今日(8月27日)は、京都画壇の美人画の第一人者上村松園の1949(昭和24)年の忌日。
上村 松園(うえむら しょうえん)、本名は、常子。1875(明治8)年4月23日 、京都市下京区四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれた。松園の中で、祖父は、上村貞八といって、天保の乱(大塩平八郎の乱参照)を起こした大阪の町奉行大塩平八郎の血筋をひいたものであると伝えられており、当時はお上のせんぎがきびしかったので、そのことはひたかくしに隠して来た。その祖父が京都高倉三条のちきり屋という名代の呉服屋に永い間支配人をしていたことから、葉茶屋の家号を「ちきり屋」としたとある。(荘園の幼少時代のことは、青空文庫上村 松園「あのころ」参照)余談ではあるが、珍しい名前だと思ったが葉茶屋に「ちきり屋」というのはむかしからよくある名だそうで、NETで検索してみると、今も京都のお茶屋さんに「ちきり屋」の名が見られた。
京の伝統文化に育まれた松園は、誕生前に父親が病で亡くなったため、母・仲子は女手ひとつで松園と姉の、2人の娘を育て上げた。幼い頃より絵画を愛し、母の支援により1888(明治21)年、14歳の時に京都画学校に入学、正式に四条派の鈴木松年(すずきしょうねん)に師事する。明治の女性が画家を志すなど、世間が認めるところではなかった時代、「女が絵の学校へはいるなんて・・・」、と言って叔父がさかんに母を責めたが、母・仲子は常に松園を理解し励まし支え続けたという(松園の 画学校時代のことは青空文庫の上村松園「画学校時代」参照)。
1890(明治23)年、第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品、一等褒状受賞。それ以降天賦の才を花開かせた彼女は、明治・大正・昭和を、女性の目を通して、「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」、「真・善・美の極致に達した本格的な美人画」(松園のことば)を念願として女性を描き続け、次々と優秀な作品を発表した。
松園は自身の著『青眉抄』で、「私は母のおかげで、生活の苦労を感じずに絵を生命とも杖ともして、それと闘えたのであった。私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである」と述べ、「母子」、「青眉」、「夕暮」、「晩秋」等々の母を恋慕する、格調高い作品を残している。(母への思いは青空文庫上村松園「母への追慕」参照)
”青眉”というのはかつては嫁入りして子供ができると必ず眉毛を剃りおとしたもので、その剃りおとした眉を”青眉”といった。松園は”青眉”にたまらない魅力を感じるひとりであるらしく、眉目秀麗とはまた違った風情を添える”青眉”を『聖なる眉』と記し、『剃りたての”青眉”はたとえていえば闇夜の蚊帳(かや)にとまった一瞬の螢光のように、青々とした光沢をもっていて、まったくふるいつきたい程である』とも記しているが、いつの頃からか青眉の風習も消失し、松園は母の人一倍あおあおした瑞々しい眉を想い、絵のなかの女に描いていたのだという。(青空文庫上村松園、「眉の記」参照)。
そんな松園の気品あふれる作品群の中で、特異な絵が2枚ある。「花がたみ」と「焔(ほのお)」である。1915(大正4)年の「花がたみ」の題材である、謡曲「花筐(はながたみ)」は、継体天皇の皇子時代に寵を受けた「照日の前」が形見の花筐(花を入れる目のつんだ竹かご)を手に都に上り、紅葉狩りに行き逢(あ)った帝の前で舞うという内容である。208×127cmの大作である。松園は能面「十寸髪(ますがみ)」(以下参考に記載の能面 増髪参照)を狂女の顔の参考にしたという。
この謡曲は世阿弥の作と云われているが、その中に挿入されている「李夫人の曲舞(くせまい)」と云われる曲舞は、その父観阿弥の作をそのまま用いたものと見られており、物狂いとなった狂女を主人公とした狂女物の代表作と云われるものである。
継体天皇は、狂女を照日の前とは気付かず、車の前で狂女に舞を舞えと命ずるが、その時照日の前が、形見の花筐を手に舞ったのはこの「李夫人の舞」である。この舞は、中国前漢の第七代孝武帝が、世を去った寵姫李夫人を思慕し、甘泉殿の壁にその姿を写し、「反魂香」という香を焚いて仙術をもって一夜その魂を呼び寄せる物語の舞であり、故事"白居易『李夫人詩』"(以下参考に記載の白 居易「李 夫 人」参照)と関係がある。
