天正10年6 月3日(西暦1582年6月22日)中国地方の雄毛利氏配下の清水宗治の守備する備中高松城を水攻め中の羽柴秀吉軍が、この日、毛利方に「本能寺の変」を知らせる使者を捕え、その一報を知る。織田信長の死を秘匿しつつ、翌4日毛利家と和睦し、城主清水宗治の切腹を見届けた秀吉は、明智光秀を討つため、中国大返しで畿内に戻り、6月13日からの山崎の戦いで光秀を破り織田 信長の実質的な後継者の道を歩むことになる。
冒頭の図は、「赤松之城水責之図」(東京都立中央図書館所蔵)。ここクリックで拡大図が見れる。
これとは別に、和歌山市立博物館には、歌川国芳の門人一猛齋芳虎(歌川 芳虎の画号)の描いた「水攻防戦之図」もある。以下参照。
水攻防戦之図・赤松水攻之図 文化遺産オンライン
上図は、秀吉が本陣をはった石井山から水攻めの様子を眺めた構図をとっている。
芳虎は、錦絵「道外武者御代の若餅」では、徳川家康の天下取りを揶揄した落首「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川」(この狂歌は、天保~嘉永期に出回ったといわれている)に着想を得て、織田信長と明智光秀が搗き、豊臣秀吉がこねた餅を徳川家康が食うという絵を描き家康の天下取りを諷刺したとされ、手鎖50日の処罰を受けたという。画像はここ参照。芳虎の諷刺精神も国芳に倣うものであったようだ。
高松に到着した秀吉の陣は、当初、高松城の北東2.1㎞にある龍王山(現在の最上稲荷山妙教寺付近)に置かれたが、築堤を築く頃には高松城から南東800mのところにある石井山(岡山市北区立田)に移した。理由は、石井山の方が高松城が手に取るように見えるのと、足守川の増水で毛利勢がうかつに近づけないことで安全がある程度確保できたからと考えられている。参考※1:「岡山県古代吉備文化財センター」の以下参照。ここには、当時の「高松城水攻め陣営配置図」が詳しく描かれている。
備中高松城跡
自刃した清水宗治の首級は、この本陣に於いて、秀吉の首実検の後、手厚く葬られ、一基の五輪塔を建立されたといわれているが、その後、備中高松城本丸跡へ首塚の移築がなされたようだ。本丸跡には首塚と辞世の歌碑が建っている。
辞世の句
「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」
戦国時代、備中国高松(現・岡山県岡山市北区高松)に存在した高松城は、讃岐高松城と区別して備中高松城とも呼ばれる(※1のここまた※2のここ参照)。
築城時期はっきりしないが、備中松山城城主・三村氏の命により、備中守護代で三村氏の有力家臣でもあった石川氏が築いた城である。
戦国時代の備中は守護の細川氏が衰退した後、国人領主が割拠する状態にあったが、なかでも台頭していたのは三村氏であった。
三村家親は、出雲の尼子氏に代わって中国地方の覇者となった安芸の毛利氏に接近し勢力を備前、美作に広げたものの、備前浦上氏傘下の宇喜多直家により家親が暗殺され、つづく明善寺合戦において三村氏は敗退、その勢力は衰えた。のち直家と結んだ毛利氏により三村氏は滅ぼされ(備中兵乱)、その傘下であった城主の多くは毛利氏を頼ったが、その一人が清水宗治であった。
清水宗治は。天正3年(1575年)の備中兵乱の際、三村氏譜代・石川氏の娘婿・重臣の立場にありながら主家を離れて毛利氏に加担したが、宗治が備中兵乱後に高松城の城主となった経緯は不詳であり、石川氏滅亡以前より宗治が城主であったともいわれているそうだ。
上掲は歌川国芳の高弟落合芳幾の錦絵『太平記英勇傳 清水長左衛門宗治』。以下でこの錦絵の全画像が見れる。
浮世絵で見る戦国武将 ~太平記英勇伝~ (前半) - YouTube
浮世絵で見る戦国武将 ~太平記英勇伝~ (後半)- YouTube
15世紀末当時、備前国は赤松氏の守護代として浦上氏が支配していた。清水宗治(長左衛門)は、父清水宗則の3人の子の一人(次男)で、天文6年( 1537年)に、備中国賀陽郡清水村(現在の岡山県総社市井手)で生まれたとされているようだ。
戦国時代初期の清水宗則(備後守)は備中国の国人・石川久式(左衛門尉)に従属していたという。
天正2年(1574年)備中の戦国大名三村家の重臣だった主家の石川家が毛利家により滅ぼされた際、清水家は石川家から離反して毛利家の小早川隆景に味方し、その功績により石川久式の出城だった備中高松城を預けられたという。
備中国国人清水氏は、赤松氏家臣団難波氏族(※4参照)の一族である。
当時、備前国は赤松氏の守護代として浦上氏が支配していたが、室町初期備前守護に任じられたこともある有力国人の松田氏が、文明15年 から16 年(1483-4年)に備前国で勃発した騒乱(守護赤松、浦上の福岡城〔※2のここ、また※3のここ参照〕を山名、松田の軍が攻めた)に一役をかい、赤松・浦上氏の備前支配を排除しようとした。この合戦は福岡合戦(※5参照)と呼ばれ、備前国における戦国時代への突入の契機と考えられている。こうして、浦上氏と松田氏は備前国内で互いに勢力を争うようになった。
戦国期の難波十郎兵衛行豊は、嘉吉の 乱で没落した赤松氏を再興した赤松政則の娘を娶り、赤松家中で重くもちいられていたようだ 。また浦上氏にも属したようで、鳥取荘内・居都荘内に所領を与えられており、行豊の孫宗綱は、備中国賀陽郡八田部領の清水城主となり、その子宗則は清水氏を称したという(※5参照)。この宗則の子が豊臣秀吉の水攻めで知られる高松城主清水長左衛門尉宗治その人なのである。
「高松城の水攻め」の図を一勇斎国芳(歌川 国芳)は「赤松之城水責之図」としている。「高松の城」をなぜ国芳は「赤松之城」としているのか?
