルを高くする形で反映されるケースが目立っているという。
ある会社で経理部長がお金を使い込んだとしても、会社が返還を求めて経理部長を訴えても、民事裁判で返還が命じられるのは、経理部長が遊興費に当てたことが領収証で証明されている場合など、完全な「クロ」の部分に限られている。消去法からすると使い込んだ人間が経理部長以外に考えられない場合でも、原告である会社が実際の使い込みを領収書等で証明しなければ、経理部長に返還を命じる判決が言い渡されることは、ほとんどない。被告である経理部長は、正当な用途にお金を充てたことを立証する必要さえなく、端的に言えば「わからない」「知らない」と法廷で述べるだけで充分。それは、不正行為を証明する責任が原告側にあるためだそうである。
「疑わしきは罰せず」という原則が、むしろ民事裁判に反映されていることについては、社会正義の観点から疑問であることが少なくないが、薬害C型肝炎の被害者が高い立証のハードルの前に敗訴した例もあり、被害者の救済という観点からすると民事裁判に「疑わしきは罰せず」の原則を反映する形で立証のハードルを高くすることは、本末転倒という意見もある(※8参照)が、その通りだろう。

政治資金規正法は、政治家や政治団体が取り扱う政治資金について規定した法律であり、「規正」(※9のここ参照)が正しく、「規制」ではない。
辞書には「規正=(不都合な点を)正しい方へ直すこと」「規制=予測される好ましくない事態に備えて、何かに制限を設けること」(新明解国語辞典)となっている。それなら「規制法」でいいじゃないかと思うのだが・・・。
この法律は、政府から補助金をもらった企業が、一年以内に政治家に献金をするのは違法だ、・・・・というものだが、それは言い換えれば、政治家が企業から献金を受けたとしても、寄付を受けた企業・団体が、国から補助金を交付されていたのを、政治家が「知りませんでした」と言えば、違法にはならないということ。だから、政治家さんに何を質問にしても都合の悪いことは「知らない」・・・と答えておけば違法にならない・・・。
また、政治資金の支出については、ほぼ規制していないため、この法律は全くのザル法との批判が多い。
今、東京都の舛添要一知事の三つの政治団体(※9ここ参照)の政治資金収支報告書(※9のここ参照)(2012~2014年)を精査した『週刊文春』に暴露された一連の公私混同の政治資金乱用についての記者会見での弁明については、その内容たるや全く常識では考えられないひどいものばかり、家族旅行でいった正月の温泉リゾートでの多額の支出は「会議費用」で計上されていたりしているが、舛添氏に事実関係を尋ねても、「すべて法的に適切に処理しています」との回答。
政治資金規正法は収賄があるかなど不当な収入に対する規制は厳しいが、その使途(金の使い方)は収支報告書に虚偽の記載がない限り法的には触れないことになっている。追及する方は、常識から考えて、いくらおかしいと思っても、それが、虚偽の記載だとする証拠を見つけない限り、恥も外聞もない人間がのらりくらりと、いい加減な回答をしていても、罪にはならないようになっている。全くのザル法である政治資金規正法を盾にとっての釈明である。
法律そのものに欠陥があるのだから改正が必要なのだが、、改正をするにしても「正しい方へ直す」のではなく、政治家自身にとって都合のいい抜け道作りに腐心するだけのことだろう。政治不信を払拭するには、献金・寄付の厳しい規制法が必要なのだが、そもそも何のために税金を使って政党交付金を設けたのかわからないよね~。

舛添要一の関連ニュース一覧 - Yahoo!ニュース

参考:
※1:法廷用語の日常語化に関するPT最終報告書・第2 4)評議(Adobe PDF)
http://www.nichibenren.or.jp/ja/citizen_judge/program/data/houteiyougo6.pdf#search='%E6%9C%89%E7%BD%AA+%E5%90%88%E7%90%86%E7%9A%84%E3%81%AA%E7%96%91%E3%81%84'
※2:世界人権宣言(仮訳文)-外務省
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html
※3:“第13回国会 本会議 第38号”. 衆議院 (1952年5月6日). 2009年5月25日閲覧。)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/013/0512/01305060512038c.html
※4:世界の出来事100年史: 1952年(昭和27年、壬辰)
http://e-ono.com/nen2/1952.html
※5:ザ・20世紀:1952年
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1952.html
※6:オワリナキアクム(事件録)
http://yabusaka.moo.jp/c.html
※7:宮地幸子と健一のホームページ
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/
8:第28回 疑わしきは罰せず?罰する?|北海道経済 連載記事|しらかば法律事務所
http://www.potato.ne.jp/shirakaba/hkeizai/28.html
※9:総務省・政治資金
http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/index.html
刑事裁判の全て|知っておくべき基礎知識|厳選 刑事事件弁護士ナビ
https://keiji-pro.com/columns/18/

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