今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「ニコヨン」の言葉が出来た日

2006-06-11 | 歴史
今日(6月11日)は「ニコヨン」の言葉が出来た日。
1949(昭和24)年の今日(6月11日)、 東京都が失業対策事業の日当を240円に決定。100円札2枚と10円札4枚であることから、これをもらう日雇い労働者を「ニコヨン」と呼ぶようになる。
失業対策事業は戦後の失業者を救済する目的で始めたもので、政府は1946 (昭和21)年に公共事業における失業者優先の原則を定め、1947(昭和22)年11月30日に職業安定法を公布、翌12月1日から実施。1948 (昭和23)年に失業者吸収率を設定するなどしたが、あまり効果はなかった。
当時、町で繁盛していたのは闇屋とかつぎ屋だけ。戦争が終わって、町は復員してきた兵士と海外からの引揚者でごった返し路上には、職につけない人、貧しい人があふれ、これらの人は「浮浪者」と呼ばれた。 インフレで、主食の米などもはうなぎ上りに上昇し、この年の、10月には米1升180円。物は無く、生活もままならない日々が続いていた。そこで、政府は、1949 (昭和24)年に法律第八九号緊急失業対策法を制定し、国が、自らの費用で、または地方公共団体等が、国庫から全部もしくは一部の補助を受けて実施する失業対策事業を始めることにした。この時の日当が240円で、これを貰う労働者が、「ニコヨン」と呼ばれたのである。この失業対策は、1950(昭和25)年にはさらに、大都市で特別失業対策事業を実施するとともに、公共事業費として970 億円を運用し、雇用量の増大と雇用の安定を図った。しかし、1954(昭和29) 年には、完全失業者が過去最高の84 万人を超えたといい、失業対策事業の規模拡大、特別事業の実施を迫られ、また、1959 (昭和34)年には労働者の最低生活を保障する最低賃金法が制定されるなど、失業者の増加と賃金切り下げを防止するための策が採られた。失業対策事業は、ようやく、1970(昭和45) 年代後半から労働政策として維持運営すべきかどうかについて議論されるようになり、1980(昭和55) 年には失業対策制度調査研究会が「基本的には終息する段階にある」という報告を行い、政府は失業対策を縮小してきたが、皮肉にも、戦後最大の不況の最中の1995 (平成7)年に、緊急失業対策法は廃止され、失業対策事業は打ち切られた。
日本は、戦後、朝鮮特需などの幸運にも恵まれ、1964(昭和39)年の東京オリンピックを境に高度経済成長をしたが、その時代の都市基盤の整備を支えたのが山谷、釜ケ崎に住んでいた日雇人夫たちだった。1960(昭和35)年当時、東京の山谷や、大阪の釜ケ崎といわれる地域には200軒以上の木賃宿があり、そこには、ニコヨン、日雇人夫などといわれる人が1万人近く住んでいたという。このようなところに日雇い労働者が集まったのは、そこに、建設現場などの仕事を仲介する手配しが立ったからとも言われている。日雇い人夫は、仕事がある日は雇用され、仕事がない日は雇用されない。景気の調節弁としての日雇い労働者は退職金は要らないので使う方にとっても便利そのもの。当時の建設産業(土木・建築・港湾)などは、日雇い労働者を組み込むことで成立していたともいえるのではないか。しかも、手配師などを含む重層的な下請制度の下でのピンハネもされている。
幸いにも、何らかの職についているサラリーマン達は、“ぜいたくしなけりゃ 食えるじゃないか。笑って暮らせば 何とかなるさ”・・・・・
フランク永井の歌う「一三,八〇〇円」(吉田 正作詞作曲)の歌に己を励ましていた時代である。
“ニコヨン殺すにゃ刃物は要らぬヨイヨイ 雨の5日も降ればよい ヨイヨイ デッカンショー”・・・兵庫県篠山市を中心にした盆踊り歌「デカンショ節」の替え歌であるが、こんな替え歌が流行っていた1949年の流行語には、「アジャパー」・・伴淳三郎が浅草の軽喜劇で使った流行後で、「あれ、まぁ」と驚いた時に使う、 や「自転車操業」 の言葉も流行った。当時、悲惨な状況に置かれていた中小企業は、倒産を避けるため、赤字を覚悟で操業を続けていくしかなかったのである。
”今日の仕事はつらかった  あとは焼酎をあおるだけ  どうせどうせ山谷のドヤ住い ほかにやることありゃしねえ  
中略・・
工事終ればそれっきり おはらい箱の俺たちさ いいさいいさ山谷の立ちん坊 世間うらんでなんになる