色々調べたがよくわからないが、前述のように、「高松城」は、当時備前国を支配していた、赤松氏家臣団難波氏族の清水宗則が備後守として、管理していた城であったからであろうと推測している。
一方畿内においては、「天下布武」を掲げた尾張国の信長が他国侵攻の大義名分として足利将軍家嫡流の足利義昭を奉じて上洛を果たし、将軍、次いでは天皇(正親町天皇)の権威を利用して天下に号令。
反対勢力(信長包囲網)の一部を滅ぼすと、将軍義昭を京より追放して室町幕府を事実上滅ぼし、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となり、本格的に天下統一事業を推し進めようとしていた。
このころ、武田信玄(西上作戦の途上三河で病を発し死亡)を失った信長包囲網(反織田信長連合)は同年末には実質的に瓦解していた。
上杉家は養子の景勝と景虎の間で家督争い、世に言う御館の乱が勃発。武田家や北条家もまた、その跡目争いの後ろ盾となり、東国三国の矛先は、信長の方から逸(そ)れていった。
ここで信長の「天下布武」における最重要課題は、政治的・軍事的・経済的にも、目下の敵、西国の石山本願寺と中国(山陰・山陽)の雄・毛利の攻略にあった。
そこで、信長は、北陸は柴田勝家に、東国は、織田信忠と滝川一益に一任し、西国の石山本願寺は佐久間信盛に、丹波などの近畿地方は明智光秀に一任。
そして、畿内をほぼ制圧した後、最大の敵となっていた西国の雄・毛利氏討伐のため、中国方面軍司令官に任命されたのが羽柴秀吉であった。
しかし、中国攻めの際、毛利氏攻めの先鋒を務めると信長に約していたはずの別所長治が、突如、秀吉に叛旗を翻し、播磨国の三木城(兵庫県三木市)に籠城し徹底抗戦した。
これを2年近くに及ぶ兵糧攻めで「干し殺し」(三木合戦参照)にしたあと、秀吉は毛利の領土へ本格的に攻撃を開始する。
毛利と結んでいた因幡守山名豊国の居城であった久松山の鳥取城(久松山城ともいわれる)攻略に取り掛かるが、難攻不落の要塞であったため、三木城と同様の兵糧攻めを採用した。
このとき守備を指揮していたのは、支援要請を受けた毛利元就の次男吉川元春(毛利 元春)の一門で文武両道に優れた吉川経家であった。
経家は場内に米の備蓄がわずかしかないことに驚き、急いで周辺の農家から米を集めようとしたが、鳥取城を包囲する前に、秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み,米を高値で買い占めさせる一方で、河川や海からの毛利勢の兵糧搬入を阻止した。さらに、秀吉は城内にある兵糧を枯渇させるため、鳥取城を包囲する際、城下周辺の農村を襲い、村人たちを鳥取城内に追い立てた。鳥取城では逃げ込んできた農民たちへの食糧を支給せねばならず、米蔵はあっという間に底をつき、餓死者が続出した。この作戦により瞬く間に兵糧は尽き飢餓に陥った。 何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出し人肉を食らう者まで現れたという。
これは、,三木城の「干し殺し」と言われる兵糧攻めでは2年近い歳月を要したため、もっと効率的に兵糧攻めを行うため、秀吉の参謀黒田官兵衛が考えた作戦だと言われている。
このときの兵糧攻めについて、信長公記には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記されており、この凄惨たる状況に、吉川経家は自決と引き換えに降伏し開城した。
このときの兵糧攻めは「三木の干殺し」をはるかに上回る凄惨な状況を生み出した事から、後世「鳥取の飢殺し(渇殺し)」と呼ばれ、兵糧攻めの恐ろしさ、過酷さを後世に伝えることになった。
そして、天正10年(1582年)いよいよ、秀吉は、毛利氏との対決の為備中国(岡山)に侵攻した。
毛利隆元の嫡男輝元は備中高松城で秀吉を食い止めるため足守川に沿って支城6城(北から順に宮地山城、冠山城、鴨城、日幡山城、庭妹城、松島城)を築いて防備を固めていた。備中高松城にこの支城6条を加えた7城を「境目7城」と言い、これが輝元の防衛線であった。冠山城と鴨城の中間に備中高松城がある。
備中高松城は平野にある平城だが、周囲を池や沼などの低湿地に囲まれており、備中高松城へは容易に近づけさせない自然の要害となており難攻不落を誇っていた。
