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自民党分裂と総選挙敗北の責任をとり宮澤 喜一首相が退陣を表明 した日

2007-07-22 | 歴史
1993(平成 5)年の今日( 7月22日)、自民党分裂と総選挙敗北の責任をとり宮澤 喜一首相が退陣を表明 した。
「55年体制」下の自民党単独政権時代の最後の首相(第78代)で、保守護憲派として知られた宮澤 喜一氏の訃報が報じられたのは、今年・2007(平成19)年6月28日のことであった。宮沢氏は2003(平成15)年の衆院選の際、小泉首相(当時)の要請を受けて政界を引退。引退後も自民党の新憲法起草作業に関わり、戦後政治の証言者として憲法や外交問題などで発言を続けていた。昨年夏に足を骨折し、自宅で療養生活を送っていたが、老衰のため東京都内の自宅で死去。87歳だった。
宮澤 氏は、1942(昭和17)年1月、大蔵省に入省。1949(昭和24)年には池田勇人蔵相秘書官として、講和条約の準備交渉に携わり随行。池田通産大臣のいわゆる「中小企業発言」を巡って1952(昭和27)年に不信任されるのに殉じるように、宮澤も大蔵省を退官。池田の強い勧めで翌1953(昭和28)年、参議院選挙に広島県選挙区から出馬し当選。参院議院運営委員長などを経て、1962(昭和37)年第2次池田改造内閣では経済企画庁長官として初入閣、池田首相のブレーンの一人として所得倍増政策の一翼を担う。1967(昭和42)年には衆議院議員となり、以後通産相、外相、総務会長などの要職を歴任していった。党内では池田派(宏池会)に所属し、早くから総裁候補と目されていた。ポスト田中で総裁に推す声が一部で上がった他、大平後継では本命との声もあったが同じ宏池会の鈴木善幸が総裁に就任。鈴木内閣では内閣官房長官を務め、次代の中曽根内閣期まで安倍晋太郎竹下登らとともに「ニュー・リーダー」の1人とされ、1987(昭和62)年秋には中曽根の後継者の座を安倍・竹下と争ったが、中曽根の裁定により竹下が総裁に就任。宮澤は竹下内閣に副総理兼蔵相(大蔵大臣=現財務大臣)として入閣し、消費税導入に尽力するが、1988(昭和63)年、リクルート事件が発覚すると、未公開株の譲渡について倫理的責任を問われ大臣を辞任した。
1991(平成 3)年、海部首相の退陣にともなう自由民主党総裁選挙金丸信の推す渡辺美智雄、竹下の推す三塚博両氏を抑えて当選。72歳にして第78代内閣総理大臣に就任した。保守本流のエース、国際派の総理大臣として大きな期待がかかったが、竹下派の支配下にあった上、敵を無駄に作るその性格もあり思い通りの政権運営はままならなかった。在任中の施策としてはPKO協力法の成立(国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律)と、それに伴う自衛隊カンボジア派遣がある。しかし、その過程で派遣された文民警察官と、国連ボランティアが殺害されたことは、政権に大きな衝撃を与えた。(以下参考の日本人文民警察官死傷事件参照)またバブル景気崩壊後の金融不安を巡って、1992年8月の自民党の軽井沢セミナーで金融機関への公的援助を示唆したが、官庁や経済団体、そして金融機関自身の強い反対にあって実行に至らなかった。(以下参考の政策の先送りによる事態の悪化参照)
折からリクルート事件などを巡って高まっていた政治改革の機運の中で、宮澤は政治改革関連法案の成立を目指したが断念(21世紀臨調-政治改革の軌跡-宮沢内閣から細川内閣までの軌跡参照)。
1993(平成 5)年6月野党から宮沢内閣不信任案が上程されるが、同じく、宮沢政権の政治改革への取り組みを不満とする自民党の小沢一郎(現・民主党代表)ら39名が賛成、16名が欠席したことにより不信任案は255対220で可決。宮沢内閣は衆議院を解散(嘘つき解散)した。6月21日には、武村正義田中秀征らが自民党を離党、新党さきがけを結成。 この事は羽田・小沢派の議員に離党を決断させる一因となり、6月23日、新生党を結成した。
