ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

高齢者こそスポーツジムに

2022年02月23日 | 日記

               花期の長いスイセン

 私は今、スポーツジムに週1のペースで通っている。何をしているのかと言えば、人並みにバーベルを担いだり、鉄アレイを振ったり、腹筋を鍛えたりといった運動をしている。もちろん若い人のようにはできない。ごく軽い負荷の器具を使用し、安全に、しかし回数を稼ぐようにしている。
 年取ってジムに通うようになったのは、何故なのか。筋肉をモリモリにして、若さを取り戻すためなのか、、、non。そうではなく、一種の自己発見である。
 私は若い頃の運動がこじれて、肉離れをしたりして、右肩が前に突き出ている。そして極端な右利きである。そのため肘が曲がって、左に比べると右手が短い。こうした体の偏りは若いうちは、なんとかバランスを取っていたが、年取ってくると弊害が出てきて、右手の後ろ肩が重く感じるようになった。そこで針治療を施してもらったが、あまり効果がなく、そこの鍼師に一種のリハビリを兼ねたジムを勧められたのたった。
 ジムにしばらく通ううち、スタッフに事情を話すと、様々な器具の利用方法を教えてくれた。その中で、一番効果的だったのは、バーベルを後ろ肩で担ぐ運動。当初は負荷のないバーでも、耳あたりまでしか降ろせなかった。そして、ただ顔を歪めるしかなかった。ところが最近では、左右5キロほどの負荷を課したバーベルでも、なんとか肩まで降ろせるようになった。顔も歪まなくなった。肩甲骨周りの可動域が広がったのだ。そして左右の腕が前後に柔らかに振れるようになり、歩く時は左右のバランスが良くなり、足が無理なく一本線に乗るようになった。
 肩ばかりではない。いくつかの器具を使うことで、いろいろな体の調子を知るようになった。特に腹筋。腹筋は鍛えるというより、内臓の刺激に効果的であることが分かった。などなど。
 ジムに通う人は若い人ばかりである。それも30~40歳くらいか。女性だと20代も多くいるようだ。でも私は高齢者にこそジムを勧める。健康のために、ウォーキングやスイミングをする人も多いが、私はジムがいいと思う。というのも、ジムで器具を使うことで自分の体の欠点を知ることができるからだ。貧弱な体なので、ジムでは引目を感じるという人もいるだろう。でもそういう人こそ、ジムで体の調子を整えるのがいい。私たちの体は誰でもが相当に歪んでいるのだ。それを自身で知るためにも、2度、3度と、各種の器具を使ってみると良い。姿勢を矯正するのは年取っても遅くない。【彬】

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2月は入試の季節

2022年02月19日 | 日記

 今年の冬は例年になく寒かったが、2月に入ると暖かい日もあり春が近づいてくるのを感じる。自宅すぐ近くの、東京農工大学キャンパスを散策すると、学生たちの表情も春めいて明るい。構内への入り口には入学試験予定掲示がされている。・・・・そうか、2月はこの季節なんだな。

 大学入学共通テストは1月16日、17日に行われている。趣味で高校の各科目の参考書を読んでいるので、問題と解答の載っている新聞を購入していた。目を通していただけだが、学生たちの顔を見ると、共通テストに挑もうという気になった。

 今年の数学I・Aはかなり難しかったと、よくニュース報道されていた。平均点が昨年より大幅に下がった、と。それでは、これをやってみよう。

 僕のような素人がいうのはいかがなものだが、内容設定が実に多様多彩で難しい。このような多量の問題をこの時間内で回答するのは極めて大変だろう。テレビニュースで例としてよく出されたものに、キャンプ場から見上げる山頂への角度を求める問題。地図アプリから三角関数と三角比表をつかい読み取るもの。共通テストの回答には、数学力と柔軟性ある思考力が必要なのはわかる。僕自身は、Youtubeの教育系動画の解説でようやく全体の姿が見えてきた。

