今日(3月22日)は、小説家・城山 三郎の2007(平成19)年の忌日。今日で、丁度亡くなって1年目となる。
城山 三郎(本名杉浦 英一)は、1927(昭和 2)年8月18日 名古屋市の生まれ。1945(昭和20)年、愛知県立工業専門学校(現・名古屋工業大学)に入学。理工系学生であったため徴兵猶予になるも海軍に志願入隊。海軍特別幹部候補生として特攻隊である伏龍部隊に配属になり訓練中に終戦を迎えた。
終戦後の1946(昭和21)年、東京商科大学(現・一橋大学)予科入学、1952(昭和27)年に東京商科大卒業後、郷土の愛知学芸大学(現・愛知教育大学)商業科助手に就任後、専任講師となる。同大学在職中の1958(昭和33)年、城山三郎のペンネームで商社マンの悲哀を描いて応募した「輸出」で文学界新人賞受賞。1959(昭和34)年、「総会屋錦城」で直木賞受賞。1963(昭和38)年退職し、文筆業に専念する。経済小説という新しい分野の開拓者であり、『小説日本銀行』や『官僚たちの夏』など経済に関わる人間ががどんな志を抱き、何に悩みつつ、それを貫きとうそうとしたかを描き、又、実在の人物をモデルにしたノンフィクション風の小説、A級戦犯に指定され、東京裁判で有罪か無罪かで賛否両論となり、唯一文官として絞首刑となった元首相の広田弘毅の生涯を描いた物語『落日燃ゆ』、 金解禁政策に賭けた浜口雄幸(おさち)と井上準之助を描く『男子の本懐』、国鉄の経営合理化に取り組み、国鉄経営に民間企業の経営方針の導入を試行した石田礼助の生涯を描いた『粗にして野だが卑ではない』などのを数多く著している。因みに、「粗にして野だが卑ではない」とは、石田が国鉄総裁に就任した後、国会での初登院で言った言葉であるが、またその際には「国鉄が今日の様な状態になったのは、諸君(国会議員)たちにも責任がある」と発言したという。
城山の前歯2本は義歯だったそうだが、自伝的長編『大儀の末』に、主人公が軍隊で転びそうになりとっさに銃をかばい岩盤に顔から激突する場面がある。ここでいう「大義」とは国民を戦争へ駆り立てた天皇制のことを指している。戦争中に『大義』という杉本五郎の本を読んで、そこに書かれている「大義」を信じて、17歳の城山少年が父親の反対を押し切り、自ら望んで入隊した海軍での訓練時代に自分の身に起きたことであった。しかし、そこで見たものは、信じられないような上官たちの腐敗であり、自分たち兵士には、粗衣粗食を強要しその上厳しい訓練を課しながら、上官たちはのうのうと暖衣飽食を続けていた。そのような軍隊の現実に打ちのめされて終戦を迎えた。だが、戦後大学に入ったものの、軍隊帰りは日冷ややかな視線にさらされた。”あの戦争とは何だったのか”・・・・。城山はこの作品を書くために作家を志したという。だから、”原点はすべて戦争体験から起こった大義への不信であり、そこから、組織の中で人間が生きること、特に組織の論理と、人間の幸福とはどうなるのかということをテーマにして書いてきた。”という。(以下参考に記載の「有鄰・城山三郎と戦争文学 」参照)
1929(昭和 4)年10月24日にニューヨーク株式市場(ウォール街)で株価が大暴落したことに端を発した世界恐慌の影響を受けて日本でも発生した昭和恐慌により、1930(昭和 5)年は、失業、スト、小作争議、自殺者の急増と灰色の日々が続いた上、11月にはその風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた・浜口雄幸首相が東京駅で、右翼の青年に銃撃されるという事件が起こった。翌1931(昭和6)年、関東軍が満州事変を起こし、翌々年には、5.15事件で犬養毅首相が軍人によって射殺されている。
浜口首相襲撃事件は、日本を破滅に向かわせる奔流が次第に勢いを増して行くのを知らせる不吉な予告でもあった。浜口首相の盟友、井上準之助蔵相は、内閣発足時から死を覚悟していたらしい。浜口は「国家のために斃(たお)るればむしろ本懐とするところだ」と書いており、東京駅頭で浜口が駆けつけた医師に述べた言葉「男子の本懐」といったのは、そういう意味だった。(城山の『男子の本懐』)
第一次大戦時に停止した「金本位制」への復帰(金解禁)、予算削減、軍縮を決行するには凄まじい反発がある・・・と二人は予測していた。折りしもロンドン海軍軍縮会議が海軍の軍縮を迫り、この受諾をめぐって統帥権干犯問題が起った。そして、やがて、締結に対する反対論は同条約に不満を持っていた海軍軍令部や右翼団体を巻き込むことになり、右翼青年に浜口が銃撃され重傷(翌年8月26日死亡)するという事件が起った。「軍部に媚びるな」「軍部が国際関係を無視して計画を進めれば国家は滅亡に瀕すべし」と論じた信念の政治家井上準之助も1932(昭和 7)年右翼に暗殺された。
