今日(8月7日)は、「花の日」「は(8)な(7)」の語呂合せ。
花(華とも書く。花卉-かき=漢字制限のため、「花き」と書かれることが多い)とは植物が成長してつけるもので、多くはきれいな花びらに飾られる。花が枯れると果実ができて、種子ができる。生物学的には種子植物の生殖器官である。一般には、被子植物の花が典型的なものと見られている。普通、枝から伸びた柄の先につき、中心に雌蕊(しずい。一般には「めしべ」と呼ばれる)があり、その周囲に雄蕊(ゆうずい。一般的には「おしべ」と呼ばれる)が囲む(ないものもある)。その周囲には、花びらや萼などが配置する。花粉により受粉をさせ、生殖を行う。
多くの花は美しいものが多いが、それは、花が鳥や昆虫など、移動能力の大きい動物の目を引き、花粉媒介をしてもらうためである。それらの動物にとっては、花は花粉や蜜などの餌を手に入れる場であるが、これも、花粉媒介の成功に対する 、見返りに植物が提出しているものと見なせる。香りがあるのも、同様な理由である。人間の場合、同じ様なことをして、オスはメスからどんな見返りがあるのだろう???・・・なんて、ふと考えてしまったが・・(-。-) ボソッ。
花は魅力的な姿であるので、それを鑑賞する事は世界中で古くからおこなわれてきた。風流事を称する「花鳥風月」という(四字熟語)があるが、日本では単に「花」といえば、奈良時代から平安初期まではウメの花を、平安時代初期以降は「サクラ(桜)」のことを指し、桜は、春を象徴する花として、日本人にはなじみが深く、日本で最も有名な花となっている。
日本最古の史書である『古事記』『日本書紀』にも桜に関する記述があり、コノハナノサクヤビメ(木花之佐久夜姫)が、春になると桜の花に姿を変えて地上に現れるとも書かれている。コノハナノサクヤビメは”木の花が咲くように美しい姫(女性)”の意味である。古代から農作との結びつき、「サクラ」の名称の由来には、「コノハナノサクヤビメ(木花之開耶姫)」の「さくや」をとって「桜」になったとも言われているが、以下の言語的成立の方がよいだろう。その一説には「咲く((サク)」に複数を意味する「ら(ラ)」を加えたものとされ、元来は花の密生する植物全体を指したと言われている。他の説として、春に里にやってくる稲(サ)の神が憑依(ひょうい)する座(クラ)だからサクラであるとも考えられている。
日本最古の歌集である『万葉集』にも桜を詠んだ歌がある。どのような歌が詠まれているかは、以下参考に記載の「万葉集の草花」の中の万葉集:桜を詠んだ歌を見られるとよい。
その後の和歌にも桜を詠んだものは多い。平安時代の歌人・西行法師が、月と花(サクラ)を愛したことは有名である。西行法師が詠んだ歌の中でも、特に次の歌は有名。
「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ 」
西行法師は、この歌に詠んだ通りの状況の下、入寂(にゅうじゃく、寂滅にはいること。特に、僧が死ぬこと。入滅。)したという伝説がある。
春のうらゝの隅田川
のぼりくだりの船人が
櫂のしづくも花と散る
ながめを何にたとふべき
これは、滝廉太郎の「花」である。廉太郎による歌曲集「四季」は、「花」「納涼」「月」「雪」の四曲からなる。わが国最初の合唱曲であり、花と散るのは「桜」である。日本人なら知らない人はいないだろう。以下参照。
瀧廉太郎名曲選「花」
http://www.niigata-u.com/files/oita/tk_hana.html
花に関連する歌で大好きなのが、喜納昌吉の代表作の歌曲のひとつ。『花~すべての人の心に花を~』である。このの曲は、今では沖縄を代表する曲となっており、また、日本国内はもちろん、世界60か国以上で、多数のアーティストにカバーされているという。
川は流れて どこどこ行くの
人も流れて どこどこ行くの
そんな流れが つくころには
花として 花として 咲かせてあげたい
泣きなさい 笑いなさい
いつの日か いつの日か
花を咲かそうよ
色々な人が歌っているが、以下では、同じ沖縄出身の歌手夏川りみ の歌が試聴できるよ。
