今日(3月28日)は、「鑑三忌」。明治、大正時代の思想家・キリスト教伝道者内村鑑三の1930(昭和5)年の忌日である。教会的キリスト教に対して無教会主義を唱えた。
新渡戸稲造らと共に札幌農学校に学び、直接には教を受けなかったが、農学校に教頭として在校していたウィリアム・スミス・クラークらの強い感化力によって、クリスチャンとなるが、1884(明治17)年に私費で渡米し、拝金主義、人種差別の流布したキリスト教国の現実を知って幻滅する。この時期、札幌同期の新渡戸とともにペンシルバニア州フィラデルフィア近郊の親日的クエーカー教徒と親交を持つようになる。翌年9月にはマサチューセッツ州のアマースト大学に選科生として編入。在学中、同大学の総長であり牧師でもあるJ.H.シーリーによる感化を受け、宗教的回心(かいしん)をする。同大学を卒業し理学士の学位を受け、続けてコネチカット州のハートフォード神学校に入学するが、神学教育に失望し神学の学位は得ないまま退学。1888(明治21)年に帰国後、教育者として立ち、1890(明治23)年から第一高等学校の嘱託教員となったが翌・1891(明治24)年1月9日、思わぬ試練に遭遇する。講堂で挙行された教育勅語奉読式において勅語に記された天皇の署名に対し、「宗教的礼拝」をためらったことで同僚・生徒などによって非難され、それが社会問題化し内村は不敬の徒として辞職に追い込まれた。世にいう一高「不敬」(不敬罪参照)事件である。この時内村は敬礼を行なわなかったのではなく、拝礼が宗教性を帯びると判断して、偶像崇拝を否定するキリスト教徒の良心から最敬礼をしなかっただけなのだが、それが、その後、「国賊」「不敬漢」として、日本中のジャーナリストから総攻撃されたのだ。この後内村は著作活動に専念し、英文の『How I Become a Christian』(余は如何にして基督教徒となりしか)などの著書を著わしている。
1897(明治30)年に上京し、「萬朝報」(黒岩涙香が社主を務める朝報社に入社し同社発行の新聞「萬朝報」英文欄主筆となった。それまで政治的知識層を読者としてきたジャーナリズム(正論新聞)が大衆的読者の憤懣を扇動してゆくなか、上流階級の暗部を暴き立てるスキャンダラスによって社会の中下層を読者としてきた萬朝報などはイエロージャーナリズム(赤新聞)と呼ばれてた。
日露の緊張関係が高まった、1903(明治36)年対露同士会や戸水寛人らが結成する東京帝大七博士(七博士意見書参照)の開戦論が大衆的読者の憤懣を扇動してゆくジャーナリズムと結びつき大きな反響を巻き起こしたが、反面、イエロージャーナリズムと呼ばれる「萬朝報」の内村鑑三や幸徳秋水らが非戦論を展開するようになる。最初は日清戦争を支持していた内村だが、その戦争が内外にもたらした影響を痛感して平和主義に傾く。彼らのキリスト教や社会主義からする非戦論は、当時の社会中下層の人々の不満に根ざしていたものであった。その点では対外強硬派の開戦論と同根といえるかもしれないが、日露戦争直前には同じ社会的不満に立つ議論が開戦論と非戦論に分裂し対立していたのだ。しかし、最初は非戦論を唱えていたものの、世間の流れが開戦に傾くにつれ、黒岩自体も主戦論に転じたため、非戦を固持した内村は幸徳らとともに翌・1898(明治31)年には「萬朝報」を退社するが、1900(明治33)年からは客員として寄稿した。また、1898(明治31)年に『東京独立雑誌』を発刊し主筆となる。足尾銅山鉱毒事件で財閥を攻撃した。
足尾銅山鉱毒事件の告発者として有名な田中正造 は、栃木県下都賀郡にあった谷中村に住み、仮小屋にとどまる農民と共に生き、明治政府との戦いに終生を費やした。
その生涯は、内村が、「義の為めに責めらるる者は福なり」(興味のある人は以下参考に記載の「[PDF]聖書の読み方「来世を背景として読むべし」内村鑑三 」参照)と田中を励ましたように、旧訳聖書にみるヨブ記の世界に連なるものであった(「ヨブ記」は非常に奥の深い協議で面白いので、内容を知りたい人は以下参考に記載の※のついたものを見られると良い)。日本は「最早亡びたる後の国なり」と記す田中の思いは、内村が1899(明治32)年9月「東京独立雑誌」43号から連載開始の『興国史談』で、「興国」は半面で「亡国」を知ることであり、「亡国」を知らずして「興国」はなく、そのことが「亡国」に至らせると問い質す声に応ずるものにほかならない。内村には、富国強兵による軍事大国への道を歩む日本の姿が「国民が真理発顕に用なきに至りし為其の存在の理由を失ひ」し状況にほかならず、亡国の道を歩むものとみなされたのである(アサヒクロニクル「週刊20世紀」)
1900(明治33)年『聖書之研究』(以下参考に記載の「☆内村鑑三」の1900年9月 『聖書之研究』 創刊号参照)、1901(明治34)年には『無教会』を創刊。この時期から自宅において聖書の講義を始め、志賀直哉や小山内薫らが聴講に訪れる。また黒岩や堺利彦、幸徳秋水らと社会改良を目的とする理想団を結成した。
内村は、不敬罪事件の後の日清戦争が始まったばかりの1894(明治27)年の著書『Japan and The Japanese』には、「私に愛する2つのJがある、其の1つはイエス(Jesus)であって、もう1つのJは日本(Japan)である」(私の愛国心に就て)として、内村はキリスト教の信仰と日本人としての愛国心を両立させようとしただけであったことを書いている。
