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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

1881年、東京て『東洋自由新聞』が創刊された日

2016-03-18 | 歴史
1881年(明治14年)3月18日、東京で『東洋自由新聞』が創刊された。山城屋の稲田政吉を社主とする東洋自由新聞社発行によるものである。
山城屋の稲田政吉については、Wikipediaで調べても分からなかったが、明治期の評論家・翻訳家、・小説家でもある内田 魯庵(*1参照)」の『銀座繁昌記』(*2)の中見出し「銀座の本屋 ―稲田政吉と兎屋と鳳文館」の中に、当時の銀座の新らしい文化を代表する出版社博聞社や報告社大野堯運(おおのぎょううん)の他に、「江戸時代からの古い暖簾では山城屋政吉というのがあった。これも西側の銀座二丁目の、タシカ今の三枝小売部の所に『江戸名所図会』にあるような古い行燈看板を出していた。銀座の新市街を第一に讃美した『東京新繁昌記』(服部誠一著、*3 参照)の出版人であるし、本屋としても毛色の変った男であったから、やはり銀座人物伝の中に加えねばならない一人である。
「山城屋稲田政吉はその頃の商人としては四角な難かしい字(※漢字のことだろう)も読み、のちに府会議員となって府政にあずかった程の口利きで・・・」などと紹介されている。

明治六年政変後、下野した板垣退助は1875年(明治8年)に、福沢諭吉明六社系の啓蒙家によって,ヨーロッパから紹介された自由・民権思想に基づいて, 藩閥政治に反対して国民の自由と権利を要求した政治運動・ 自由民権運動を全国的に展開する為、愛国社を結成したが、政府の参議に復帰するなどしたために愛国社はすぐに自然消滅した。
3年後の1878年(明治11年)9月に愛国社は再興されて大会が開かれた。翌年11月に開かれた第3回愛国社大会では国会開設請願の署名を集める事と全国で遊説(ゆうぜい)を展開する事が決まった。
こうして、国会開設を目標とする全国運動は、同時にそれまで旧士族中心だった運動が、新たに豪農豪商を出身とする者らも加わった運動に転換していった。これに伴い愛国社についても、板垣など高知県の立志社中心の運営に対する批判が高まり、1880年(明治13年)3月15日に第4回愛国社大会が大阪の喜多福亭で開かれたが、2府22県から愛国社系以外の政治結社代表を含む114人が参加し、国会開設請願を求める約8万7000人の署名が集まったことから、17日には会場を太融寺に移し、愛国社とは別個に国会期成同盟の大会が開会される事態に陥り、結果的に、当大会を以って、愛国社大会は国会期成同盟大会に衣替えすることになった。大阪市北区の太融寺大師堂横に国会期成同盟発祥之地碑がある*4参照。


規約の内容としては、各地の政治結社との連絡の為に常備委員を設置する事、国会開設請願書を天皇に提出する事、国会開設の請願が天皇に聞き届けられなかった場合には、同年11月に大会を開く事、国会開設が実現するまでは国会期成同盟を解散しない事、などが決まった。
国会期成同盟は河野広中片岡健吉を請願の代表として選んで東京に出向き、国会開設請願書である『国会ヲ開設スル允可ヲ上願スルノ書』(*5参照)を太政官および元老院に提出しようとしたが、政府は請願権を認めず却下した。また、政府は4月5日に太政官布告として集会・結社の自由を規制する法令である集会条例 (明治13年太政官布告第12号)を制定して自由民権運動を圧迫、弾圧した。
こうした政府の動きに対して自由民権運動を展開する勢力は反発し、個別に建白書や請願書を政府に提出するなどして自由民権運動は盛り上がりを迎えていった。
そして、1880年(明治13年)国会期成同盟第2回大会において、河野広中・植木枝盛松田正久らから政党結成の提案が出され、これに基づいて同年12月15日に、嚶鳴社沼間守一草間時福、河野広中、植木枝盛、松田正久らは会議を開いて、沼間守一を座長とした自由党 (準備会)を結成したが、ここで政党準備は可決されたものの、機関紙発行は否決されたため、のちに自由党に参加するグループが企画したのが1881年(明治14年)の今日3月 18日に創刊された『東洋自由新聞』であった。