YouTube - 夏川りみ - 花(すべての人の心に花を)
http://www.youtube.com/watch?v=W0g0VYrEEGk&mode=related&search
「花」は見て美しく、華やかであることから、美や生命力の象徴であることから漢字では、「華」とも書かれる事も多く、「華やか」「社交界の花」「華がある」など、「花」の語を使った表現は多いが、それとは逆の表現もされることがある。
「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき」・・・このことばを林芙美子の直筆でしたためた色紙が、新潮文庫「新版 放浪記」のカバーに印刷されている。これは、長編小説『浮雲』 に出てくる有名なことばである。『浮雲』は、『放浪記』と共に彼女の代表作であり、1955(昭和30)年に映画化もされた(『浮雲 (映画)』を参照)。
浮き草のように寄る辺のない自分の人生を語った日記体の小説『放浪記』を彼女が発表したのは1930(昭和5)年のこと、『浮雲』を発表(1949=昭和24年)する19年もまえのこと、記録的なベストセラーとなった。彼女は、貧しさと逆境の中から希望と文学への憧れを持ち、苦難の人生を送り、過労のため48歳の時に急性心臓発作で突然の死を迎えた。「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」と詠んでいるように、身を刻むような辛苦の末、やっと一流行作家となった彼女は、かねてよりの念願の家を建て、『浮雲』を執筆。脱稿後まもなく亡くなっており、この小説が彼女の創作活動の締めくくりの作となっている。『放浪記』の冒頭、「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない」と彼女は書いている。
1961(昭和36)年、菊田一夫演出、女優森光子の体当たり演技により、東京・日比谷の芸術座で『放浪記』が上演されるや大反響を呼び、つい最近にいたるまで延べ1500回以上ものロングランとなっている。
「幸せとは何だろう」・・・。人生の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知る。人は自分が幸せな時にはそれに気付かず、病気や苦難に耐えている時に、やっと幸せに気付くものだ。
「花」のことを調べていて、アサヒクロニクル「週刊20世紀」に、田宮虎彦の作品「花」という短編のなかに好きな言葉があるとして、簡単な田宮のこととその言葉が紹介されていた。先ずは、そのことを以下に引用しよう。
”1988(昭和63)年4月、作家田宮虎彦が飛び降り自殺をした。76歳だった。代表作『足摺岬 』、『絵本』は戦前、戦中時代の暗さを描いており、歳月を経ても光を失わぬ品格のある作品だ。妻を失った田宮は脳梗塞で倒れたあと、友人に「みじめな思いをしたくない。死にたい」ともらしている。自殺の真の動機はわからないが、ただ、みせかけの繁栄の裏側にある時代の暗さに鋭敏な人だったと思う。田宮の小説『花』に好きな言葉がある。戦時中、食料増産の号令で、花の生産が禁じられ、球根の貯蔵さえ国賊といわれた時代があった。花作りの一農夫がいう、「かあちゃん花なしにはいきていけねだ。花は口で食べることはできねえだが、口で食べるものだけが食べものではねえだ、心で食べるものがなくなった時、心は生きていけねだ、心の生きていけねえ人間などもう人間ではねえだ」。心で食べるものをもはや創りえない、という思いが田宮を死にかりたてたのだろうか”・・・と。
田宮 は、1911(明治44)年8月5日生まれ、東京都 出身、船員だった父の転勤のため、姫路・神戸・高知間で移転を繰返しながら少年時代を過ごしたというが、神戸で育ったときに神戸一中を卒業している。その後、東京帝国大学文学部在学中から、同人誌『日暦』『人民文庫』に参加。新聞社社員、教師などをしながら小説修業を続けていたが、 1947(昭和22)年に『世界文化』に発表した『霧の中』で注目され、小説家生活に入る。太平洋戦争中の暗い時代に取材した自伝的作品『菊坂』『絵本』『足慴岬』等の佳作を書き、1951(昭和26)年『絵本』で毎日出版文化賞を受ける。1988(昭和63)年1月に脳梗塞で倒れ病院にて療養、右半身不随になり、同年4月9日投身自殺を図っている。
