今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

豐臣秀吉の忌日

2007-08-18 | 人物
今日(8月18日)は、豐臣秀吉(木下藤吉郎,羽柴秀吉)の1598年(慶長3)の忌日。
豊臣 秀吉は、「天文6年2月6日(1537年3月26日) 尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)の百姓である木下 弥右衛門と、なか(後の大政所)の間の子として生まれ、織田信長に仕え、次第に頭角を表す。信長が本能寺の変明智光秀に討たれると、中国大返しによりへと戻り、山崎の戦いで光秀を破り、信長の後継の地位を得る。その後、大坂城を築き関白太政大臣に任ぜられた。豊臣姓を賜り、日本全国の大名を従え天下統一を成し遂げた。太閤検地刀狩などの政策を採るが、慶長の役の最中に、五大老筆頭の徳川家康や嗣子秀頼(側室の淀殿との間に産まれる)の護り役の前田利家に後事を託して慶長3年8月18日(1598年9月18日)伏見城で胃がんのため没したとされるが、死因については諸説あるようである。享年61歳であった。戦国時代から天正時代(安土桃山時代)にかけての墨俣の一夜城金ヶ崎の退き口高松城の水攻めなど機知に富んだ逸話が伝わっている。
秀吉の死を契機に五大老より撤退が命じられて慶長の役は終了するが、7年に亘るこの戦争で朝鮮の軍民と国土は大きな被害を受けて荒廃し、援軍を送った帝国も莫大な戦費と兵員を失って明王朝交代の一因を作った。また日本側でも動員された西国大名が加封を受けられず疲弊した。 李氏朝鮮との正式な外交関係は朝鮮通信使が慶長12年(1607年)に江戸幕府に派遣されるまで回復しなかった。
秀吉が何故無謀なこの朝鮮出兵、いわゆる文禄・慶長の役をしたかは1つの謎とされているが、秀吉が「唐国までも仰せつけ」る意向を明らかにしたのは突然のことではなく天正13年(1598年)9月のことで、関白就任後2ヶ月もたっていない時期であったという。翌年九州制圧の計画が進行する中で、「高麗御渡海(こうらいごとかい)の事」、そして、再び「唐国までなりとも仰せつけられるべき」存分が示され、九州の役(九州征伐参照)が終わると正室ねね(高台院)に宛て「高麗のほうまで日本の内裏へ出仕申すべきよし、早舟を仕立て申しつかわせ候。出仕申さず候はば、来年成敗申すべきよし申しつかわせ候。国まで手にいれ、我ら一期のうちに申しつくべき候」と書いた。さらに、天正17年(1589年)、会津の蘆名 義広(あしな よしひろ)を滅ぼした伊達政宗に停戦を命じた文書の中で、奉行の浅野長吉(長政)富田知信(一白)は「日本の儀は申すに及ばず、唐国までも上意を得られ候者どもの為に候あいだ・・・」と説いており、惣無事令(そうぶじれい)伝達の使者が関東・奥羽で同様の趣旨を触れてまわった事実もある。これによってみると「唐入り」は無謀と言うよりも、秀吉にとっては国内統合のための一貫した戦略的計画の中に位置づけられていたととらえられるのではないかという。秀吉の国内統合が惣無事令即ち領主間紛争の武闘による解決を停止し、関白の裁定に委ねる方策を有力な梃子(てこ)として推進された。中世に長く続いた集団の自力発動の慣習を、いかに強大な軍事力・経済力などを動員したとはいえ、法度による裁定の(平和的)秩序へと転換させるには膨大なエネルギーを要した。秀吉は各地域の領主間闘争を停止させる代わりに「唐国までも仰せつけ」る意図を表明して、領主層の領土への欲望を大陸に向け放出させる計策をとった。ここに「天下統一」が「唐入り」へと連ならざるをえない理由があった。秀吉が関白という公家の官職に依拠しながら、武家の棟梁としての実を示さなければならなかったこともある。当初、将軍の職を目指して東国進出をはかった秀吉は「海道一の弓取り」とうたわれた徳川家康のために小牧・長久手(小牧・長久手の戦い 参照)にその道を抑(よく)され、転進して政治力をもって関白の地位についた。この心理的な負い目は秀吉の一生につきまとっていたという。彼が敢えて関白職を「天下の儀、切りしたがゆべき」職と規定し、「唐入り」を呼号し続けなければならなかった一半の事情はそこに起因していたといわれる。(週刊(朝日百貨「日本の歴史」)