日露戦争時には非戦論を展開し、戦争には批判的ではあったが、彼の元に「徴兵拒否をしたい」と相談に来た青年に対しては、「家族のためにも兵役には行った方がいい」と発言したといわれており、また、斉藤宗次郎が、内村に影響されて本気で非戦論を唱え、「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意をした時には、内村は斎藤のもとを訪れ、説得して翻意させているという。そして、幸徳秋水ら社会主義者との関係が深かったが、後年にはその社会主義をも批判しているといい、これは、1915(大正4)年の『聖書之研究』での「社会主義は愛の精神ではない。これは一階級が他の階級に抱く敵愾の精神である。社会主義に由って国と国とは戦はざるに至るべけれども、階級と階級との間の争闘は絶えない。社会主義に由って戦争はその区域を変へるまでである」というのがその主張であった(Wikipedia)という。
西村は、特定の教派・神学を持たず、聖書のみにもとづく信仰福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた魅力ある人物である。
特に若い人には宗教と言う問題から離れて、内村がどんな人物であったか、そして、どのような思想を持っていたかを是非学んで欲しいものだと思う。
(画像は、満朝報英文時代の内村鑑三 、中。この時40歳。右隣は同誌主宰者の黒岩涙香。1902年1月満朝報3000号発刊記念写真から。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
内村鑑三 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%9D%91%E9%91%91%E4%B8%89
無教会主義 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%95%99%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9
不敬罪 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%95%AC%E7%BD%AA
作家別作品リスト:No.34内村 鑑三
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person34.html
田中正造 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%AD%A3%E9%80%A0
対露同志会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E9%9C%B2%E5%90%8C%E5%BF%97%E4%BC%9A
※ヨブ記 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%96%E8%A8%98
※ヨブ物語 Index
http://www2.plala.or.jp/Arakawa/job_index.htm
※松岡正剛の千夜千冊『ヨブ記』旧約聖書
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0487.html
[PDF] 無教会主義キリスト教における社会正義
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/christ/asia/journals/asia3iwano.pdf
内村鑑三 高尚なる生涯
http://www2s.biglobe.ne.jp/~yukiya-s/home-2/uchimura.htm
☆内村鑑三
http://uchimurakorea.hp.infoseek.co.jp/uchimura/kanzou_profile.htm
内村鑑三小選集『愛国心をめぐって』(書肆心水)
http://www.shoshi-shinsui.com/book-aikokushin.htm
聖書翻訳 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%9B%B8%E7%BF%BB%E8%A8%B3
[PDF]聖書の読み方「来世を背景として読むべし」内村鑑三
http://my.reset.jp/~comcom/sozai/large/seishono_yomikata.pdf
[PDF] 日本キリスト者の「宗教的寛容」
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/christ/tolerantia/05iwano.pdf
内村鑑三「デンマルク国の話」小論
http://members2.jcom.home.ne.jp/mta5-8hg3yd7/utimura.html
「聖書之研究」を読む
http://6304.teacup.com/mitubasanokageni/bbs
「日本史なんて怖くない」近現代の文化2
http://www.melma.com/backnumber_10441_2289204/
内村鑑三不敬事件