田宮 の父・母共に高知県高知市と香南市の出身であり。高知へ帰ることも多く土佐を郷里と意識していたそうで、『足摺岬』 など土佐を題材とした作品も多いようだ。
足摺岬は、高知県南西部土佐清水市に属し、太平洋に突き出る足摺半島の先端の岬。足摺宇和海国立公園に指定されている。各所からは日の出、日の入りが一望できる。明るく温暖な南向きの岬である。「自殺の名所」と言う暗いイメージは田宮虎彦の小説「足摺岬」に拠る所が大きいようだ。
足摺岬灯台下の園地には、「田宮虎彦先生文学碑」があって、小説『足摺岬』の一節「砕け散る荒波の飛沫が 崖肌の巨巌いちめんに 雨のように降りそそいでいた」が刻まれている。
小説では、自殺場所を探しに訪れた青年が断崖絶壁の足摺岬に向かう途中、雨の中をびしょ濡れになって宿屋に転がり込み、その宿屋の主人や娘、同宿の温かい人情に触れるうちに立ち直っていく。その間に戦争も終って、再び主人公が足摺岬を訪れる場面で終わる。
田宮 はなぜか父親から激しく憎まれていたようで、大学在学中も母の密かな仕送りで生活していたといい、田宮の小説の基本モティーフは父親との葛藤であるという。田村の書く私小説には、そんな暗い体験を越えた一途な人生の願望を清冽な叙情でつづったものであり、いまなお多くの心を捉えているという。田宮の小説『絵本』『菊坂』『足摺岬』の3短篇から脚本・製作、新藤兼人、監督吉村公三郎が映画にした「足摺岬」(映画足摺岬(1954) )がある。
小説「足摺岬」のモデルになったといわれる旅館が現在以下のホテルとなって現存しているという。
ホテル足摺園
http://www.ashizurien.com/special_torahiko.htm
ブログの字数制限上、参考は次ページにに記した。以下をクリックするとこの下に表示されます。
クリック → 花の日:参考
花(華とも書く。花卉-かき=漢字制限のため、「花き」と書かれることが多い)とは植物が成長してつけるもので、多くはきれいな花びらに飾られる。花が枯れると果実ができて、種子ができる。生物学的には種子植物の生殖器官である。一般には、被子植物の花が典型的なものと見られている。普通、枝から伸びた柄の先につき、中心に雌蕊(しずい。一般には「めしべ」と呼ばれる)があり、その周囲に雄蕊(ゆうずい。一般的には「おしべ」と呼ばれる)が囲む(ないものもある)。その周囲には、花びらや萼などが配置する。花粉により受粉をさせ、生殖を行う。
多くの花は美しいものが多いが、それは、花が鳥や昆虫など、移動能力の大きい動物の目を引き、花粉媒介をしてもらうためである。それらの動物にとっては、花は花粉や蜜などの餌を手に入れる場であるが、これも、花粉媒介の成功に対する 、見返りに植物が提出しているものと見なせる。香りがあるのも、同様な理由である。人間の場合、同じ様なことをして、オスはメスからどんな見返りがあるのだろう???・・・なんて、ふと考えてしまったが・・(-。-) ボソッ。
花は魅力的な姿であるので、それを鑑賞する事は世界中で古くからおこなわれてきた。風流事を称する「花鳥風月」という(四字熟語)があるが、日本では単に「花」といえば、奈良時代から平安初期まではウメの花を、平安時代初期以降は「サクラ(桜)」のことを指し、桜は、春を象徴する花として、日本人にはなじみが深く、日本で最も有名な花となっている。
日本最古の史書である『古事記』『日本書紀』にも桜に関する記述があり、コノハナノサクヤビメ(木花之佐久夜姫)が、春になると桜の花に姿を変えて地上に現れるとも書かれている。コノハナノサクヤビメは”木の花が咲くように美しい姫(女性)”の意味である。古代から農作との結びつき、「サクラ」の名称の由来には、「コノハナノサクヤビメ(木花之開耶姫)」の「さくや」をとって「桜」になったとも言われているが、以下の言語的成立の方がよいだろう。その一説には「咲く((サク)」に複数を意味する「ら(ラ)」を加えたものとされ、元来は花の密生する植物全体を指したと言われている。他の説として、春に里にやってくる稲(サ)の神が憑依(ひょうい)する座(クラ)だからサクラであるとも考えられている。