この事件以降日本の政党政治は弱体化。また、軍部が政府決定や方針を無視して暴走を始め、非難に対してはこの権利(統帥権)を行使され政府はそれを止める手段を失うことになった。
軍事費削減、行政機構の整理、これに対する軍部や官僚からの激しい抵抗と闘い、緊縮財政がもたらす一時的な不景気を国民に納得させること。この困難な政策に真っ向から取り組んだ、浜口と井上の2人の生涯を描いた「男子の本懐」。このタイトルに使われている言葉「男子の本懐」・・・。なんと懐かしく感じられる言葉だろうか。私達が若い頃には、よく聞かれた言葉である。
良かれ悪しかれ、男子たるものが何か志しを立てて始めた以上は何事かが起こって中道で斃(たお)れてもそれは「男子としては本懐」・・・といった心意気は、少なくとも、戦前生まれの男子には多かれ少なかれあったのではないだろうか。私なども大好きな言葉である。しかし、太平洋戦争の敗戦以降、靴下と女が強くなったとはよく言く聞かされる言葉だが、一方の男達は戦争に負けたことから弱気になり、意気消沈、そして、男としての気概までなくしてしまったように思われる。最も、男子が男・男と言うと「何が男よ!」と、とんがった先鋭的女性から攻撃されそうだが・・・。
中でも、今の政治家の体たらくはどうしたことだろう。ただただ自己の保身と損得勘定だけでのために政権にすがり付いているようで情けない。今、衆・参両議院のねじれ現象から、アメリカのサブプライムローン問題の影響により、円高ドル安・株価の下落・石油はじめ麦価ほか諸物価が値上がりし、景気が低迷するなど、日本経済が大変な時期を迎えているのに、中央銀行である・日銀総裁が不在などと言う状況であり、英エコノミスト誌は「JAPAiN」と題する日本特集を掲載、日本政治が馬鹿にされている。政治家は、城山 三郎の小説に描かれる浜口や井上のような政治家の爪の垢でも煎じてのみ、政党同士が向き合うのではなく、ちゃんと、国民の方を向いて、国家・国民のための政治をして欲しいものだが・・・、そんな政治家を選んだのは、我々国民であることも忘れてはいけないだろうな~。
(画像は、向かって、右:城山三郎作『男子の本懐』、左:神奈川県茅ヶ崎の自宅で之写真。2007・5・25朝日新聞夕刊掲載のものより。)
参考:
城山三郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E5%B1%B1%E4%B8%89%E9%83%8E
有鄰・城山三郎と戦争文学
http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/410_1.html
城山三郎と芥川賞著目一覧
http://www.geocities.jp/shiro_akuta/index1.html
読書録 城山三郎
http://homepage3.nifty.com/fwnn7163/books/shiroyama.html
有田芳生の『酔醒漫録』: 城山三郎「大義の末」を読む
http://saeaki.blog.ocn.ne.jp/arita/2007/05/post_acd1.html
もの言う翔年(ユリウス):城山三郎「小説日本銀行」の思い出
http://ikiiki.livedoor.biz/archives/50740506.html
1930年- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/1930%E5%B9%B4
1930年[ザ・20世紀]
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1930.html
1930年 / クリック 20世紀
http://www.c20.jp/20c/1930.html
●地主・小作
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H344R100.HTM
五・一五事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E3%83%BB%E4%B8%80%E4%BA%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6
サブプライムローン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%96%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%B3
