ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

長所は短所と番いである

2014年10月28日 | 日記

 私には長く付き合いのあるランニングの仲間がいる。それら友人らの走る姿は否が応でも憶えていて、遠くでも走る恰好から誰彼を判別することができる。同じ走るのでも、それぞれのフォームには千差があるからである。この違いは普通「個性」と言っている。

 しかしながらよく考えると、この個性と言う言葉には何か重要なものが隠れ落ちているように思う。フォームの違いは、それぞれの筋力の使い方の巧拙に由来しているし、強弱にも関連している。見方によれば、弱点の表れともいえるのだ。弱点なら補正の対象となる。これを「個性」とくくってしまっては先に進みようがない。

 おそらく個々の特長を個性(パーソナリティ=個人性)と言うようになったのは、戦後教育における過度なプラグマティズムの影響なのだろう。長所であれ、弱点であれ、自覚し発見できれば、矯正するに如くはない。長所はその裏側に欠点が潜んでいるものだ。

 私たちは標準というものに偏見があるように思う。標準というと平均とか形にはめるとか思いがちだが、バランスがとれた理想という意味も含んでいる。例えば計理士の数字の書き方、あるいは筆耕者の文字の書き方を見ればわかるように、書き手の個性はまったく消えて、標準化される。これは本来、職業人の前提で、オリンピック参加の標準記録というようなものに相当しよう。いつでも、一定のレベルの記録は残せるのだということ。

 昔、小林秀雄は職人と芸術家の違いについて、職人というのは、同じことを同じように繰り返すことができる人だ、と述べていた。芸術家である前に、職人であるべきなのだ。フランスではアルティストとアルティザンを分けている。個性を言う前に標準化への訓練がどんなに大切かということである。

 長所短所を個性として放置しておくのは、長所短所の原因をはっきりと認識できないところから発生しているように思う。多くの場合、長所は欠点の裏返しであり、それは蝶番のように繋がっているのだと思う。しかし、補正の仕方は難しい。

 で、長所を伸ばす指導法とかなんとか、一様に眉唾ものだと推して知れる。スポーツと芸術の秋に思うことである。 

   *絵はイヌマキの実。赤い部分が果肉で、子供の頃よく食べた。標準からほど遠い絵ですが、蒙御免。  【彬】

 

 

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地方創生(つづき)

2014年10月26日 | 日記

 前回の、秋の夜の……地方創生、の続きです。
 先日、10月21日、茨城県常陸大宮市の公会堂(ロゼホール)にて、茨城県北西部の、常陸大宮市、常陸太田市、大子町の市町長そして、大学の先生他、による公開討論会が行われた。テーマは、「茨城県北西部地域の将来を考えるまちづくり~どうなる? 未来のこの地域~」
 討論は、中学生3000人のアンケート結果を基にすすめられた。
  ・自分たちの地域の魅力はは何か? 10年後どうなって欲しいか、そのためにどうしたらよいか。
  ・子供たちは、魅力を感じており、色々な意見を持っている。
 討論会の結論は、
  ①市、町は独自のテーマを持ち、地域の発展に務めている。
  ②互いにパイを取り合う関係ではなく協力していかなければならない。
  ③今回の討論会はそのきっかけになるだろう。

 話の流れは、実に謙虚で堅実な内容であった。ビジョン討論会のような“夢”を語る部分は少なかった。これは、市長、町長が公の前で話をすることは、即、公約になってしまうという制約があるからであろう。
 ある調査では、茨城県の魅力度は全国ワーストのno.1であるが、これは他県から見た観光の観点からであり、県内から見ると少し違うのではないか。自然も、食べ物も、歴史も、人情も魅力的なものがたくさんある。おそらく、茨城の県民性、たとえば謙虚、口数が少ない、PRが上手でないというところにも要因があると思う。
 私は、仕事の都合で、東京から常陸大宮市に移り13年になる。いずれ東京に戻るが、茨城は第二の故郷になっている。気が付くと、茨城が独自性を保ち発展することを願う郷土愛を持ち合わせるようになっている。     

