ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

フランス大統領選挙その後

2017年05月25日 | 日記

 先の、フランス大統領にマクロン氏が選ばれたことで、米タイム誌がどのような記事を載せるか期待していたが、5月22日号で、カバー記事として掲載した。見出し文章は、「フランスの戦いは終わった。しかし、グローバリズムとナショナリズムの争いが正に始まった。」記事は常識的なものだと思うが、僕自身の考えも加えて書いてみたい。

 タイム誌の要旨

①    先進国の多くの人は、グローバリズムの進展は、国家とか国境を気にも留めないエリート層に恩恵をもたらし、一般国民は置き去りにしてきた、と恐れる人多い。中間層の没落である。

②    グローバル貿易は製造業や技術に変化を与え職場を変え仕事がなくなっていった。

③    その影響は、中、後進国にも及んでいる。ロシア、トルコ、インドネシア、中国、メキシコ・・・でも貧富の格差が広がる。アラブの春は、貧富の差への不満が、独裁政権打倒への動きにもつながった。

④    ナショナリストは、貪欲なエリート層に対抗する一般国民、という図式で信任を得ようとしている。

⑤    各国政府は、ナショナリストに対抗し、様々な、職業保障制度、賃金保障制度を導入しようとしているがかなり難しい。しかし、やるべき課題である。

 僕自身の考え

①    この記事は興味深いが、タイム誌の編集方針に沿った内容であること。

②    世界の政治経済の流れは、おおきくはグローバル化の方向なのかもしれない。世界大戦を経験してきた多くの人はそう考えるだろう。

③    一方、生活者として、個人としては、そう単純ではない。ナショナリズムとグローバリズムは、その状況により、競争しまた共存していくものだと思う。

④    自由貿易、経済のグローバル化は、国単位では、資源の有効利用という点で、地球規模では正しい。だが、国内では、貧富の差、産業や文化、習慣の衰退をもたらすこともある。

⑤    僕自身の考え・・・・いまのところ、はっきりした方向性が見いだせない。

  絵はマクロン氏フランス大統領。

         2017年5月24日  岩下賢治

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自衛隊は憲法で縛れ

2017年05月19日 | 日記

   道端などにユウゲショウがピンクの花を咲かせています。


 安倍首相の発案で再び改憲問題が表面化している。問題提起者が時の首相であること、加えて北朝鮮の動きが絡んで、今回は本格的な政治課題になりそうな雰囲気である。
 我が国の憲法問題は、戦後ずっと妙な位置に置かれていて、一部の人には改憲を議論の爼上に登せること自体さえ譴責の対象とするような思想風土がある。いわゆる戦後民主主義至上主義の風潮であって、その中心は第九条を中心とする、戦争放棄と軍備の不保持の原則である。
 この原理は、争いを嫌う主婦や戦争の残虐性などに絡められ、戦後ずっと支持されてきた考え方である。ところがそうは言え、自衛のための軍隊として、以来着々と整備が進み、今日ではアジアでは屈指の軍隊として存在するようになった。まさに違憲状態である。これをどう扱うのか?

 本来、軍隊は国家共同体と不可分に結びついている。軍備を本気で廃棄するには、国家を廃絶することなしにはありえない。しかし、憲法改悪反対、九条至上主義者たちは、こうした国家と軍隊の本質に関する見解を深める思想的な営為をまったく怠ってきたばかりか、世界連邦のような国家を止揚するような構想についても、これっぽっちも検討してこなかった。立憲主義があきれるのだ。
 私は、現状では、この軍隊を暴走させないよう憲法で明確に縛ることが喫緊の課題だと思う。軍隊は意図に反し、状況によっては暴走することがあり得るからだ。

 ところで、現在の自衛隊を法的に規定しているのは主として次の二法である。
 自衛隊法
 有事法制関連−武力攻撃事態対処関連三法
である。その自衛隊法に次のような記述がある。

 第三条  自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする。
 第七条  内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有する

 気になるのは「公共の秩序の維持」という規定である。
 軍隊は国内問題、いわゆる政治的問題や治安に関与してはならない。いかなる意味においても、それは国民の武力による弾圧になるからだ。だから、公共の秩序云々といったような規定を設けるべきではないのである。これが場合によっては暴走の契機になるからだ。戦前の日本、またどこの国でも軍隊の出動は国家のため、公共の安寧と平和のためだったのである。憲法論議よりこちらの方の検討こそ、最重要課題である。
 