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_2903.html
新渡戸稲造らと共に札幌農学校に学び、直接には教を受けなかったが、農学校に教頭として在校していたウィリアム・スミス・クラークらの強い感化力によって、クリスチャンとなるが、1884(明治17)年に私費で渡米し、拝金主義、人種差別の流布したキリスト教国の現実を知って幻滅する。この時期、札幌同期の新渡戸とともにペンシルバニア州フィラデルフィア近郊の親日的クエーカー教徒と親交を持つようになる。翌年9月にはマサチューセッツ州のアマースト大学に選科生として編入。在学中、同大学の総長であり牧師でもあるJ.H.シーリーによる感化を受け、宗教的回心(かいしん)をする。同大学を卒業し理学士の学位を受け、続けてコネチカット州のハートフォード神学校に入学するが、神学教育に失望し神学の学位は得ないまま退学。1888(明治21)年に帰国後、教育者として立ち、1890(明治23)年から第一高等学校の嘱託教員となったが翌・1891(明治24)年1月9日、思わぬ試練に遭遇する。講堂で挙行された教育勅語奉読式において勅語に記された天皇の署名に対し、「宗教的礼拝」をためらったことで同僚・生徒などによって非難され、それが社会問題化し内村は不敬の徒として辞職に追い込まれた。世にいう一高「不敬」(不敬罪参照)事件である。この時内村は敬礼を行なわなかったのではなく、拝礼が宗教性を帯びると判断して、偶像崇拝を否定するキリスト教徒の良心から最敬礼をしなかっただけなのだが、それが、その後、「国賊」「不敬漢」として、日本中のジャーナリストから総攻撃されたのだ。この後内村は著作活動に専念し、英文の『How I Become a Christian』(余は如何にして基督教徒となりしか)などの著書を著わしている。
1897(明治30)年に上京し、「萬朝報」(黒岩涙香が社主を務める朝報社に入社し同社発行の新聞「萬朝報」英文欄主筆となった。それまで政治的知識層を読者としてきたジャーナリズム(正論新聞)が大衆的読者の憤懣を扇動してゆくなか、上流階級の暗部を暴き立てるスキャンダラスによって社会の中下層を読者としてきた萬朝報などはイエロージャーナリズム(赤新聞)と呼ばれてた。
日露の緊張関係が高まった、1903(明治36)年対露同士会や戸水寛人らが結成する東京帝大七博士(七博士意見書参照)の開戦論が大衆的読者の憤懣を扇動してゆくジャーナリズムと結びつき大きな反響を巻き起こしたが、反面、イエロージャーナリズムと呼ばれる「萬朝報」の内村鑑三や幸徳秋水らが非戦論を展開するようになる。最初は日清戦争を支持していた内村だが、その戦争が内外にもたらした影響を痛感して平和主義に傾く。彼らのキリスト教や社会主義からする非戦論は、当時の社会中下層の人々の不満に根ざしていたものであった。その点では対外強硬派の開戦論と同根といえるかもしれないが、日露戦争直前には同じ社会的不満に立つ議論が開戦論と非戦論に分裂し対立していたのだ。しかし、最初は非戦論を唱えていたものの、世間の流れが開戦に傾くにつれ、黒岩自体も主戦論に転じたため、非戦を固持した内村は幸徳らとともに翌・1898(明治31)年には「萬朝報」を退社するが、1900(明治33)年からは客員として寄稿した。また、1898(明治31)年に『東京独立雑誌』を発刊し主筆となる。足尾銅山鉱毒事件で財閥を攻撃した。
足尾銅山鉱毒事件の告発者として有名な田中正造 は、栃木県下都賀郡にあった谷中村に住み、仮小屋にとどまる農民と共に生き、明治政府との戦いに終生を費やした。
その生涯は、内村が、「義の為めに責めらるる者は福なり」(興味のある人は以下参考に記載の「[PDF]聖書の読み方「来世を背景として読むべし」内村鑑三 」参照)と田中を励ましたように、旧訳聖書にみるヨブ記の世界に連なるものであった(「ヨブ記」は非常に奥の深い協議で面白いので、内容を知りたい人は以下参考に記載の※のついたものを見られると良い)。日本は「最早亡びたる後の国なり」と記す田中の思いは、内村が1899(明治32)年9月「東京独立雑誌」43号から連載開始の『興国史談』で、「興国」は半面で「亡国」を知ることであり、「亡国」を知らずして「興国」はなく、そのことが「亡国」に至らせると問い質す声に応ずるものにほかならない。内村には、富国強兵による軍事大国への道を歩む日本の姿が「国民が真理発顕に用なきに至りし為其の存在の理由を失ひ」し状況にほかならず、亡国の道を歩むものとみなされたのである(アサヒクロニクル「週刊20世紀」)
1900(明治33)年『聖書之研究』(以下参考に記載の「☆内村鑑三」の1900年9月 『聖書之研究』 創刊号参照)、1901(明治34)年には『無教会』を創刊。この時期から自宅において聖書の講義を始め、志賀直哉や小山内薫らが聴講に訪れる。また黒岩や堺利彦、幸徳秋水らと社会改良を目的とする理想団を結成した。
内村は、不敬罪事件の後の日清戦争が始まったばかりの1894(明治27)年の著書『Japan and The Japanese』には、「私に愛する2つのJがある、其の1つはイエス(Jesus)であって、もう1つのJは日本(Japan)である」(私の愛国心に就て)として、内村はキリスト教の信仰と日本人としての愛国心を両立させようとしただけであったことを書いている。