天皇は、狂女の差し出した花筺を見て、狂女が照日の前と悟り、今は正気に戻った彼女を宮殿に連れ帰り、勾大兄を生む。531(継体天皇25)年に、後継を皇子の勾大兄皇子に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位(安閑天皇)と同日に崩御したという。
しかし、この継体天皇には出自を巡り謎が多い天応である。506(武烈天皇8)年に武烈天皇が後嗣を定めずして崩御したため急遽、越前国の男大迹(おおど)王(後の継体天皇)が大王に推戴され、翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)で即位。武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした。そして、526(継体天皇20)年、大倭(後の大和国)に都をおいた。継体天皇は507(継体天皇元)年に即位してから、大和に都をおくまで約20年かかっており、天皇家周辺で何らかの混乱があったとする見方もある。また『日本書紀』は『百済本記』を引いて、天皇及び太子、皇子が同時に死んだという説を紹介しており、何らかの政変によって殺害されたとの見方もある(「辛亥の変」説。(「辛亥の変」については、以下参考に記載の「今週のひと口知識第62回/日本の古代史(その15) 【辛亥の変】」参照)
ここでは、継体天皇の歴史について書くのが本旨ではないので、興味のある人は、後で、ゆっくりと、以下参考に記載の「継体天皇はどこから来たか」「『福井県史』通史編1 原始・古代」など見られるとよい。
このようなことから、照日の前が狂女となってまで、継体天皇を追い求めていったのは単に恋慕の情だけでなく彼女のお腹の中には既に、継体の子が宿っていたのではないかと推測する説もある。
白 居易「李夫人」の詩の最後には、「生きている時にも惑い、死んでのちもまた惑う。美しい女性は人を惑わして、決して忘れてしまうことはできない。人は木でも石でもなく、皆情を持っている。だから、城をも傾けるような女性の美には、めぐりあわぬがよい。」・・・とあるが ・・・、これも意味深だよね~。
また、1918(大正7)年の作「焔」(ほのお)の題材である、同じく世阿弥の謡曲「葵上」は、『源氏物語』の「葵」巻に登場する六条御息所の生霊であり、題にもなっている葵の上は一切登場せず、生霊に祟られ寝込んでいることを一枚の小袖を舞台に寝かすこと(出し小袖)で表現している。光源氏の正妻である六条御息所は賀茂の祭の際、葵上から受けた侮辱に耐え切れず、生霊(前ジテ)となって葵上を苦しめているのである。薬石効なく、ついに修験者が呼ばれ祈祷が始まると、生霊は怒り、鬼の姿(後ジテ)で現われるが、最後は般若の姿のまま、法力によって浄化される場面で終わる。
この絵について松園は、作画について”「焔」は私の数多くある絵のうち、たった一枚の凄艶な絵であります。中年女の嫉妬の炎・・一念がもえ上って炎のようにやけつく形相を描いたものであります。”といっている。後れ毛を噛む女の着物には藤の花と蜘蛛の巣が描かれている。189×90cmの大作で、大変な迫力をもって見る者に迫る絵である。この絵の題について、”謡曲「葵の上」には六条御息女の生き霊が出て来ますが、あれからヒントを得て描いたもので、最初は「生き霊」と題名をつけましたが、少し露わすぎるので、何かいい題はないかと思案の末、謡曲の師の金剛巌先生に相談したところ、「『生き霊』のことを『いきすだま』とも言うが、しかし『いきすだま』とつけても生き霊と同じい響きを持つから――いっそう焔とつけては”・・・と言われて、この名をつけたのだとか。(青空文庫上村松園「作画について」参照)
上村松園は、1948(昭和23)年に女性初の文化勲章を受章。翌・1949(昭和24)年の今日(8月27日)逝去した。享年74歳であった。 従四位に序せられている。
同じく日本画家の上村松篁(しょうこう)は息子、上村淳之(あつし)は孫にあたる。
(画像は、「焔」。「上村松園」画集全2巻より)
上村松園 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%91%E6%9D%BE%E5%9C%92
大塩平八郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%A9%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E
上村松園 作品 <株式会社シバヤマ>
http://www.shibayama-co-ltd.co.jp/uemura.htm
継体大王と越の国・福井県
http://info.pref.fukui.jp/keitaidaio/index.html
能 観世流 - 響の会 「花筐」