人は山谷を悪く言う、だけどおれ達いなくなりゃビルもブルも道路も出来やしねえ、誰もわかっちゃくれねえか"
以下略。
1968(昭和43)年の流行歌『山谷ブルース』は、高石ともやなどと同じように自らも釜ガ崎に住んでいたという、フォーク歌手の岡林信康(作詞、作曲、唄 )が、この中で、その日暮らしの肉体労働者の 悲惨な生活を告発している。
多くいる関西のフォークのアーティストの中でも、社会的なメッセージを歌に込め、日本のディランと騒がれた岡林信康の歌は、一味違う。
山谷ブルース作詞:岡林信康 作曲:岡林信康 唄:岡林信康
ここ↓で聞けるので一寸聞いてみる?
http://www15.plala.or.jp/hiroiosa/index-ikinuki-mysong-sanyablues.htm
「ニコヨン物語 」(1956年)という映画もあった。物語は失業して山谷にやってきた大坂志朗がニコヨンとなり働く話し。ドヤで知り合った三國連太郎から貯金や仕事にありつくコツ等の
ニコヨン生活の知恵を伝授されたり、貧乏に耐えかねて睡眠薬で一家心中を図るが薬を買う金がなくて未遂で終わる親子の話しなどが綴られる。ラストはニコヨン仲間で団結、メーデーに参加するところで終わる。
現在では職安は「ハローワーク」という。ニコヨンは差別用語に指定され「日雇い労働者」「自由労働者」と呼ぶようになった。時代は変わったが現代も、バブルが弾けて以降ようやく、景気は回復基調の模様であるが、企業のリストラなどにより職につけない人も多くいる。ただ、昔は、本当に働きたくて職そのものがなった。しかし、今の時代は、昔とは、少し状況が違っている。それは、ミスマッチだろう。今は、日本も国際化の中で、熾烈な競争をしている。日本人の賃金水準も上がった。日本の企業は、より、専門化しなくては、国際化の中で生き残れなくなってきている。必要な人材は、専門の知識を持った個性ある人材である。唯、真面目に汗して働くだけでは企業のニーズに合わなくなっている。私が、現役で勤めていた会社でも、人事部長は、人材はほしいが、会社の希望する人がいないと嘆いていた。企業は求めている人が来ないと嘆き、就職を希望する人は行きたい企業がないと嘆いている。これから、益々、そのような傾向は強まってくるだろう。難しい問題だ。
(画像は、「山谷ブルース 」岡林 信康/岡林 信康 作詞:作曲。昭和43年10月発売。片面は高石友也と組んで歌った「友よ」。)
参考:
労働政策史( リクルート ワークス研究所)
http://www.works-i.com/flow/lm/university1_1.html
[PDF] 日雇い労働者の現状
http://www.works-i.com/pdf/univ4-1.pdf
緊急失業対策法(廃)
http://www.houko.com/00/01/S24/089.HTM
ニコヨン物語 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD24977/index.html?flash=1
アブナい歌のホームラン王
http://www1.linkclub.or.jp/~kury/ct/abunaiuta/okabayashi.html
岡林信康 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9E%97%E4%BF%A1%E5%BA%B7

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2 コメント

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ニコヨンの語源 (Linda)
2006-06-12 11:48:00
よーさん、お早うさんです。

ニコヨンと言う言葉は知っていましたが、語源は知りませんでした。245円の5円はどうなるのでしょうね。ニコヨン半なら解るのですが。大阪の人が言うと「もし、ニコヨンはん」で半がつきますね。
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ニコヨン (よーさん)
2006-06-12 16:30:33
Lindaさん、気付いてくれてありがとう!

ニコヨンは240円だからです。245円は書き間違いです。12日修正しました。













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