日本最古の歌集である『万葉集』にも桜を詠んだ歌がある。どのような歌が詠まれているかは、以下参考に記載の「万葉集の草花」の中の万葉集:桜を詠んだ歌を見られるとよい。
その後の和歌にも桜を詠んだものは多い。平安時代の歌人・西行法師が、月と花(サクラ)を愛したことは有名である。西行法師が詠んだ歌の中でも、特に次の歌は有名。
「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ 」
西行法師は、この歌に詠んだ通りの状況の下、入寂(にゅうじゃく、寂滅にはいること。特に、僧が死ぬこと。入滅。)したという伝説がある。
春のうらゝの隅田川
のぼりくだりの船人が
櫂のしづくも花と散る
ながめを何にたとふべき
これは、滝廉太郎の「花」である。廉太郎による歌曲集「四季」は、「花」「納涼」「月」「雪」の四曲からなる。わが国最初の合唱曲であり、花と散るのは「桜」である。日本人なら知らない人はいないだろう。以下参照。
瀧廉太郎名曲選「花」
http://www.niigata-u.com/files/oita/tk_hana.html
花に関連する歌で大好きなのが、喜納昌吉の代表作の歌曲のひとつ。『花~すべての人の心に花を~』である。このの曲は、今では沖縄を代表する曲となっており、また、日本国内はもちろん、世界60か国以上で、多数のアーティストにカバーされているという。
川は流れて どこどこ行くの
人も流れて どこどこ行くの
そんな流れが つくころには
花として 花として 咲かせてあげたい
泣きなさい 笑いなさい
いつの日か いつの日か
花を咲かそうよ
色々な人が歌っているが、以下では、同じ沖縄出身の歌手夏川りみ の歌が試聴できるよ。
YouTube - 夏川りみ - 花(すべての人の心に花を)
http://www.youtube.com/watch?v=W0g0VYrEEGk&mode=related&search
「花」は見て美しく、華やかであることから、美や生命力の象徴であることから漢字では、「華」とも書かれる事も多く、「華やか」「社交界の花」「華がある」など、「花」の語を使った表現は多いが、それとは逆の表現もされることがある。
「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき」・・・このことばを林芙美子の直筆でしたためた色紙が、新潮文庫「新版 放浪記」のカバーに印刷されている。これは、長編小説『浮雲』 に出てくる有名なことばである。『浮雲』は、『放浪記』と共に彼女の代表作であり、1955(昭和30)年に映画化もされた(『浮雲 (映画)』を参照)。
浮き草のように寄る辺のない自分の人生を語った日記体の小説『放浪記』を彼女が発表したのは1930(昭和5)年のこと、『浮雲』を発表(1949=昭和24年)する19年もまえのこと、記録的なベストセラーとなった。彼女は、貧しさと逆境の中から希望と文学への憧れを持ち、苦難の人生を送り、過労のため48歳の時に急性心臓発作で突然の死を迎えた。「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」と詠んでいるように、身を刻むような辛苦の末、やっと一流行作家となった彼女は、かねてよりの念願の家を建て、『浮雲』を執筆。脱稿後まもなく亡くなっており、この小説が彼女の創作活動の締めくくりの作となっている。『放浪記』の冒頭、「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない」と彼女は書いている。
1961(昭和36)年、菊田一夫演出、女優森光子の体当たり演技により、東京・日比谷の芸術座で『放浪記』が上演されるや大反響を呼び、つい最近にいたるまで延べ1500回以上ものロングランとなっている。