7月18日、第40回衆院選において自民党は過半数割れし、新生党、日本新党、新党さきがけの3新党は躍進。宮沢内閣は総辞職をした。後任の自民党総裁に河野洋平が選出される。8月9日には、8党派連立の細川内閣が成立した。 この時、自民党は、1955(昭和30)年の党結成後初めて与党の座から降りる事となった(55年体制の崩壊)。
宮澤は自民党一党支配38年の最後の首相となった。宮沢の在任期間は1年9ヶ月だった。
しかし、1994(平成 6)年4月空前の高支持率を誇っていた細川内閣が首相自身の金銭疑惑で突然退陣した後、連立与党は新生党の羽田孜を首相とした。しかし、社会党が、同じ与党の新生党、公明党、日本新党、民主党などが統一会派「改革」をつくって社会党を「疎外」したことを理由に与党から離脱。羽田内閣は存在僅か65日で総辞職した。野党となった自民党は政権復帰の為に全く政策の異なる社会党を丸ごとかかえ、「キングメーカー」小沢一郎も仰天の村山内閣を誕生させた。自民党は、それまでまったく考え方の相反していた政敵との自社連立工作により政権に復帰したといえる。村山首相は、政権に就くと自衛隊合憲、日米安保条約堅持、日の丸、君が代容認などそれまでの社会党の中心的な主張であった方針を180度転換。再び世間を驚かした。その結果は次の総選挙で、国民から、確りと審判を下されている。その後も、自民党は、政権維持のため、主義主張は違うが与党につきたい政党と手を結び、今日まで来ている。
1993(平成 5)年5月、小沢一郎が著書『日本改造計画』を発表したことを契機に政治家本出版ブームが起こり、浜田幸一は同年7月の政界引退表明時、「暴露本の出版を準備している」と発言。同年12月に『日本をダメにした九人の政治家』を、続いて、橋本龍太郎『VISION OF JAPAN』(1993年12月)・武村正義『小さくともキラリと光る国・日本』(1994年1月)などが相次いで発刊された。政界再編の流れの中で国民の政治への関心が高まる中、いずれもベストセラーとなった。 なお、浜田の『日本をダメにした九人の政治家』の中には、宮沢や小沢の名前と同時に自分も含まれているのが面白い。
今、安倍内閣は「美しい国づくり」を目指して組閣されたが、組閣してからわずかの間に、閣僚や内閣総理大臣が指名した人物に関する醜聞、不祥事やトラブルが多発する異例の事態に発展してしている。自民党は、目の前の参議院戦を意識し、国民にとって最も重要な関心事である年金問題解決に関する審議等も野党と十分行わないまま自民党案を強行採決して参議院戦に望んでいる。今国民は、安倍内閣のやり方を良しとはしておらず、支持率も低下しているが、ある評論家は、まだ、支持率が高すぎる。本当はもっともっと下がっていていても良い。それが下がらないのは、自民党は厭だけれどもそれに変る野党(民主党など)に信頼性が今1つないからだろうといっている。確かに、その不安はある。しかし、大切なことは、それで、投票をしないとなると政党政治は成り立たない。今大事なのは、自民党は厭だけれども、野党は頼りないから今まで通りに自民党に政権を委ねるのか。民主党は自民党に比べて少し頼りなく感じるが、一度政権を自民党から民主党を中心とする野党に任せてみようと思うのか。国民の政治判断が問われている。前の55年体制が崩壊した際、野党が躍進し細川内閣を成立させたが、その後自滅的に崩壊してしまったが、今一度、野党に政権を委ね政治改革をやらせてみるか、それとも、政財官癒着の自民党にそのまま今迄通りやってもらうか・・・。今与党は衆議院で3分の2議席を有しており、今度の参議院選挙で野党が勝っても直ぐに政治が変るわけではないが、その後の政権を占う試金石にはなるだろう。どちらにしても、今回の選挙では、棄権をせず絶対に投票し、自分の意思を反映させよう。今回は、日本人の政治に対する意識・モラルそのものが問われている選挙とも言えるだろう。
(画像は、1991年11月、衆院本会議で首相に指名された宮沢喜一自民党総裁〔共同通信〕以下参考のgoo ニュースより)
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