そのため、秀吉は周囲の小城を次々と攻め落とし、4月15日、秀吉方は宇喜多勢(宇喜多直家の次男秀家勢)を先鋒に3万近い大軍で城を包囲し、2度にわたって攻撃を加えたが、城兵の逆襲を受けて敗退、攻城戦は持久戦となった。
毛利輝元率いる4万の援軍が接近しつつあるが、援軍もなく、1日も早く落城させなければならないる状況において、5月8日(5月29日)に入り軍師・黒田孝高の献策により城を堰堤(えんてい)で囲むという、攻城というよりむしろ土木工事といえるものが開始された。
この城は東と北が山、東に鳴谷川、西に足守川が流れる平城で、秀吉はその西と南を高さ4間(約6m)延長約30丁(約3㎞)の堤防で仕切って二つの川の上流から水を導き、約1,900アール( 1aは100 m2)の湖水の中に城を孤立させた。工事には士卒や農民らを動員し、1俵に付き銭100文、米1升という当時としては非常に高額な報酬を与え、堤防は5月8日の工事着手からわずか12日で完成させ、折しも梅雨時であったことから、降り続いた雨によって足守川が増水し、堰堤内には水が溢れ、城は湖に囲まれた状態になったのである。これが、世に言う「高松城水攻め」であるただ、鳴谷川からの導水工事が城攻略に間に合わず,未完に終わり,この工事を担当した奉行が切腹したと伝えられているそうである。
「高松城の水攻め」は、「三木の干殺し」「鳥取の飢殺し(渇殺し)」と併せて秀吉三大城攻めとして有名である。
「兵糧攻め」は相手を直接傷つけることはないが、敵兵に深刻な痛手を与える残忍な戦術だが特に、秀吉がよく使ったことで知られているが、このような兵糧攻めや水攻めでの城攻めは、すでに信長により使用されていた。
永禄元年(1558年)の「浮野の戦い」(「浮野合戦」)で,大敗した織田 信賢の本拠尾張・岩倉城への攻撃(1559年)では、信賢の籠城戦に対し、周囲にしし垣を張り巡らして完全に取り囲み、数ヶ月の後に降伏させている。
また、信長はこの方式を、今川方となった城鳴海城、大高城攻めに適用し、両城の周囲それぞれに砦をいくつか築き、この二城を包囲の上分断、孤立させた兵糧攻めを行っている。落城寸前になった大高城を救援するために、今川義元が出陣してきて「桶狭間の戦い」が起こり、この戦いで今川義元を討ち取って今川軍を退却させたことで歴史上有名である。
その後,近江で浅井長政と対立した時には、小谷城の目と鼻の先に在る虎御前山に本陣を布いて砦を修築し、虎御前山から付城宮部城(宮部 継潤の城)まで五十町もの土塁で取り囲み長大な要害を築かせ兵糧封鎖をかけるとともに、敵側には、川の水を堰入れさせる(水攻め)など、後に秀吉が三木城や鳥取城で行った城攻め方法は、この時にすでに見本が完成されていた。この小谷城の包囲を担当していたのが他ならぬ秀吉だったため、信長発案の城攻めの方法を一番習得していたのが彼だったのだろう。
この他、秀吉の小田原征伐の際に、豊臣方の総大将石田光成が、武蔵忍城の攻撃(忍城の戦い参照)において、秀吉を真似た元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われたが成功したとは言い難く、光成の資質が問われている。
では、何故秀吉の水攻めが成功したのか?
『備中高松城主清水宗治の戦略』の著者多田土喜夫(タダ トキオ)氏が分かり易く「高松城の水攻め」を解説しているものがある。短く要旨のみの解説だが見てみるとよい。
参考:
※1:岡山県古代吉備文化財センター
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/kodaik.htm
※2:城郭放浪記
http://www.hb.pei.jp/shiro/
※3:岡山県の訪問城
http://www.geocities.jp/qbpbd900/okayamanosiro.html
※4:国人領主と家紋
http://www2.harimaya.com/sengoku/sengokusi/bimu_03.html
※5:藤陽伝 伊賀氏一族と虎倉城記 文明期の備前国 ―― 福岡合戦 ――
http://kibi2011.blog81.fc2.com/blog-entry-22.html
※6:虎御前山城の歴史と構造|戦国時代の合戦と城
http://www.city.nagahama.shiga.jp/section/kyouken/junior/category_01/02_chusei/battle/toragozeyama.html