http://www.hibikinokai.com/guide/hanagatami.html
能「花筐」
http://www.syuneikai.net/hanagatami.htm
作家別作品リスト:No.355作家名: 上村 松園
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person355.html#sakuhin_list_1
図書カード:「青眉抄」について著者名: 宮本 百合子
http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card4229.html
「上村松園」画集全2巻【ユーキャン】
http://www.u-canshop.jp/syouen/index.html
能面 増髪(ますかみ)
http://www.nohmask21.com/masukami.html
反魂香 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E9%AD%82%E9%A6%99
白 居易「李 夫 人」
http://www.marute.co.jp/~hiroaki/sisyuu/si_23.htm
樟葉宮跡(枚方市)
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage489.htm
『福井県史』通史編原始・古代
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2%EF%BD%A53-01-02-03-04.htm
継体天皇はどこから来たか
http://inoues.net/mystery/wherefmkeitai.html
倭国と日本
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/WAandNIPPON6.htm
今週のひと口知識第62回/日本の古代史(その15) 【辛亥の変】(大阪CADセンター )
http://osaka-cad.co.jp/hitokuchi/hitokuchi_kodaishi/hitokuchi_060106.html
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上村 松園(うえむら しょうえん)、本名は、常子。1875(明治8)年4月23日 、京都市下京区四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれた。松園の中で、祖父は、上村貞八といって、天保の乱(大塩平八郎の乱参照)を起こした大阪の町奉行大塩平八郎の血筋をひいたものであると伝えられており、当時はお上のせんぎがきびしかったので、そのことはひたかくしに隠して来た。その祖父が京都高倉三条のちきり屋という名代の呉服屋に永い間支配人をしていたことから、葉茶屋の家号を「ちきり屋」としたとある。(荘園の幼少時代のことは、青空文庫上村 松園「あのころ」参照)余談ではあるが、珍しい名前だと思ったが葉茶屋に「ちきり屋」というのはむかしからよくある名だそうで、NETで検索してみると、今も京都のお茶屋さんに「ちきり屋」の名が見られた。
京の伝統文化に育まれた松園は、誕生前に父親が病で亡くなったため、母・仲子は女手ひとつで松園と姉の、2人の娘を育て上げた。幼い頃より絵画を愛し、母の支援により1888(明治21)年、14歳の時に京都画学校に入学、正式に四条派の鈴木松年(すずきしょうねん)に師事する。明治の女性が画家を志すなど、世間が認めるところではなかった時代、「女が絵の学校へはいるなんて・・・」、と言って叔父がさかんに母を責めたが、母・仲子は常に松園を理解し励まし支え続けたという(松園の 画学校時代のことは青空文庫の上村松園「画学校時代」参照)。
1890(明治23)年、第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品、一等褒状受賞。それ以降天賦の才を花開かせた彼女は、明治・大正・昭和を、女性の目を通して、「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」、「真・善・美の極致に達した本格的な美人画」(松園のことば)を念願として女性を描き続け、次々と優秀な作品を発表した。
松園は自身の著『青眉抄』で、「私は母のおかげで、生活の苦労を感じずに絵を生命とも杖ともして、それと闘えたのであった。私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである」と述べ、「母子」、「青眉」、「夕暮」、「晩秋」等々の母を恋慕する、格調高い作品を残している。(母への思いは青空文庫上村松園「母への追慕」参照)