1871年(明治3年)12月、華族西園寺公望は、官費でフランスに遊学のために出国し、以後10年近くにわたってフランスやヨーロッパの知識や思想、文化を吸収していったが、その間、後にフランスの首相となる8歳年上で急進党の政治家クレマンソーレオン・ガンベタ、留学生仲間の中江篤介(号:兆民)・松田正久・光妙寺三郎らと親交を結び、こうした人脈は帰国後も続いた。
そして、1880年(明治13年)10月21日には遊学を終え、10年ぶりに帰国したが、西園寺は特に職に就くこともなく、ぶらぶら遊んでいると、留学生仲間だった松田正久が、新聞を出すから社長になってくれと誘ってきたという。この新聞が、自由党結党に向けて準備され、自由民権運動の中心的言論機関たらんとして創刊された『東洋自由新聞』であった。
西園寺は社長に、松田が幹事となり、同じくパリで知合った中江兆民を主筆に据え、光妙寺三郎に編集委員を任せた。
おりからの自由民権運動の高揚のなかでフランス的な自由民権論を展開し、とくに、中江兆民の執筆になる社説は,当時の自由民権思想のなかでも卓越していた。
そのほか国内政治状況、外国事情などの報道記事も充実していたようだが、政府と対立する自由民権運動の高揚期に、清華家筆頭である西園寺が新聞を主宰するということの社会的影響を恐れた三条実美岩倉具視らは、西園寺に新聞社社長からの退社を画策したが、西園寺はこれを拒絶するも、4月8日、明治天皇の極秘の内勅によって強引に身を引かされた。
さらにこのいきさつを檄文(を書いた文章)にして全国各地の民権家に暴露した東洋自由新聞社社員の松沢求策らが逮捕されるなど、言論弾圧の影響を受け、資金提供者である社主(山城屋稲田政吉)が手を引くと、資金も欠乏し、経営的に行きづまり、結局、同紙は、同年4月30日の34号で休刊に陥り、事実上の廃刊となっている。


明治時代に、国民に最も大きな影響を与えた思想家と云えば、福沢諭吉と中江兆民の二人ではないだろうか。
福沢は「文明開化」を、兆民は「自由民権」をリードした。福沢の『学問ノススメ』(*6参照)は明治期最大のベストセラーであったし、兆民の『民約論』(ルソーの『社会契約論』の訳書)は民権派青年たちのバイブルであった。
兆民は福沢よりちょうどひとまわり下で、福沢は九州の中津藩、兆民は四国の土佐藩と、ともに軽格武士の生まれであるが、どちらも長崎に留学し、外国語を修めた。
その後、福沢は、大阪の蘭学者・緒方洪庵に学び、22歳で適塾の塾長にあげられ、3年後に勝海舟咸臨丸で渡米している。
兆民は幕府の語学所学頭平井義十郎からフランス語を学ぶなど外国語習得に努めたのち江戸に入り、福地桜痴(源一郎)の日新社の塾頭となりフランス語を教えたといわれる。これも23歳だというからいずれも俊才と云うほかはない。
福沢は1867年(慶応3年)までに三度も外遊し、欧米社会の仕組みを詳しく実地研究している。帰国後自分に謹慎を命じた幕府にあいそをつかし、独立自尊の自由人として生きることを決意、1868年(慶応4年、明治元年)に開校したのが慶応義塾である。
当時、江戸は維新の戦乱の渦中にあったが、官軍と彰義隊の合戦が起こる中でもF・ウェイランドの『経済学原論』(The Elements of Political Economy , 1866)の講義を続けたといわれている。
そのことは「上野の戦争」として『福翁自伝』に書かれており、その一文に、「世の中に如何なる騒動があっても変乱があっても未だかつて洋学の命脈を断やしたことはないぞよ、慶応義塾は一日も休業したことはない。この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である。世間に頓着するな」と申して、大勢の少年を励ましたことがあります。」(「福翁自伝」岩波文庫P202 〜203 )・・と、自負している。
『学問ノススメ』の「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズト云ヘリ」は、福沢の意図を超えて独り歩きをしてゆく。彼の塾生の中から植木枝盛のような人物が産まれてくるのもそのためだった。
ただ福沢の文明論や自由主義は「一身独立して国家独立す」(「独立自尊」*7参照)の言葉にあるように、あくまで国家の独立を目的にしたものであり、国家を超える平等主義をめざすものではなかった。だから欧米帝国主義のアジア侵略が激しくなると、その欧米に対立するのではなく、日本もアジアの悪友と手を切り文明国として大陸に進出せよと主張するに至った。『脱亜論』(1885年)いわゆる脱亜入欧のすすめである。その限り、現実主義者福沢と明治政府の間に対立はない。
それに対して中江兆民の道は異なる。彼は岩倉使節団の随行留学生の一人としてフランスに滞在(1871年~1874年)し、民権思想を身に着けて帰ってきた。そして、仏蘭西学舎(後の仏学塾)を開いて後進を育成、自由民権時代には板垣退助率いる自由党を支援し、『東洋自由新聞』の主筆や、同新聞が廃刊となると、翌1882年(明治15年)には自由党の旗揚げに関わり、党発行の新聞である『自由新聞』の社説係を務めた。
福沢が大隈重信らの立憲改進党を支持し、『時事新報』を発行したのに対抗している。
自由民権派の主流が国権論や大陸進出肯定(徳富蘇峰なども賛同)に傾いていったとき、兆民は名著『三酔人経綸問答』(1887年)を書き、東洋豪傑君流の現実主義帝国主義を批判している。

