ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

コロナ後の生活マナー

2020年05月30日 | 日記

 ホタルブクロ

 今、新しい生活行動が推奨されている。行政もあれやこれやといい、飲食店なども、座席の間隔を広げるとか、アクリルボードで仕切るとか、防衛策を講じている。これだけの騒ぎと大被害をもたらしたのだから、対処法を工夫するのは、当然であろう。
 ところで、この間、自分自身はどうだったのか。箇条書きしてみよう。

 ①病院に行かないようにした。
  肘に水が溜まって抜いてもらっているのだが、生活に支障がないので、病院にいくことを控えた。病院は病人の集まるところである。そういうところにわざわざ行きたくなかった。
 ②床屋に行かなかった。
  3、4、5月と3ヶ月間、調髪していない。床屋は最も密な関係を結ぶところである。
 ③道路で他人とすれ違うときには、相手との間をなるべく開けるようにした。
 ④スーパー、コンビニ、薬局など必要な物を購買する時は、必ずマスクをかけた。
  商品や陳列棚、レジ回りはウイルスを媒介する可能性が高いと思ったから。また、それがマナーと思えた。
 ⑤銭湯に行かなかった。
 ⑥昼食は飲食店を利用しないようにした。
 ⑦買い物は現金決済をしなかった。
 ⑧この間、テレビや新聞より、ツイッターやyoutubeなど、いわゆるソーシャルメディアに親しんだ。

 これらの自衛・生活の制御がどれほどの効果を持ったのかはわからない。おそらくウイルスからの防御にはほとんど役立ってはいないだろう。
疫学的なことは研究者に任せるしかないが、こうした日常の自粛が、ひょっとしたらこれからの私たちの新たな生活マナーになっていくのではないか、と思う。
 居酒屋で大騒ぎをしたり、スポーツ観戦であたり構わず喚き立てる、ロックなど野外で大音響をたて騒ぐといった風俗は言ってみれば「生活バブル」だったのではないのか。
 老人じみた感想だが、そんなふうにこのコロナ禍の影響を思う。【彬】

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コロナ禍・保健所の役割

2020年05月27日 | 日記

アヤメ

 このところずっとコロナ問題にかかずらわってきたが、私が納得できる人に久方ぶりに出会ったので紹介します。
 関西大学の高鳥毛敏雄教授の見解である。今回不評を買った保健所について語りながら、日本の公衆衛生の由来、役割、その成果と危機について語っています。
 以下は、「47NEWS」というインターネットサイトに配信された、共同通信の武田記者の記事。一部を転記します。

 「日本の公衆衛生は、欧米とは異なる経緯でつくられた保健所と保健師に支えられています。その保健所が辛うじて生き残っていたことが幸いでした。保健所は、結核に苦しんだ長い歴史があったことでつくられたものです。2018年でも新規の結核患者は1万6789人、死亡者は2303人の状況です。日本のコロナ対策は、欧米では聞かないクラスター対策を行い流行拡大の阻止をしていますが、それは全国に保健所と保健師が残されていたからこそ成り立っています。そうでなければ欧米諸国と同じ展開となった可能性があります。」

 「日本は遅れて産業化を進めたために、近代国家の建設時期と結核の流行拡大が密接な関係にありました。死亡統計でみると1909~50年の40年間、連続して死亡者数が10万人を超える異常事態でした。結核の罹患者は青年層であり、国の重要な労働力と兵力の生命を失うことにつながります。その結果、国家、社会をあげて取り組むことが必要となりました。そうして設けられたのが保健所と厚生省(当時)だったのです。」

 「病院の多くは一般外来診療を行っていますが、欧米の病院は一般外来を受けつけていません。また病院の個室化が遅れている上、急性期病院での感染症の流行監視・制御する部門の設置が一部にとどまっています。感染症の患者が直接病院に受診した場合、院内感染が起こりやすい状況にあるのです。
 そのため、感染症が流行した時は、保健所が間に入り、〝門番〟として病院の機能を守ることが大切とされています。それが「発熱相談センター」とか「帰国者・接触者相談センター」というものが設けられた理由です。しかし、市中の感染者が増えていくと保健所だけではくい止められなくなり、院内感染が多発することになります。実際に新型コロナ感染症の流行拡大した3月中旬から、院内感染事例が多発しています。」
 
 私は感染症対策としては、癌研と同じような専門機関・病院を作るべきと、以前、書きましたが、上記の内容はそれを裏打ちするような内容です。保健所の役割をはっきりさせた明快な見解だと思います。
 知らないことを棚に上げ、いろいろ文句をいう輩がいますが、この先生の話をよく聞くべきです。そしてこのインタビューをした共同通信の記者はなぜ全国紙及び地方紙に配信しなかったのか、不思議に思う。新聞社から無視されたのかな。【彬】

 

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カミュ「異邦人」」から「ペスト」へ

2020年05月26日 | 日記

 4月20日のブログ、アルベール・カミュの「ペスト」の続きになります。

 新型コロナウイルスの影響で、カミュの「ペスト」がヨーロッパやそして日本でよく読まれているということで僕も読書を予定している。その準備として、「異邦人」l’etrangerを再読しこのほど読了した。ずいぶん前になるが、以前読んだときは、名作であり、フランス語の勉強ということであったが、この作品は好きになれなかった。主人公、ムルソーは、ささいな理由で殺人をおかし、神を信じることなく、人の援助にも背を向けるという、無機質な人間。これからこの本を手にすることがないだろうと思っていたが、思わぬことから読み直すことになった。そして、今、印象は逆転し大変感銘をうけている。