”青眉”というのはかつては嫁入りして子供ができると必ず眉毛を剃りおとしたもので、その剃りおとした眉を”青眉”といった。松園は”青眉”にたまらない魅力を感じるひとりであるらしく、眉目秀麗とはまた違った風情を添える”青眉”を『聖なる眉』と記し、『剃りたての”青眉”はたとえていえば闇夜の蚊帳(かや)にとまった一瞬の螢光のように、青々とした光沢をもっていて、まったくふるいつきたい程である』とも記しているが、いつの頃からか青眉の風習も消失し、松園は母の人一倍あおあおした瑞々しい眉を想い、絵のなかの女に描いていたのだという。(青空文庫上村松園、「眉の記」参照)。
そんな松園の気品あふれる作品群の中で、特異な絵が2枚ある。「花がたみ」と「焔(ほのお)」である。1915(大正4)年の「花がたみ」の題材である、謡曲「花筐(はながたみ)」は、継体天皇の皇子時代に寵を受けた「照日の前」が形見の花筐(花を入れる目のつんだ竹かご)を手に都に上り、紅葉狩りに行き逢(あ)った帝の前で舞うという内容である。208×127cmの大作である。松園は能面「十寸髪(ますがみ)」(以下参考に記載の能面 増髪参照)を狂女の顔の参考にしたという。
この謡曲は世阿弥の作と云われているが、その中に挿入されている「李夫人の曲舞(くせまい)」と云われる曲舞は、その父観阿弥の作をそのまま用いたものと見られており、物狂いとなった狂女を主人公とした狂女物の代表作と云われるものである。
継体天皇は、狂女を照日の前とは気付かず、車の前で狂女に舞を舞えと命ずるが、その時照日の前が、形見の花筐を手に舞ったのはこの「李夫人の舞」である。この舞は、中国前漢の第七代孝武帝が、世を去った寵姫李夫人を思慕し、甘泉殿の壁にその姿を写し、「反魂香」という香を焚いて仙術をもって一夜その魂を呼び寄せる物語の舞であり、故事"白居易『李夫人詩』"(以下参考に記載の白 居易「李 夫 人」参照)と関係がある。
天皇は、狂女の差し出した花筺を見て、狂女が照日の前と悟り、今は正気に戻った彼女を宮殿に連れ帰り、勾大兄を生む。531(継体天皇25)年に、後継を皇子の勾大兄皇子に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位(安閑天皇)と同日に崩御したという。
しかし、この継体天皇には出自を巡り謎が多い天応である。506(武烈天皇8)年に武烈天皇が後嗣を定めずして崩御したため急遽、越前国の男大迹(おおど)王(後の継体天皇)が大王に推戴され、翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)で即位。武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした。そして、526(継体天皇20)年、大倭(後の大和国)に都をおいた。継体天皇は507(継体天皇元)年に即位してから、大和に都をおくまで約20年かかっており、天皇家周辺で何らかの混乱があったとする見方もある。また『日本書紀』は『百済本記』を引いて、天皇及び太子、皇子が同時に死んだという説を紹介しており、何らかの政変によって殺害されたとの見方もある(「辛亥の変」説。(「辛亥の変」については、以下参考に記載の「今週のひと口知識第62回/日本の古代史(その15) 【辛亥の変】」参照)
ここでは、継体天皇の歴史について書くのが本旨ではないので、興味のある人は、後で、ゆっくりと、以下参考に記載の「継体天皇はどこから来たか」「『福井県史』通史編1 原始・古代」など見られるとよい。
このようなことから、照日の前が狂女となってまで、継体天皇を追い求めていったのは単に恋慕の情だけでなく彼女のお腹の中には既に、継体の子が宿っていたのではないかと推測する説もある。
白 居易「李夫人」の詩の最後には、「生きている時にも惑い、死んでのちもまた惑う。美しい女性は人を惑わして、決して忘れてしまうことはできない。人は木でも石でもなく、皆情を持っている。だから、城をも傾けるような女性の美には、めぐりあわぬがよい。」・・・とあるが ・・・、これも意味深だよね~。
また、1918(大正7)年の作「焔」(ほのお)の題材である、同じく世阿弥の謡曲「葵上」は、『源氏物語』の「葵」巻に登場する六条御息所の生霊であり、題にもなっている葵の上は一切登場せず、生霊に祟られ寝込んでいることを一枚の小袖を舞台に寝かすこと(出し小袖)で表現している。光源氏の正妻である六条御息所は賀茂の祭の際、葵上から受けた侮辱に耐え切れず、生霊(前ジテ)となって葵上を苦しめているのである。薬石効なく、ついに修験者が呼ばれ祈祷が始まると、生霊は怒り、鬼の姿(後ジテ)で現われるが、最後は般若の姿のまま、法力によって浄化される場面で終わる。