「幸せとは何だろう」・・・。人生の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知る。人は自分が幸せな時にはそれに気付かず、病気や苦難に耐えている時に、やっと幸せに気付くものだ。
「花」のことを調べていて、アサヒクロニクル「週刊20世紀」に、田宮虎彦の作品「花」という短編のなかに好きな言葉があるとして、簡単な田宮のこととその言葉が紹介されていた。先ずは、そのことを以下に引用しよう。
”1988(昭和63)年4月、作家田宮虎彦が飛び降り自殺をした。76歳だった。代表作『足摺岬 』、『絵本』は戦前、戦中時代の暗さを描いており、歳月を経ても光を失わぬ品格のある作品だ。妻を失った田宮は脳梗塞で倒れたあと、友人に「みじめな思いをしたくない。死にたい」ともらしている。自殺の真の動機はわからないが、ただ、みせかけの繁栄の裏側にある時代の暗さに鋭敏な人だったと思う。田宮の小説『花』に好きな言葉がある。戦時中、食料増産の号令で、花の生産が禁じられ、球根の貯蔵さえ国賊といわれた時代があった。花作りの一農夫がいう、「かあちゃん花なしにはいきていけねだ。花は口で食べることはできねえだが、口で食べるものだけが食べものではねえだ、心で食べるものがなくなった時、心は生きていけねだ、心の生きていけねえ人間などもう人間ではねえだ」。心で食べるものをもはや創りえない、という思いが田宮を死にかりたてたのだろうか”・・・と。
田宮 は、1911(明治44)年8月5日生まれ、東京都 出身、船員だった父の転勤のため、姫路・神戸・高知間で移転を繰返しながら少年時代を過ごしたというが、神戸で育ったときに神戸一中を卒業している。その後、東京帝国大学文学部在学中から、同人誌『日暦』『人民文庫』に参加。新聞社社員、教師などをしながら小説修業を続けていたが、 1947(昭和22)年に『世界文化』に発表した『霧の中』で注目され、小説家生活に入る。太平洋戦争中の暗い時代に取材した自伝的作品『菊坂』『絵本』『足慴岬』等の佳作を書き、1951(昭和26)年『絵本』で毎日出版文化賞を受ける。1988(昭和63)年1月に脳梗塞で倒れ病院にて療養、右半身不随になり、同年4月9日投身自殺を図っている。
田宮 の父・母共に高知県高知市と香南市の出身であり。高知へ帰ることも多く土佐を郷里と意識していたそうで、『足摺岬』 など土佐を題材とした作品も多いようだ。
足摺岬は、高知県南西部土佐清水市に属し、太平洋に突き出る足摺半島の先端の岬。足摺宇和海国立公園に指定されている。各所からは日の出、日の入りが一望できる。明るく温暖な南向きの岬である。「自殺の名所」と言う暗いイメージは田宮虎彦の小説「足摺岬」に拠る所が大きいようだ。
足摺岬灯台下の園地には、「田宮虎彦先生文学碑」があって、小説『足摺岬』の一節「砕け散る荒波の飛沫が 崖肌の巨巌いちめんに 雨のように降りそそいでいた」が刻まれている。
小説では、自殺場所を探しに訪れた青年が断崖絶壁の足摺岬に向かう途中、雨の中をびしょ濡れになって宿屋に転がり込み、その宿屋の主人や娘、同宿の温かい人情に触れるうちに立ち直っていく。その間に戦争も終って、再び主人公が足摺岬を訪れる場面で終わる。
田宮 はなぜか父親から激しく憎まれていたようで、大学在学中も母の密かな仕送りで生活していたといい、田宮の小説の基本モティーフは父親との葛藤であるという。田村の書く私小説には、そんな暗い体験を越えた一途な人生の願望を清冽な叙情でつづったものであり、いまなお多くの心を捉えているという。田宮の小説『絵本』『菊坂』『足摺岬』の3短篇から脚本・製作、新藤兼人、監督吉村公三郎が映画にした「足摺岬」(映画足摺岬(1954) )がある。
小説「足摺岬」のモデルになったといわれる旅館が現在以下のホテルとなって現存しているという。
ホテル足摺園
http://www.ashizurien.com/special_torahiko.htm
ブログの字数制限上、参考は次ページにに記した。以下をクリックするとこの下に表示されます。
クリック → 花の日:参考