今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

長崎二十六聖人殉教の日

2006-02-05 | 記念日
今日(2月5日)は、「長崎二十六聖人殉教の日」
慶長元年12月19日(旧暦:現在の暦に直すと1597年2月5日)、豊臣秀吉のキリスト教弾圧により、長崎西坂で26人のキリスト教徒が処刑された。殉教したのはペトロ・バプチスタ神父ら計26人で、この26人は1862年にローマ教皇ピウス9世によって聖人に列せられた。
古くからポルトガル貿易港として栄えた長崎の町は、全国でもいち早くキリスト教の布教がなされた場所である。
また、日本最初のキリシタン大名・大村純忠が勢力を増すために長崎6ケ町と茂木、後に浦上村をイエズス会に寄進。安土桃山時代の一時期、長崎の町はイエズス会の領地となり、数多くの"南蛮寺"と呼ばれる教会が建てられていた。ここのイエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの発案によって、1582(天正10)年、九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として、天正遣欧少年使節(4名の少年)がローマへ派遣された。使節団が、ローマへ旅立った3ヵ月後、日本では、本能寺の変によって織田信長が討たれ、替わって政権は豊臣秀吉に移っていた。そして、九州では、大名同士の戦いが激しくなり、島津義久が勢力を伸ばしていった。1587(天正15)年、ヴァリニャーノの留守を預かっていた 副管区長・コエリヨは、争乱の激化を見て大友宗麟を助けるため、秀吉に軍事援助を求めた。新しく日本の統一を目指した秀吉は、同年自ら大軍を率いて九州へ向かった。キリスト教信徒の武将高山右近も側近として秀吉に従い、同じく信徒の信徒の小西行長も水軍を率いて進んだ。彼らは十字架を描いた旗を多く立て、これが、信徒の意気を盛んにした。この戦いで、キリスト教へ回心した者も何人かあった。5月、島津義久は秀吉軍に降伏した。この征西の中で、秀吉は宣教師達にも好意的な態度を示し続けていた。この秀吉の行動は宣教師や信徒達を安心させ喜ばせたが、この頃、九州の最も有力な信徒であった大名大村純忠、大友宗麟があいついで世を去ったことは、キリシタン信徒の前途を暗いものにした。この頃の宗教政策というのは微妙であった。もともと信長などは仏教の勢力を削ぐためにキリスト教を利用するわけだが、あまりキリスト教が勢力を持ちすぎ、第二の浄土宗化しては困るのである。しかし、コエリヨの政権に関わる態度は、ヴァリニャーノの意図する宣教活動からも逸脱したものであり、又、秀吉に不信感や警戒心を抱かせるきっかけにもなったようだ。当時、キリスト教は諸大名を信徒とし、時には家臣団のすべてを教徒化する勢いであったからだ。大友宗麟の死後42日の1587天正15年、突然、秀吉は宣教師追放礼を発し、高山右近も改宗するか、領土を変えるかを迫られ後者を選んだ。しかし、秀吉がとったこの処置は、突然に見えるが、以前から考えていたものではないかと考えられる。それは、秀吉自身、政治に関わる宗教の恐ろしさをよく知っており、特に、今回の九州の戦いのなかで見せたキリシタンの結束の強さを見て、キリシタンに対する危機感へと発展したものだろう。ただ、宣教師追放礼後も、商船の来航は自由であったし、仏教の妨げにならない限りキリスト教徒の往来も自由であったのだ。
このような混乱の中、1590(天正18)年、に巡察師ヴァリニャーノは少年使節たちと共に帰国した。帰国した巡察師ヴァリニャーノは、ポルトガルのインド副王の使節として、秀吉に謁見すると共に、九州を中心として、慎重に追放令下でのキリスト教徒の再編を始めた。そして、彼は持ち帰ったグーテンベルグ印刷機によって日本語書物(キリスト教の図書)の出版活動も開始した。(日本初めての活版印刷)。
スペインのフランシスコ会も、ポルトガルの日本進出を追って、日本に接触。1593年、スペインのフランシスコ会の宣教師がフィリピンからの使節として秀吉のもとにきたが、この時、三人の会士が残り、秀吉の布教活動禁止を無視して布教を開始し、翌年には、又、4人が渡航してきた。彼らは、京都や大坂に協会を開設した。すでに、イエズス会士の追放令が実施されていた時期にである。このフランシスコ会の行動はイエズス会との対立を生むこととなる。
秀吉の権力は大きくなり、国外にも手を伸ばしはじめ、朝鮮侵略、そしてフィリピンへの侵略もほのめかし始めた時期、1596(文禄5・慶長元)年10月、土佐の浦戸にスペイン船サン・フェリーペ号が入港したが、秀吉は増田長盛を派してこの船を抑えた。この時、スペインは、領土拡張の手段として、先ずフランシスコ会士を送って布教させ、その後、軍を派してその地を征服するという方式をとっているとの報が秀吉にもたらされた。秀吉はこれにすぐ反応した。1596(文禄5)10月20日、フランシスコ会士9人、日本人信徒17人が京都で捕らえられ、九州までで送られて、翌1597年2月5日長崎で処刑されるに至った。これが、いわゆる「二十六聖人の殉教」である。これは、日本で最初の大殉教となった。
JR長崎駅前、NHK長崎放送局横の急な坂道を上ると、「二十六聖人殉教」の地として知られる西坂の丘がある。現在は公園になっていて1962(昭和37)年、列聖100年を記念して建てられた二十六聖人の記念碑には、26名の殉教者の等身大のブロンズ像がはめこまれている。処刑された26人の中には12歳の少年もおり、等身大の像の中に小さな像も混ざっている。この事件の話はルイス・フロイス神父によりヨーロッパに伝えられた。
26聖人殉教のわずか3ヶ月後、日本で34年に亘っての伝道に活動したフロイスが長崎で没した。クエリョ、ダルメイダ、日本人のロレンソなども皆没していた。そして、秀吉も1598(慶長3)年に死んだ。その後をついで新しい権力者となった徳川家康は、当初は、貿易の利を求めてキリスト教には寛大であった。そのため、強勢は幾分回復を見た。しかし、1600年の関ケ原の合戦で、キリスト教信徒であった有力大名小西行長が没落してから、大名の間ではキリスト教の同情者は減っていった。そして、その後キリシタン弾圧の歴史が始まった。それも、やがてペリーが来航し、鎖国政策は、終わりを告げ、 江戸幕府が倒れ明治政府となり、250年以上続いたキリスト教弾圧がようやく終わりを告げることとなる。そして、1865(慶応元)年、前年より工事に着手していた大浦天主堂の落成祝いが盛大に挙行された。これをみて、250年以上浦上地区に潜伏していた隠れキリシタンがようやく表に出てくることができたという。しかし、まだキリシタン禁制中のできごとであり、この浦上の信徒3000人以上が流罪となったという。この事件は外交問題となり明治政府は1873(明治6)年にキリシタン禁制を解いた。それから、信仰の自由を得た浦上の信者たちの長年の奉仕で1925(大正15)年に立派な天主堂が完成した。国宝・大浦天主堂の正式名は「日本26聖殉教者天主堂」という。西坂の丘で殉教した二十六聖人へ祈りを捧げるために建てられた教会堂で、正面は西坂の丘に向けられて建ち、創建時には二十六聖人を象徴する26個の窓が配されていたという。現在の天主堂は1959(昭和34)年、往時のものと同じロマネスク式で再建されたものである。
この二十六聖人の逮捕から処刑に至るまでのことなど、以下参考のところに詳しく記されている。
(画像は殉教地に建つ記念館の「日本二十六聖人の殉教碑」)
日本二十六聖人 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AD%E8%81%96%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%AE%89%E6%95%99
県指定史跡 ・日本26聖人殉教の地(西坂の丘)
http://park10.wakwak.com/~cdc/nagasaki/26seijin/
日本カトリック教会の歴史・秀吉のキリシタン禁教令と26聖人殉教
http://www.pauline.or.jp/history/history03.html
殉教者:日本26聖人
http://www.pauline.or.jp/tokusyu/bknb_26seijin/
二十六聖人
http://www.ne.jp/asahi/hayashi/love/owari4.htm
大浦天主堂公認ページ
http://www9.ocn.ne.jp/~oura/