城山 三郎(本名杉浦 英一)は、1927(昭和 2)年8月18日 名古屋市の生まれ。1945(昭和20)年、愛知県立工業専門学校(現・名古屋工業大学)に入学。理工系学生であったため徴兵猶予になるも海軍に志願入隊。海軍特別幹部候補生として特攻隊である伏龍部隊に配属になり訓練中に終戦を迎えた。
終戦後の1946(昭和21)年、東京商科大学(現・一橋大学)予科入学、1952(昭和27)年に東京商科大卒業後、郷土の愛知学芸大学(現・愛知教育大学)商業科助手に就任後、専任講師となる。同大学在職中の1958(昭和33)年、城山三郎のペンネームで商社マンの悲哀を描いて応募した「輸出」で文学界新人賞受賞。1959(昭和34)年、「総会屋錦城」で直木賞受賞。1963(昭和38)年退職し、文筆業に専念する。経済小説という新しい分野の開拓者であり、『小説日本銀行』や『官僚たちの夏』など経済に関わる人間ががどんな志を抱き、何に悩みつつ、それを貫きとうそうとしたかを描き、又、実在の人物をモデルにしたノンフィクション風の小説、A級戦犯に指定され、東京裁判で有罪か無罪かで賛否両論となり、唯一文官として絞首刑となった元首相の広田弘毅の生涯を描いた物語『落日燃ゆ』、 金解禁政策に賭けた浜口雄幸(おさち)と井上準之助を描く『男子の本懐』、国鉄の経営合理化に取り組み、国鉄経営に民間企業の経営方針の導入を試行した石田礼助の生涯を描いた『粗にして野だが卑ではない』などのを数多く著している。因みに、「粗にして野だが卑ではない」とは、石田が国鉄総裁に就任した後、国会での初登院で言った言葉であるが、またその際には「国鉄が今日の様な状態になったのは、諸君(国会議員)たちにも責任がある」と発言したという。
城山の前歯2本は義歯だったそうだが、自伝的長編『大儀の末』に、主人公が軍隊で転びそうになりとっさに銃をかばい岩盤に顔から激突する場面がある。ここでいう「大義」とは国民を戦争へ駆り立てた天皇制のことを指している。戦争中に『大義』という杉本五郎の本を読んで、そこに書かれている「大義」を信じて、17歳の城山少年が父親の反対を押し切り、自ら望んで入隊した海軍での訓練時代に自分の身に起きたことであった。しかし、そこで見たものは、信じられないような上官たちの腐敗であり、自分たち兵士には、粗衣粗食を強要しその上厳しい訓練を課しながら、上官たちはのうのうと暖衣飽食を続けていた。そのような軍隊の現実に打ちのめされて終戦を迎えた。だが、戦後大学に入ったものの、軍隊帰りは日冷ややかな視線にさらされた。”あの戦争とは何だったのか”・・・・。城山はこの作品を書くために作家を志したという。だから、”原点はすべて戦争体験から起こった大義への不信であり、そこから、組織の中で人間が生きること、特に組織の論理と、人間の幸福とはどうなるのかということをテーマにして書いてきた。”という。(以下参考に記載の「有鄰・城山三郎と戦争文学 」参照)
1929(昭和 4)年10月24日にニューヨーク株式市場(ウォール街)で株価が大暴落したことに端を発した世界恐慌の影響を受けて日本でも発生した昭和恐慌により、1930(昭和 5)年は、失業、スト、小作争議、自殺者の急増と灰色の日々が続いた上、11月にはその風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた・浜口雄幸首相が東京駅で、右翼の青年に銃撃されるという事件が起こった。翌1931(昭和6)年、関東軍が満州事変を起こし、翌々年には、5.15事件で犬養毅首相が軍人によって射殺されている。
浜口首相襲撃事件は、日本を破滅に向かわせる奔流が次第に勢いを増して行くのを知らせる不吉な予告でもあった。浜口首相の盟友、井上準之助蔵相は、内閣発足時から死を覚悟していたらしい。浜口は「国家のために斃(たお)るればむしろ本懐とするところだ」と書いており、東京駅頭で浜口が駆けつけた医師に述べた言葉「男子の本懐」といったのは、そういう意味だった。(城山の『男子の本懐』)
第一次大戦時に停止した「金本位制」への復帰(金解禁)、予算削減、軍縮を決行するには凄まじい反発がある・・・と二人は予測していた。折りしもロンドン海軍軍縮会議が海軍の軍縮を迫り、この受諾をめぐって統帥権干犯問題が起った。そして、やがて、締結に対する反対論は同条約に不満を持っていた海軍軍令部や右翼団体を巻き込むことになり、右翼青年に浜口が銃撃され重傷(翌年8月26日死亡)するという事件が起った。「軍部に媚びるな」「軍部が国際関係を無視して計画を進めれば国家は滅亡に瀕すべし」と論じた信念の政治家井上準之助も1932(昭和 7)年右翼に暗殺された。