しかし、この文禄・慶長の役の動機について、諸説あるが、最近の研究では、スペインやポルトガルの支那征服への対抗策であったという説があるようだ。この説の裏づけとして、文禄3年(1593年)、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府を「支那に至ればルソンはすぐ近く予の指下にある」と手紙で恫喝している。この文禄・慶長の役の失敗は、、豊臣家の家臣が徳川家に味方する者が相次ぐことになったことの遠因とも言われており、豊臣政権が短命に終わる原因の一つになったともいえる。
秀吉の辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」。
百姓から天下人へと上り詰めた秀吉の生涯は「戦国一」の出世頭、いや日本一、もしかすると世界一かもしれない。貧しい身分の親を持つ秀吉は、天下人になるという大きな野望を持ち、見事それを成し遂げた。その旺盛な行動力は多くの逸話を生んだ。その一生は、数知れない小説、映画、ドラマ化され、知らない人はいないだろう。まさにその生涯は日本史上最高の幸運に恵まれた生涯だったはずである。・・・が、そのような人物の辞世の句としては、いかにも儚(はかな)い悲哀に満ちたものである。
苦労に明け暮れた前半生であったが、そのお蔭で出世を重ね天下人に駆け上り黄金時代を築いたが、千利休の切腹事件や強引な二度に渡る朝鮮への侵攻(文禄の役・慶長の役)などで、家臣や人民の心が離れていったことを秀吉自身が気づいていないことはなかったと思うが、中でも、秀吉の甥で関白の座を譲ったはずの豊臣秀次に謀反の疑いをかけ切腹に追い込み、秀次の遺児(4男1女)及び正室・側室併せて39名を三条河原で処刑した事件(秀次事件)は、凄惨の一語に尽きる。
露のようにこの世に生まれ落ち、そして露のようにはかなく消えていってしまった。浪速の地に誇った栄華も空しく、夢の中の夢のようにはかないものだったのだ。
人は誰でも「人生いかに生きるか」を考え、悩むものであるが、秀吉の辞世の句にはぐっと、身につまされる思いがする。人は、お金や地位や身分を得たからと言って幸せになれるものではない。「幸せって・・・なんだろう?」ちょっと、考えてみるのも良いのではないか。
(画像は、豐臣秀吉。Wikipedia より)
参考:
年表で見る戦国時代・豊臣秀吉
http://www.geocities.jp/hosinoufo3/toyotomi-hideyosi.html
戦国時代 (日本) -Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
朝鮮通信使 -Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF
わかりやすい朝鮮通信使
http://hatiman.gaido.jp/kankou/tsusinsi/
【 天 下 統 一 期 年 譜 】 
http://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/syokuho/syokuho0.htm
秀吉の朝鮮出兵の動機はス ペインやポルトガルのシナ征服への対抗策であった。繰り返す朝鮮出兵の歴史
http://asyura.com/0403/bd35/msg/828.html
新説・日本の歴史第32弾/秀吉の朝鮮出兵を考える
http://home.att.ne.jp/banana/history/Dai32-Hideyoshi.html
淡路・菅水軍の歴史八章、秀吉の朝鮮侵略
http://homepage2.nifty.com/H-Suga/kan9.html
小牧・長久手の戦い - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A7%E3%83%BB%E9%95%B7%E4%B9%85%E6%89%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
3・2・3 スペインのマニラと中国・日本との交易
http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/koekisi4/page002.html
ルソン島
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3%E5%B3%B6