インゲンの花
武漢ウイルスが国内でも広がり始めた頃、私が道路を歩いていると、知り合いのひとが寄ってきて、「なんですか、マスクをしないのですか?」と咎めるように言われたことがある。そして「早くしないとマスクがなくなってしまいますよ」と。
ウイルスにマスクは効果がないことは、インフルエンザの予防のときに、公衆衛生の専門家からすでに何度もメディアで伝えられていた。今回は手洗いの励行とマスクの必要性が言われたものだから、みんながマスクを求めて右往左往する始末。ウイルスはマスクでは予防できないことはほぼ常識で、以前は日本人だけが変な風習を持っていると笑わたものだ。
ところがここにきて、そのマスクが消え、さらに続いてトイレットペーパーが消えた。
デマが流れているというのだ。私たち消費者は、デマだとわかっていても、必需品だから買わないわけにはいかない。売っている店を見つけては買うのだから、さらに購買に拍車がかかった。
デマが駆け巡るのは、それが〈本当らしく〉思えるからだ。トイレットペーパーの場合、主な生産地がマスクと同じ中国だという伝言に多くの人が、さもあらむと思ったのだ。だが生産地は国内だと言って証拠をみせても、いったん信じられたデマはなかなか終息しない。こうした経験はかつてもあった。もう40年も前のことだが、トイレットペーパーが枯渇したことがある。この時は、高度成長期で、公害問題とオイルショック、さらには製紙産業の再編が大きく影響していた。
私たち生活者としては、こういう場面でどうするのが、いいのだろうか。
デマだ、誤報だと分かっていても、必需品が手に入らないとなれば、争ってでも買い求めずにはいられない。必需品なのだから、がまんすればすむ、というのではない。
唐突だが、私はこうした必需品は日頃から配給品にすればいいのではないか、と思う。戦争中および戦後の食糧管理制度のもとでは、都会では食料の配給制というのがあった。配給券が配られ、1人につき購買できるものはいくらか、決まっていた。
ものすごいアナクロニズムに思うかもしれないが、これは危機管理の一つの方法だと思う。これからさらに進む超高齢化社会でも、この配給制が適していると思う。品目を限ってでだが、名前を登録して、必需品はいつでも手に入れることができるようにする。
深刻な事態が起った時、デマは防ぐことができない。最近では福島原発事故でデマが広範に伝播した。また地震学会などが、直下型地震について触れ回っている。こうした不測の事態に対して、配給制は将来社会の一つのビジョンだと思うがいかがだろうか。【彬】