                                 10月23日    岩下賢治

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秋の夜の夢……地方創生

2014年10月11日 | 日記

 これからの日本の大きな課題。地方創生。少子高齢化。これらの問題は、一市民として私の頭の中にいつも去来する。
 そんなある夜夢を見た。
 ある劇団の芝居観劇に招かれ母と二人で出席した。開演の前の顔見せで、出演者一同が居並ぶ中、女座長が挨拶に立つ。「それでは一言」と肩口に手をかけ衣装の隙間から肩の彫り物を皆に見せ語る。「本日これから、この地域は周囲の地域と協力して独立国となることを宣言する。ここに列席する皆様はその同盟者になっていただきたい。私がその指導者を務める。これからはこの地域は、今までのような、さみしい一地方ではない。これから皆さんと繁栄に向かい進んで行こう……」

 芝居の公演を模した独立派の会合だった。母は抵抗したが、逆らうことができず独立国の一員となった。その後、母は得意の編み物で仕事を得た。

 夢の話はここまで。ここからは現実の話。
 地方創生は、まず、地方がどのようなビジョンを持ち計画を実行していくかにかかる。起業家の出現を求めたり、新しい農業、産業方式を作るのはもちろん必要だ。別の次元では、地方は周辺の地方と統合一体化し、あたかも独立国のような形を目指すという考えがある。その小国内であらゆる産業を完結させる。農水産業、加工製造業、流通、金融、サービス。ここに若者が集まり、人口も増える。また、高齢者の働く場も作る。現代の職業意識は、文化的な、エンターメント的な分野もあるだろう。芸術家、評論家、タレント、などが、地方の中で職業として成り立たなければならない。
 地方創生。少子高齢化。女性活用。これらのなかで、地方創生が実現できれば、その他の課題も実現に向かって動き出せるのではないか。夢のようであるが、どうだろうか。
 すでに各地方でそのような模索が始まっているかもしれないが。    10月6日   岩下賢治

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裁判員制度は国民主権の裏返しだ

2014年10月03日 | 日記

 強盗殺人事件の裁判員裁判の裁判員になったことで急性ストレス障害(ASD)と診断された元福祉施設職員、青木日富美(ひふみ)さん(64)=福島県郡山市=が、裁判員制度は苦役などを禁じる憲法に違反するとして国家賠償法に基づき200万円の賠償を国に求めた訴訟の判決が30日、福島地裁であった。2009年5月に始まった裁判員制度の是非を裁判員経験者が問う初の訴訟だったが、潮見直之裁判長は「裁判員制度は憲法に違反しない」と述べ、請求を棄却した。(毎日新聞/9月30日夕)

 青木さんは裁判員を引受けたが、審理の中で被害者の遺体のカラー写真や被害者の断末魔の叫びを録音したテープなどが示され、死刑判決直後にASDと診断されたと訴えたものである。私は判決に異議はない。途中で辞退する道もあったからである。

 しかし、私はこの裁判員制度に当初から反対である。

 裁判というのは、法治国家の根幹をなす制度であって、法文によって刑罰を決めるものである。法文は国会が制定する。私たち国民は、法の制定を国会議員に委嘱することによって、法治主義を受け入れているわけである。

 法文は憲法の範囲以内で制定され、これを審査する権限は最高裁にある。最高裁の元には地方、高等の下級裁判所があって、そういう制度の中で裁判官が裁定する。だから裁定は法文を熟知し、過去の判例をもとに裁定する極めて限られた専門家がするのだ。原告/被告の情状によって決定されるようなものではないのである。

 一般市民を判事として加えるという裁判員制度は、以上のような法治主義の原則を明らかに損ねるている。この制度の施行にあたっては、裁判の停滞を防ぐこととか、市民感覚を判決に反映させるとかといった説明がなされた。これは各種裁判の問題を国民におもねることによって、凌ごうとする全くの弥縫策にすぎない。本来、裁判官の質量を向上することによって対処すべきことなのである。

 アメリカの陪審員制度は、開拓時代の、まだ法治の制度が確立できていない時の名残に過ぎない。そんな制度を直接民主主義などと礼賛し、人を裁くという難問(人性のアポリア)を生活者に押しつけるべきではない。

 私自身が裁判員に任命されたら、はっきり辞退する。病気とかやむをえぬ事情とかによらずに、そうする。その結果、罰則を受けようともである。もちろん抵抗はするが。【彬】

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