 わたしは、従って次の点を明記し、自衛隊を憲法で縛っていくべきだと考える。
  1 自衛隊は国外からの武力による侵略に対してのみ攻撃防御できる
  2 自衛隊は災害救助隊を結成し、要請があればどこへも派遣できる
  3 自衛隊は内閣総理大臣を長とする国家安全委員会の指揮のもとに、活動は国会の承認を得なければならない。
 現在問題なのは改憲云々ではなく、自衛隊のあり方なのである。【彬】
 

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旺盛な新芽とアブラムシの発生

2017年05月12日 | 日記

 柑橘類に共通な真っ白なユズの花です。

 都内でも緑はたくさんあります。街路樹、公園樹、庭先、各種植え込み、などなど。

 今年は雨が少なく天気が良いものだから、新緑は旺盛で、花の終わった椿など、艶つやした見事な葉を広げています。そして、いろいろな花がよく咲いています。ちょっと気がつかないところでは、柿、ユズ、グミといった果実類。このままいけば、この秋、東京は果物の大豊作となるのではないか。

 ところが気になるのは、アブラムシ。せっかくの新芽に幼虫がびっしりと張り付き、葉が油を流したような色合いになって、やがて縮れるように萎縮していきます。このアブラムシ、私がみるところ、花桃、椿、バラ、ネズミモチ、シラカシ、ゲッケイジュなど、ほとんどの木に大発生しているように思えるのです。

 いろいろ調べてみると、この対策、処置の方法がなかなか難しいようなのだ。加えて、特に都会の緑は、実生を含め、だれがどのように育ているのか、よくわからない場合があり放置せざるをえないということが起こる。

 できることなら、都心の園芸愛好家たちが、街路樹の下草や雑木に目を向けて、駆除に取り掛かってくれるとありがたい‥‥もちろん私も含めてだが。年寄りの仕事はこうした公共の場を管理していく使命を持っているようにも思うこの頃である。【彬】

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人物画を描く

2017年05月09日 | 日記

 僕の所属する某絵画愛好会が、この5月に展示会を開き、僕は4点を出展する。2点は風景画、もう2点は人物画。

 僕は、以前はスケッチブックを手元に持ち、気にいったものを見つけると、例えば、景色、動植物、食べ物、などを気ままにスケッチしていた。だが、最近は絵を描いていない。展示会として他人に観てもらうには、それなりの準備が必要。アマチュアの展示会の場合、風景画、静物画、人物画で、油絵か水彩画が一般的。展示会は毎年開かれ、出展するメンバーは10名ほどで、作品のほとんどが風景画、静物画が少し。人物画は無い。

 つまり、人物画は難しいのだと思う。人物画はごまかしがきかない。作品の、よし、あし、がすぐわかる、と思う。少々キツイ言い方だが、うまい下手、は人物画をみればわかる。それも顔で。

 今回僕が出展する人物画は、好きなフェルメールの2作品の模写。このところ準備をし、ようやく仕上げた。展示会に模写とはいかがなものかとも思うが、模写も一つの描き方と割り切る。いや、模写というほどの物ができたかの方が怖い。 

 以前から、気に入った名画を模写することで、名画鑑賞をしてきた。レンブラント、クリムト、ラファエロ、ワイエスなど。もちろん、模写というより憧れてまねしてきただけだが。

 さて、しばらく、絵から遠ざかっていたが、大好きな、フェルメールのおかげで趣味の絵の世界に戻った。フェルメールの絵が素晴らしいのは、人物の表情なのだ。肖像画ではなく、生活の中の一瞬を切りとり描く。限りない癒しを感じる。

  掲載の絵は、フェルメールの「レースを編む女」の模写。出展作品の一つです。

     2017年5月7日  岩下賢治

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季節が動いた

2017年05月07日 | 日記

 

 

 連休の一日、用事があって成田に行った。総武線・東京駅からエアポートNARITAという快速電車に乗って、1時間15分。車窓は雑然とした都会の風景だが、佐倉を過ぎると一変した。

 広々とした一面緑の水田が現れ、2~3日前に植えられたであろう早苗が整然と列をつくっている。その光景に触れていると、私はなぜか胸がときめいてきて、”おお、季節が動いた”と感じ入った。

 田が起こされ、水が張られ、苗が植えられると、あゝ夏が来るのだと思う。子供の時に身についた感覚はいつまでたっても変わるものではなく、季節というのはカレンダーの日付ではなく、人が自然に働きかける結果で決まるものだと強く思うのである。

 夏の汗を流す時の井戸水の冷たさ、霜柱を踏んで登校する時の冬の到来、家々の周りに整然と積み上げられた燃料としての薪、、、季節の変わり目のシーンが次々と思い浮かんでくる。しかし、それらの全ては農業社会の習俗である。そうした風俗が終わってしまったのは、ほんの30年前のことで、時代の動きの早さをとくと知るのである。【彬】

 

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