※当初冒頭日付の表示を「1596(文禄・慶長元)年12月19日(現在の暦に直すと1597(慶長 2)年2月5日)」としてましたが、これは、旧暦・新暦変換時に表記にあやまりをしました。正しくは旧暦:慶長元年12月19日(現在の暦:新暦に直すと1597年2月5日)です。
2008・6・9修正しました。

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1 コメント

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Unknown (ひろ)
2008-05-21 00:15:20

今日(2月5日)は、「長崎二十六聖人殉教の日」
1596(文禄・慶長元)年12月19日(現在の暦に直すと
1597(慶長 2)年2月5日)、豊臣秀吉のキリスト教
弾圧により、長崎西坂で26人のキリスト教徒が
処刑された。

と書かれていますが、

正しくは、日本二十六聖人殉教は、

   和暦  慶長元年12月19日
   西暦  1597年02月05日

なのです。


日本二十六聖人記念館における資料においても、
また西坂公園における長崎市教育委員会が製作した
立札にも、下記のように書かれております。


県指定史跡  日本二十六聖人殉教地
指定年月日  昭和31年4月6日
所 在 地  長崎市西坂町
所 有 者  長崎市

慶長元年12月19日(1597年02月05日)
6名の外国人と20名の日本人が豊臣秀吉のキリシ
タン禁令のため ・ ・ ・ ・
26名の殉教者を聖人に列し、日本二十六聖人と
称せられたのである。

           長崎市教育委員会
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