 カミュは、世界は神(キリスト教でいうところの)の摂理で守られているわけではなく、現実の世界は不条理にあふれている。人間個人には、「異邦人」のような不条理な因子が宿っている、また、この世界、社会には、は、戦争、災害、疫病など、抗いがたい不条理が起こる。それに対抗していくために人間は何をしなければならないかを追求してきた。と、僕は思う。

 「ペスト」は、先の世界大戦におけるカミュ本人の、ナチス占領下のパリでの体験、そこでの出来事を隠喩したものと考えられる。それらを直接描くのは難しいので中世ヨーロッパで猛威を振るった疫病のペストに主題を変え社会の不条理とそれと戦う人間を描いたようである。

 確かに、この世界は不条理にみちている。新型コロナによる世界の惨状をみるとこれが21世紀の出来事かと疑う。だが、薬が開発されるまで、自分は何とかなるだろうとも思ってもしまう。人間の脳みそに組み込まれた、正常性バイアスという心理状態らしい。

 さて、緊急事態が解除されたら、人込みを避け、東京の丸善に行き「ペスト」la peste,を入手し読もう。

 小説の舞台は、戦後まもなくのアルジェリアの港町オラン。フランスの植民地時代になる。アルジェリアの歴史をみると、今は、公用語がアラビア語のアラブ世界だが、アラブ人がイスラム教を広める前は、ベルベル人の世界であった。その後、オスマントルコの支配、そして、19世紀初めにはフランスが進出した。独立したのは1962年。そうした時代を踏まえて作品を読むと理解が深まる。フランス語で読むと、より、リアリティーを感じられる。

   絵はアルジェリアのオラン。

    2020年5月25日  岩下賢治

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第二、第三波がくるという狼少年

2020年05月23日 | 日記

白い清楚な花なのに、何故かドクダミ

 おそらく東京も週明けには非常事態宣言の解除になると思われる。
 ところがテレビ芸能人や行政担当者らは、第二波、第三波がくるのではないか、と煽っている。東京都では東京アラームを発し、レインボウブリッジのイルミネーションを赤にして、注意を促すなどと、たわけたことを予告している。お祭りの準備をしているようなものだ。
 ようやく解除されるというのに、先行き何を怖がっているのか。当てのない大地震の恐怖を煽っているのと、同じである。
 もちろんウイルスは絶滅するわけではないから、次の流行があるかもしれない。あるいはもっと強力なウイルスが出現するかもしれない。その時のために識者や行政のやることといえば、今回の経験を生かして、次なる流行に対処する方法を、事前に講ずることだ。新しい事態に対しては、当然、治療薬やワクチンなどない。そんなか、感染者が発見された場合の、対処治療、隔離、消毒などをどうするのか、など。
 私は専門家ではないからなんともいえないが、一市民として思うに、癌専門の研究所や病院があるのと同じように、感染症に特化した専門の機関や病院を設けるべきだとおもう。今回大きな問題となったのは医療崩壊の可能性、つまり一般の病院や総合病院に感染者が紛れ込んだ場合である。最悪、医者や医療関係の従事者を含め病院自体を封鎖することにもなりかねない。
 過密都市をロックダウンするのは行政として最低である。
 関係者の皆さんには、マスコミなどに踊らされずに、じっくりと対策を考慮してもらいたい。【彬】

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巣籠もりの中で体力を維持すること

2020年05月20日 | 日記

エゴノキの花

 コロナ禍、自宅巣籠り状態で運動不足が指摘され、テレビなどでは自宅でできる筋トレが推奨されている。それなりの効果があって、すこしでも継続できるといいと思う。が、高齢者や基礎体力がない人にとっては筋トレなど、絵に描いた餅である。
 体力と健康、あるいは生命力の維持というのは、そもそもなんなのだろうか。絵描きとか、工芸関係に従事している作家というのは、アトリエに篭って、時には徹夜したりで、健康とかには全く配慮しないのに、往々にして長寿な方が多いのはなんなんだろうか。作家の方に直接聞いたこともないのだが、自分自身のことに重ね合うと、きっと手の技術というのは、終わりがなく次々と技術の修得、あるいは進歩と向き合い、日々励んでいるせいではないのか、と思う。
 私は隔日ランニングをしている。健康のためというのではなく、自分の身体能力を調整するためである。調整というと変だが、若い時のようにタイムを縮めるとか、肉体を強化するというのではない。自分の弱点を発見し、それを克服するべく、常に理想的な、滑らかなランニングをできるように調整しているのである。こうした目標を持つと継続できる。途中休んでも一向に構わない。ウインドウに映る姿を見て、右脚が流れているな、腹が出ているな、とか判断するのである。代謝能力を高めるトレーニングではなく、体の動かし方の技術を向上することを目標としているのである。これが、同年輩の人よりは健常である理由であると思っている。いわば工芸家の手先の訓練と同じである。
 高齢化社会にあって、健康を維持することの重要性は、私たち自身がもっともよく知っている。現在の外出自粛の中で、家の中でどうすべきか、考えてみる良い契機になっているように思う。単に負荷を与え、運動することが良いというわけではないのではないか。
 老人クラブの輪投げとか、ゲートボールについても、賞品出したりではなく、運動上の技術的な観点から、競技方法など見直すと良いのではないか、と思う。【彬】

 

 

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