 様々な科目の高校生向けの参考書を読むのは視野を広くしようというのが理由だが、共通テストをやってみるのは今の若い人の目線に立てる、のような幻想もある。その幻想も楽しいものだ。

  2022年2月18日  岩下賢治

 

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そろそろ老後問題

2022年02月18日 | 日記

                  下向きのツバキ

 最近、身近なところで、老人介護の問題が持ち上がっている。施設に入所するか、自宅で訪問介護を受けるか。我が家でも意見が分かれる。私は施設派、家内は自宅派である。家内だけでなく女性は一般的に家庭内で老後を過ごすのを希望するようだ。昔、先輩の奥さんが自宅内に他人を入れることを極端に嫌っていた人がいて、室内に内装の職人を入れることさえ、よしとしなかった人がいた。
 内と外、それぞれ長短があろう。施設といっても千差万別で、ホテルのようなハイレベルのものから、ただ死を待つようなものもあるようだし、また自宅でもいろいろだろう。家族が手厚く看取ってくれるものと、ただ放置されておかれるものと。老後の沙汰も金次第か。
 私は施設で過ごしたい。それもなるべく早く、比較的元気な状態で入所したい。入所後は絵を描いたり、囲碁や将棋を楽しみたい。相手はいなくても今はネット上で好敵手を探すことができる。そして施設の掃除などをお手伝いし、施設の維持に役立ちたい。
 日本の現在の介護制度は、自宅介護を充実させる方向に設計されている。各地に介護指導員がいて、介護職員が訪問介護をする。費用は保険料で支払われる。なぜ、このような仕組みになったのかといえば、かつての長野県などが代表的だった、老人を自宅の狭い閉所に閉じ込める風習を改めるという生活改善運動が根拠となっている。そのうえ県立など、公共病院から病床を減らすことを目標にした。そして保険料を支払うことで遠慮せず介護要員を呼び、生活改善に方向づけるということであった。こうした介護制度によって地方の老人たちの生活は一変したと言える。この方向に制度設計したのは、今井澄さんや丹羽裕哉さんたちである。今井澄といえば、諏訪中央病院の院長であり、後に参院議員になった活動家で、年配の人は誰でも知っている、東大全共闘を率いて時計台で逮捕された闘士である。丹羽さんは代々にわたり厚生労働分野で活躍した政治家。
 私が自宅介護を嫌うのは、老人を孤独にするからだ。日本だけでなく、世界どこでもそのはずだが、家族というのは育児をする場所で、老人を看取る役割を持った場所ではないからだ。これは家族というものの根本的な問題点である。幼児は家庭以外では育てようがないが、老人は共同生活のできる社会性を養っている。老人は幼児かえりをするというが、記憶力や判断力、思考力が衰えるだけで、幼児になるわけではない。マルクスは人間は類として死ぬと言っているが、神になったり動物になって死ぬわけではないし、金持ちとか貧乏とか人の属性で決まるわけではない。ただ人類として死ぬのである。人類とは何かと云えば、高度な共同社会を営む動物ということ。だから自宅ではなく、共同生活の中で死を迎えるのが理想的だ、と私は考える。
 今井さんたちの作った介護制度を基本とする老後の問題は、まだ日本が古くの家族制度を残していた時の制度だと思う。これからは老人の介護施設のあり方が本格的に検討されざるを得ない。現に東京近郊では数々の介護施設が建設され、人気を博しいている。問題はこれからである。

 *育児の共同性というのは昔から課題であるが、第二次大戦の後、イスラエルのキブツで実験的な試みがあったが、失敗に終わっている。報告書を見たわけではないが・・・。
 老後については難しい課題であり、上記については論理的ではないが、考えるヒントが各地でいろいろ出てきているように思う。【彬】

 

 