この事件以降日本の政党政治は弱体化。また、軍部が政府決定や方針を無視して暴走を始め、非難に対してはこの権利(統帥権)を行使され政府はそれを止める手段を失うことになった。
軍事費削減、行政機構の整理、これに対する軍部や官僚からの激しい抵抗と闘い、緊縮財政がもたらす一時的な不景気を国民に納得させること。この困難な政策に真っ向から取り組んだ、浜口と井上の2人の生涯を描いた「男子の本懐」。このタイトルに使われている言葉「男子の本懐」・・・。なんと懐かしく感じられる言葉だろうか。私達が若い頃には、よく聞かれた言葉である。
良かれ悪しかれ、男子たるものが何か志しを立てて始めた以上は何事かが起こって中道で斃(たお)れてもそれは「男子としては本懐」・・・といった心意気は、少なくとも、戦前生まれの男子には多かれ少なかれあったのではないだろうか。私なども大好きな言葉である。しかし、太平洋戦争の敗戦以降、靴下と女が強くなったとはよく言く聞かされる言葉だが、一方の男達は戦争に負けたことから弱気になり、意気消沈、そして、男としての気概までなくしてしまったように思われる。最も、男子が男・男と言うと「何が男よ!」と、とんがった先鋭的女性から攻撃されそうだが・・・。
中でも、今の政治家の体たらくはどうしたことだろう。ただただ自己の保身と損得勘定だけでのために政権にすがり付いているようで情けない。今、衆・参両議院のねじれ現象から、アメリカのサブプライムローン問題の影響により、円高ドル安・株価の下落・石油はじめ麦価ほか諸物価が値上がりし、景気が低迷するなど、日本経済が大変な時期を迎えているのに、中央銀行である・日銀総裁が不在などと言う状況であり、英エコノミスト誌は「JAPAiN」と題する日本特集を掲載、日本政治が馬鹿にされている。政治家は、城山 三郎の小説に描かれる浜口や井上のような政治家の爪の垢でも煎じてのみ、政党同士が向き合うのではなく、ちゃんと、国民の方を向いて、国家・国民のための政治をして欲しいものだが・・・、そんな政治家を選んだのは、我々国民であることも忘れてはいけないだろうな~。
(画像は、向かって、右:城山三郎作『男子の本懐』、左:神奈川県茅ヶ崎の自宅で之写真。2007・5・25朝日新聞夕刊掲載のものより。)
参考:
城山三郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E5%B1%B1%E4%B8%89%E9%83%8E
有鄰・城山三郎と戦争文学
http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/410_1.html
城山三郎と芥川賞著目一覧
http://www.geocities.jp/shiro_akuta/index1.html
読書録 城山三郎
http://homepage3.nifty.com/fwnn7163/books/shiroyama.html
有田芳生の『酔醒漫録』: 城山三郎「大義の末」を読む
http://saeaki.blog.ocn.ne.jp/arita/2007/05/post_acd1.html
もの言う翔年(ユリウス):城山三郎「小説日本銀行」の思い出
http://ikiiki.livedoor.biz/archives/50740506.html
1930年- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/1930%E5%B9%B4
1930年[ザ・20世紀]
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1930.html
1930年 / クリック 20世紀
http://www.c20.jp/20c/1930.html
●地主・小作
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H344R100.HTM
五・一五事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E3%83%BB%E4%B8%80%E4%BA%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6
サブプライムローン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%96%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%B3