●上掲は、『三酔人経綸問答』

洋学紳士君の徹底した民主、平等、平和を求める理想主義がこの本に登場するのも兆民らしい。
『三酔人』は、西欧列強の強圧の下で、後進国で弱小国の日本はどのような外交方針を立てればよいか、という基本テーマをめぐって三人三様の意見が提示される。紳士君のような理想主義と豪傑君のような「現実主義」との両極文化を乗り越えて、理想を持ちながらも現実を直視していた南海先生が示唆しているような「ほんとうの現実主義」を身につける必要があるのだろう。「明治思想文学の最高傑作の一つ」とも称されるこの書、参考*8:「中江兆民の『三酔人経綸問答』」で読めるので興味ある方は是非読まれるとよい。
晩年の福沢が順風満帆だったが、兆民は挫折に次ぐ挫折と波乱盤上だった。中江兆民は、強靭な人権意識の上に立つ理想主義者であったが、純な愛国者でもあった。
フランスでルソーの自由・平等(民主主義)の思想にひかれ、自由民権思想の精密化に力を注いだ兆民であるが、その精神の基層(ある事物の根底に存在して、その基礎をなしているもの、基盤)には幕末の藩校教育でうけた儒教の精神が色濃く流れていた。
思想家であり、教育者であったという点で福沢諭吉に共通するが、儒教にたいする態度は対蹠的であった。
帰国後は自宅にフランス語による歴史、法律、哲学を教える仏学塾を開設したが、そこでは漢学も重視しており、1875年(明治8年)には東京外国語学校大学南校の後身である開成学校の予科)の校長にもなるが、就任すると「徳育の根本」に「孔孟の教え」(孔子孟子の説いた仁義の教え。儒教。儒学。 )を加えるべきと主張して、「西洋化」による実学主義(実用と実践を重んじ、日常生活に即した具体的・実際的な学習を中心とする立場.。福沢諭吉の思想にその典型がみられる)を推進する文部省と衝突して、結局、校長を辞任している。兆民の儒教の尊重は兆民の政治思想の基礎にもみとめられる。
彼の思想の特徴が最も明瞭に表われているのはその自由観であり、『東洋自由新聞』第一号(*9:*10参照)の有名な社説には、自由の主旨を「リべルラー・モラル(心神の自由)」と「リベルラー・ポリチック(行為[政治]の自由)」に分類し,前者について次のように説明している。
「第一のリベルラー・モラルとは、わが精神や思想が、けっして他のものの束縛をうけず、完全に発達しきって、あますところがないのをいうのである。古人がいったように、道義(人としてふみ行うべき道。道徳道理)に合致した、いわゆる「浩然の一気」(『孟子』)がこれである。内をかえりみてもやましくなく、反省してもはずかしくないのがこれである。.
いいかえれば、天地に俯仰してはじることがないことであり、外にたいしては、政府や教門によって妨害されず、活発自在で、走りうるところは、どこまでも走り、自由に突進し、ますます進んですこしも撓(たわ)まないものである。だから、「心思(思い。考え)の自由」は、われわれが本来もっている基盤であり、第二項目の「行為の自由」からはじまって、その他すべて自由のたぐいは、みなここに基礎をもつのである。およそ、人生の行為、福祉、学芸は、みなここから出発している。つまり、われわれが今もっとも留意し、養いそだてるべきもの、これより尊いものはない。」・・・と。
兆民はここで道徳的主体としての個の確立こそが自由の基礎だということを強調しており、」西洋における自由意思の問題について、日本的な考え方を交えて論じている。
兆民はまた、『東洋自由新聞』第三号社説(、明治14年3月24日)の「君民共治の説」では、「君民共治」(君主と、人民の代表者である議会とが、共同で国の政務に当たること。君民同治ともいう) を主張。形は天皇を認めるが、イギリスに似た政治形態(国王はいるが、宰相を選ぶのも、法律を作るのも人民である)を考えていた。実を主として考えれば共和制を君民共和といいかえればよいと主張しているのである。
福沢が『帝室論』(*11、*12 参照)で述べた天皇を人身収攬の符にしようとした見解とは雲泥の差があった。
しかし、そこで兆民は現実に天皇の権威を思い知らされるのである。
先にも書いた通り、社長の西園寺は明治天皇の「内勅」によって、辞任に追い込まれ、4月30日に34号をもって廃刊となった。この時、社長の西園寺の退社について、社説で「西園寺公望君東洋自由新聞社ヲ去ル」を書き、同日の雑誌記事で、「嗚呼天自由を我に与へて又、天之を奪ふ」と述べて、退社は天皇の意向であることを暗示し、それを翌日の新聞社説「天の説」でも暗喩的な解説をしているそうだ。
福沢が反儒教の立場で、実用の教育と資本主義化をめざしたのにたいして、中江は儒教の精神から民主主義の実現を追求していた。そのような観点から教育も考えていた。だからであろう、兆民の仏学塾は慶応義塾のように繁盛はせず、政府の私塾つぶしの政策によって1888年(明治21年)には廃塾においこまれてしまうのである(*13:「儒教教育の日本的展開」参照)。
(冒頭画像は東洋自由新聞. 1号)
参考:
*1:作家別作品リスト:内田 魯庵―青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person165.html
*2:銀座繁昌記
http://e-freetext.net/ginza_hanjyouki.txt