この絵について松園は、作画について”「焔」は私の数多くある絵のうち、たった一枚の凄艶な絵であります。中年女の嫉妬の炎・・一念がもえ上って炎のようにやけつく形相を描いたものであります。”といっている。後れ毛を噛む女の着物には藤の花と蜘蛛の巣が描かれている。189×90cmの大作で、大変な迫力をもって見る者に迫る絵である。この絵の題について、”謡曲「葵の上」には六条御息女の生き霊が出て来ますが、あれからヒントを得て描いたもので、最初は「生き霊」と題名をつけましたが、少し露わすぎるので、何かいい題はないかと思案の末、謡曲の師の金剛巌先生に相談したところ、「『生き霊』のことを『いきすだま』とも言うが、しかし『いきすだま』とつけても生き霊と同じい響きを持つから――いっそう焔とつけては”・・・と言われて、この名をつけたのだとか。(青空文庫上村松園「作画について」参照)
上村松園は、1948(昭和23)年に女性初の文化勲章を受章。翌・1949(昭和24)年の今日(8月27日)逝去した。享年74歳であった。 従四位に序せられている。
同じく日本画家の上村松篁(しょうこう)は息子、上村淳之(あつし)は孫にあたる。
(画像は、「焔」。「上村松園」画集全2巻より)
上村松園 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%91%E6%9D%BE%E5%9C%92
大塩平八郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%A9%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E
上村松園 作品 <株式会社シバヤマ>
http://www.shibayama-co-ltd.co.jp/uemura.htm
継体大王と越の国・福井県
http://info.pref.fukui.jp/keitaidaio/index.html
能 観世流 - 響の会 「花筐」
http://www.hibikinokai.com/guide/hanagatami.html
能「花筐」
http://www.syuneikai.net/hanagatami.htm
作家別作品リスト:No.355作家名: 上村 松園
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person355.html#sakuhin_list_1
図書カード:「青眉抄」について著者名: 宮本 百合子
http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card4229.html
「上村松園」画集全2巻【ユーキャン】
http://www.u-canshop.jp/syouen/index.html
能面 増髪(ますかみ)
http://www.nohmask21.com/masukami.html
反魂香 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E9%AD%82%E9%A6%99
白 居易「李 夫 人」
http://www.marute.co.jp/~hiroaki/sisyuu/si_23.htm
樟葉宮跡(枚方市)
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage489.htm
『福井県史』通史編原始・古代
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2%EF%BD%A53-01-02-03-04.htm
継体天皇はどこから来たか
http://inoues.net/mystery/wherefmkeitai.html
倭国と日本
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/WAandNIPPON6.htm
今週のひと口知識第62回/日本の古代史(その15) 【辛亥の変】(大阪CADセンター )
http://osaka-cad.co.jp/hitokuchi/hitokuchi_kodaishi/hitokuchi_060106.html
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