日露戦争時には非戦論を展開し、戦争には批判的ではあったが、彼の元に「徴兵拒否をしたい」と相談に来た青年に対しては、「家族のためにも兵役には行った方がいい」と発言したといわれており、また、斉藤宗次郎が、内村に影響されて本気で非戦論を唱え、「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意をした時には、内村は斎藤のもとを訪れ、説得して翻意させているという。そして、幸徳秋水ら社会主義者との関係が深かったが、後年にはその社会主義をも批判しているといい、これは、1915(大正4)年の『聖書之研究』での「社会主義は愛の精神ではない。これは一階級が他の階級に抱く敵愾の精神である。社会主義に由って国と国とは戦はざるに至るべけれども、階級と階級との間の争闘は絶えない。社会主義に由って戦争はその区域を変へるまでである」というのがその主張であった(Wikipedia)という。
西村は、特定の教派・神学を持たず、聖書のみにもとづく信仰福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた魅力ある人物である。
特に若い人には宗教と言う問題から離れて、内村がどんな人物であったか、そして、どのような思想を持っていたかを是非学んで欲しいものだと思う。
(画像は、満朝報英文時代の内村鑑三 、中。この時40歳。右隣は同誌主宰者の黒岩涙香。1902年1月満朝報3000号発刊記念写真から。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
内村鑑三 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%9D%91%E9%91%91%E4%B8%89
無教会主義 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%95%99%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9
不敬罪 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%95%AC%E7%BD%AA
作家別作品リスト:No.34内村 鑑三
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person34.html
田中正造 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%AD%A3%E9%80%A0
対露同志会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E9%9C%B2%E5%90%8C%E5%BF%97%E4%BC%9A
※ヨブ記 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%96%E8%A8%98
※ヨブ物語 Index
http://www2.plala.or.jp/Arakawa/job_index.htm
※松岡正剛の千夜千冊『ヨブ記』旧約聖書
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0487.html
[PDF] 無教会主義キリスト教における社会正義
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/christ/asia/journals/asia3iwano.pdf
内村鑑三 高尚なる生涯
http://www2s.biglobe.ne.jp/~yukiya-s/home-2/uchimura.htm
☆内村鑑三
http://uchimurakorea.hp.infoseek.co.jp/uchimura/kanzou_profile.htm
内村鑑三小選集『愛国心をめぐって』(書肆心水)
http://www.shoshi-shinsui.com/book-aikokushin.htm
聖書翻訳 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%9B%B8%E7%BF%BB%E8%A8%B3
[PDF]聖書の読み方「来世を背景として読むべし」内村鑑三
http://my.reset.jp/~comcom/sozai/large/seishono_yomikata.pdf
[PDF] 日本キリスト者の「宗教的寛容」
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/christ/tolerantia/05iwano.pdf
内村鑑三「デンマルク国の話」小論
http://members2.jcom.home.ne.jp/mta5-8hg3yd7/utimura.html
「聖書之研究」を読む
http://6304.teacup.com/mitubasanokageni/bbs
「日本史なんて怖くない」近現代の文化2
http://www.melma.com/backnumber_10441_2289204/
内村鑑三不敬事件
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_2903.html