*3:東京新繁昌記 - 古典籍総合データベース - 早稲田大学
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%93%8C%8B%9E%90V%94%C9%8F%B9%8BL
*4:発祥の地コレクション/国会期成同盟発祥之地
http://hamadayori.com/hass-col/culture/KokkaiKiseidoumei.htm
*5:画像 「国会ヲ開設スル允可ヲ上願スルノ書」 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/site_nippon/kensei/shiryou/limage/Gazou_30_1.html
*0000・作家別作品リスト:福沢 諭吉
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person296.html
*0001: 「一身独立し一国独立す」独立自尊の真髄とは
http://www2s.biglobe.ne.jp/~yukiya-s/home-2/fukuzawa.htm
*0002:中江兆民の『三酔人経綸問答』
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/nakaechoumin.html
*0003:国立国会図書館デジタルコレクション - 東洋自由新聞. 1号
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8664049
*0004:『東洋自由新聞』論説
http://blogs.yahoo.co.jp/rkfjj865/folder/1501606.html
*0005 :デジタルで読む福澤諭吉 > 帝室論 - 五 頁
http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=99&PAGE=5
* 0006::1/14 福沢諭吉「帝室論」現代語訳
http://kakaue.web.fc2.com/doc/teisituron.pdf#search='%E5%B8%9D%E5%AE%A4%E8%AB%96'
*0007:儒教教育の日本的展開(PDF)
https://ir.lib.shizuoka.ac.jp/bitstream/10297/477/1/KJ00004293322.pdf#search='%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B%E5%90%9B%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%96%B0%E8%81%9E%E7%A4%BE%E3%83%B2%E5%8E%BB%E3%83%AB'
『日本式 自由論』
http://nihonshiki.sakura.ne.jp/ziyu/ziyu0.html
松本清張「火の虚舟」を読む11~20
http://sarushibai.hatenablog.com/entry/2016/02/27/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E6%B8%85%E5%BC%B5%E3%80%8C%E7%81%AB%E3%81%AE%E8%99%9A%E8%88%9F%E3%80%8D%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80%EF%BC%91%EF%BC%91%EF%BD%9E%EF%BC%92%EF%BC%90
独り歩きする「脱亜論」 - 朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/international/history/chapter02/memory/01.html
日本思想史入門講座
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/2663/nihonshisoushi/mokuji.htm


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