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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

大石内藏助以下赤穂浪士46人に幕府が切腹を命じた日「大石忌」。

2006-02-04 | 歴史
元禄16年2月4日 (旧暦,西暦では1703年3月20日)、は、前年に吉良邸に討入り主君の仇を討った大石内藏助以下赤穂浪士46人に幕府が切腹を命じた日「大石忌」でもある。
1701(元禄14)年3月14日、浅野内匠頭長矩(ながのり)が高家筆頭吉良上野介義央(よしなか)に江戸城中で刃傷におよんだ。この日は幕府の年賀の礼に対する答礼のために京都から遣わされていた勅使・院使に対して、将軍綱吉の挨拶が白書院で行われることになっており、浅野は勅使の接待役を命ぜられていた。浅野が吉良に切りつけたのは白書院に通ずる松之廊下と呼ばれる場所で、それは、勅使が到着する直前のことであった。浅野は「折柄と申し殿中を憚(はばか)らず。理不尽に切付候段、重々不届き至極」であるとして、即日切腹・改易の厳罰に処せられた。それから,1年9ヶ月を経た翌年12月14日に、大石吉雄以下の浅野遺臣が本所のあった吉良邸に乱入し、吉良を殺害してその首を泉岳寺の浅野長矩の墓に捧げるという事件が起こった。大石内蔵助は吉田忠左衛門らを大目付仙石伯耆守のもとに出頭させ、口上書を提出し、幕府の裁定に委ねることにした。幕府は大石以下46人の赤穂浪士をいったん泉岳寺から仙石伯耆守の屋敷に引き揚げさせて、それから細川越中守、松平隠岐守、毛利甲斐守、水野監物の4大名家に預けさせた。各大名家は赤穂浪士を義士として手厚く迎えた。江戸では旧主への忠義を遂げた義士であるとして大きな人気を呼んだ。しかし、幕府の許可もなく、しかも徒党を組んでの仇討ちは死罪にあたるが、忠義を大いに奨励していた将軍綱吉以下の幕閣は死罪か助命かで対応には苦慮したという。赤穂浪士は義士であるから助命すべきという意見も強かったが、法を曲げることは天下に乱を引き起こす元になるという意見を綱吉は採用し、武士としての体面を重んじた上での切腹を命じた。46人の浪士達が切腹して死んだのは、翌1703(元禄16)年2月4日であった。同じ日に吉良家の当主であった義周(よしちか)は、赤穂の浪士が押し入った際の対応が良くなかったとの理由で領地を没収され、その身は諏訪高島藩に預けられて、吉良家は断絶した。
加賀藩の儒者であった室生鳩巣(むろうきゅうそう)はその年のうちに「赤穂義人録」を著して大石以下46士を「義人」として讃えたが、それが、当時の世の大勢ではあったようだが、それに対して赤穂の浪士の行為を批判する者も多くあった。
刃傷事件の際、浅野内匠頭が吉良に対し「この間の遺恨」と叫んだというが、これが何を指しているのか取調べでも明らかにならず刃傷の動機は今でも不明なようである。『忠臣蔵』などの芝居では、よく知られているように、吉良に対する進物などをけちったため、供応役に不慣れな浅野に対する吉良の数々のいじめから浅野が切れたようになっている。しかし、この刃傷事件に関する決定的な史料は何も見当たらないらしい。むしろ、後日の史実を検証すると実際には浅野内匠頭にとって2度目の勅使御馳走役であり、以前にも吉良上野介の指図を受けており、浅野内匠頭やその家臣団が役目に不慣れであるはずはないという。当時、何もかも公費の予算から支出される現代社会の公務員と異なり、必要経費を自弁していた指図役に進物をするのは、賄賂というよりも授業料・必要経費の性格が強く当時の常識であった。零細な領地・石高しか持たない高家が大名の指南に就いて共にこうした儀礼に当たるのは、大名家に与えた相応の石高を、こうした必要経費に当てさせる意味があるのであり、また、そもそも浅野内匠頭が不始末をすれば指図役の吉良上野介の責任ともなるので、このような苛め、嫌がらせの事実はありえなかったとする説が有力だそうである。
そして、近年の研究では赤穂浪士は当事取締りをされはじめていた平和な社会の秩序に反抗する戦国の気風を色濃く残し、ことさらに奇矯な振る舞いをしたカブキ者ではなかったかと考証されている。彼らは自らの命を軽んじ、武士としての「一分」を通すためには軽々と命を捨てた。赤穂浪士が当初主張した殉死(江戸時代初期に流行し江戸幕府厳罰をもって禁じた)や天下の法を無視し、死罪覚悟の上での吉良上野介の屋敷への討ち入りも、単なる主君への忠義によるものではなく、自らの武士としての「一分」を立てるための行為であり、浅野内匠頭の切腹、赤穂浅野家断絶という不公平な裁定を行った(と彼らが考えた)江戸幕府への抗議であった。討ち入りは忠義にもとづくものではなく、当時のかぶき者として無頼の心性に根ざしたものと考えられているようだ。
それにしても、世間から"忠"を実行した義士として見られている赤穂浪士の処遇については、幕府も苦慮したことであろう。江戸時代の刑罰は、今と違い予防効果を重視していた。つまり、処刑は一種の見せしめでもあった。武士に対しての死刑では、切腹 か斬罪 (斬首の刑罰)で
あるが、赤穂の浪士は、切腹 を命じられたことで、武士としての面目は保たれたことになる。
切腹も戦国時代や江戸時代初期においては介錯人がつかず、腹を十文字に割いたりする方法で行われていたが、江戸時代の中期に入ると切腹も形式化し、名誉刑から実質的に斬系に等しくなり、小刀や扇子を三宝に置いておきその扇子に手をかけようとした瞬間に介錯人が首を落とすというやり方になる。赤穂浪士の切腹も実態はこの形をとったようで、どうしても自分で腹を切りたい場合には介錯人に合図をするまで太刀を振り下ろさぬよう求めたようだ。比較的身分が高かった大石良雄ら数人以外は「扇子や木刀を使用し介錯人に首を落としてもらうという「扇子腹」で切腹したといわれている。
(画像は、幕末のハラキリ。1863(文久3)年、通商条約締結のため来日したスイス人アンペールの「幕末日本」の挿絵。『週刊朝日百科・日本の歴史』No69,7-79pより)