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オリンピック競技は曲芸か

2022年02月11日 | 日記

                  白いワビスケ

 スーパー大回転のスピードは半端ではない。時速100キロという。それをコーナーや起伏の中で、跳び、滑る。車だと高速道路でも明らかにスピード違反になる。ジャンプ競技は踏み切ってから100メートルを超える。ゴルフでさえドライバーで100メートルを超えるのは簡単ではない。フィギュアスケートは踊りながら4回転する。バレエダンサーも4回転は無理だ。氷上には強い反発力があるとは言え、尋常ではない回転である。アイスホッケーはパックの動きが速くてテレビではよくわからない。おそらく打った瞬間は時速100キロを優に超えているだろう。それを狭いリンクで撃ち合う。驚くのはスノーボードだ。ハーフパイプでは空中高く飛び出し、回転を繰り返す。
 私たちの感覚だと、スポーツというより曲芸に近い。
 人間の能力は研ぎ澄まされると、こんなに高度な能力を発揮するものなのか。
 でも思う。競技のルールを変えることはできないか。例えばジャンプは滑走斜面の角度を緩くし飛距離を5~60メールくらいに抑える。ハーフパイプは深さを浅くする。ホッケーはリンクを大きくし、パックを軽く大きくするとか。そうすることで競技がもっと身近なものになるのではないか、と思う。
 昔、プロ野球の三原脩という監督は、ファールラインをもっと広げ、フィールドを広くすればもっと試合が動きだし、躍動するのではないか、と提案したことがある。
 ルールを変えること容易いことだと思う。現にジャンプはスキー板に制約を与えたし、バレーボールや卓球など、カウント方法はどんどん変わってきている。
 スポーツの振興のためにはルールを神聖化する必要はないように思う。【彬】

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オリンピックに思う

2022年02月08日 | 日記

                   福寿草

 オリンピック憲章、その主たる内容は、スポーツの発展を通じて健全な精神・文化を養いましょう、そして政治的な動きは禁止し平和の祭典にするという宣言である。その他、細かな決まりがあるが、これを全体としてオリンピズムという、とのこと。
 なるほどオリンピックはこれまで様々な思想的、政治的動きに付き纏われてきた。かつて、ミュンヘンの時は、パレスチィナ・ゲリラに襲われ、死者まで出しているし、モスクワはアフガンに侵攻したとして西側からボイコットされた。そんなトラブルを乗り越える憲章なのだらか当然といえば当然である。
 しかし私にはそんな政治的なことより、サマランチが主導したオリンピックの商業化の方が大事な事だと思う。商業化はロスアンゼルスから始まり、それまで王道だったアマチュアリズムの規制をゆるめ、プロ選手の参加を認めたのであった。その結果、ソ連などで支配的だった国家アマチュアリズム、つまり国が有望選手を囲い込み、資金を出し、薬物を使用してまでの指導するシステムが解体された。スポーツが国家発揚の場だったものから、民間に委ねたと言えば良いのかもしれない。
 とはいうのも、スポーツというのはお金のかかる活動だ。生活に余裕がなければ全うできるものではない。スポーツ選手にはお金を稼がせてやりたい。ところが、商業主義のオリンピックとは言えども、前記の憲章に従って、選手のウエアなどにスポンサーなどを表記することは許されていない。莫大な放送権料や大会スポンサー料はIOCの収入となる。
 オリンピックはアスリートにとって、最高の舞台だと言われている。だから出場選手には絶好の稼がぎ時なのである。一部の国ではメダリストになると賞金を出すようになっているが、小国の資金のない国の選手にも、成績によって同じように稼がせてやりたい。それが現代のスポーツをもっともっと発展させる土台になると思う。
 スポーツは芸能や音楽と同じように、文化芸術活動の一部である。だからスポーツをビジネスとして扱う人たちが出てきている。現に一部の大学では「スポーツビジネス」という講座が設けられているほどである。
 私は学生時代、部活でスポーツに親しんできた。貧しい生活の中での活動で、備品も十分に整えることのできなかった中だったので、全く情けない活動だった。だから余計に思う。スポーツマンに資金の余裕を与えてあげたい。論理が若干飛躍するが、そのためには現在のスポーツ振興を学校教育から切り離す必要がある。スポーツが学校の広告塔でしかない現状では、アスリートに未来はないように思う。【彬】

 

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