※後段の文に、若干舌足らずの面があったので以下のように少しを書き改めました。(2013年12月16日)
”切腹も戦国時代や江戸時代初期においては介錯人がつかず、腹を十文字に割いたりする方法で行われていたが、江戸時代の中期に入ると切腹も形式化し、小刀でなく扇子を置きその扇子に手をかけようとした瞬間に介錯人が首を落とすというやり方になる。赤穂浪士も実際に刀ではなく、「扇子腹」で切腹したといわれている。”

「切腹も戦国時代や江戸時代初期においては介錯人がつかず、腹を十文字に割いたりする方法で行われていたが、江戸時代の中期に入ると切腹も形式化し、名誉刑から実質的に斬系に等しくなり、小刀や扇子を三宝に置いておきその扇子に手をかけようとした瞬間に介錯人が首を落とすというやり方になる。赤穂浪士の切腹も実態はこの形をとったようで、どうしても自分で腹を切りたい場合には介錯人に合図をするまで太刀を振り下ろさぬよう求めたようだ。比較的身分が高かった大石良雄ら数人以外は「扇子や木刀を使用し介錯人に首を落としてもらうという「扇子腹」で切腹したといわれている。”


参考:
赤穂浪士 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%82%E6%B5%AA%E5%A3%AB
江戸城内の刃傷沙汰
http://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/ms40.html
ろんがいび:赤穂事件関係
http://homepage1.nifty.com/longivy/note/top.htm#AK




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2 コメント

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歌舞伎 (Linda)
2006-02-04 10:59:59
よーさん、お早うさんです。

落語には浄瑠璃や歌舞伎の場面がよく出てきます。歌舞伎と言うと仮名手本忠臣蔵が多いです(七段目など)。歌舞伎の知識の有無で随分面白さが違います。

僕は子供の頃に赤穂義士伝、外伝を読んでワクワクしました。子供の頃に読んだ本が落語を楽しむことに随分助けとなっています。
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何でも楽しむための知識が必要 (よーさん)
2006-02-05 12:04:04
Lindaの言われるとうり、何でも、それを楽しむには、知識が必要。私ののん兵衛友達がしみじみと言っていたことを思い出します。「よーさん、遊ぶのって難しいね~」私が「どうして?」って聞くと、将棋にしてもマージャンにしても、何でも、遊ぶためには最低のルールを知らないと遊べないものね・・・」と、真顔で言っていた。

よく昔から、仕事が面白くないとか、勉強が面白くないとか言う人が多いが、仕事の出来る人や勉強のよくできる人は、仕事や勉強が面白うと言う。結局、知識のあるなしで、決まるのでしょう。面白くやりたいなら、先ず、最初に楽しむために必要な最低限の知識を身につけるべきでしょうね。そのためには、努力が必要ってことですよね。
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