ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

老人の未来

2014年06月24日 | 日記

スケッチ=近所の老描

 最近「終活」などという言葉が幅を利かすようになった。死への道筋をたてようというのである。馬鹿げている。老人は死に向かって生きている存在ではないのだし、もし問うとするなら「老人の未来」である。小児に未来があるように、老人にも未来があるはずだ。ただし、子供のように単に将来に向かう「時間的」な意味で未来が広がっているわけではない。いままで生きてきた結果としての未来である。そんなものがあるかという問いに、私は次のように答えたい。

 まずは〈家族からの解放〉である。

 老人は家族を作り、子供を育て、主役を次の世代に譲り渡した存在である。かつて私たちの生活が農業に依存していた時代には、家族は子供から老人まで、家を繋ぐ役割を負っており、世代が交合して初めて生活が成り立った。だが、今日のような高度な資本性社会での核家族では、子供が独立すれば、その役割は終えるのだ。蓄えもほどほどある。高齢者がスポーツや旅行を楽しんだり、あるいは文化活動等にいそしむ余裕ができるのはこのためである。この状況をもっと積極的に評価し、高齢者=老人を家族から解き放なすことが老人の未来をより豊かにする根本なのだと思う。

 もちろん、夫婦も解体してよい。ただし、法的・制度的な意味での夫婦関係である。長年培った伴の意識は、良しにつけ悪しきにつけ、簡単に解消されるものではない。だから解体と言っても、独立した個人として人生を選択出来るという意味での夫婦関係の解体である。そうなると、単独老人として衣食住をどうやりくりするのか、といった疑問が付き纏う。が、都会の生活をみれば分るように、単独者として十分対処できるような環境が既にできあがっているのである。

 独身老人を「おひとりさま」などと気取っていないで、老人家族を解体することに向けることが、老人の未来を構想するうえの前提になると思うのである。

 そのことによって、老老介護の果ての殺害などといった悲劇が避けられるのだ。【彬】

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「赤毛のアン」の魅力再発見

2014年06月19日 | 日記

 

 先日、NHKの朝ドラ「花子とアン」に絡め、「僕と赤毛のアン」を書きました。実を言うと、子供の頃の児童向図書やテレビ、映画での寄せ集めの知識ばかりだったので、改めて原書を英語で読みました。Anne of Green Gables です。これで、ぐっとアンの世界に近づいた感じがします。

 どうしてこの作品が多くの人に支持されるのか。

・描かれている社会と時代背景が100年前のカナダ。古きよき時代。プロテスタントの信仰心、質素、勤勉、隣人愛がベースであり、様々な困難を乗り越えていくことが称賛される開拓者の国の話。多くの人に受け入れやすい。

・豊かな自然、四季折々の美しい景色。

・主人公は身寄りの無い少女。グリーンゲーブルに引き取られた後、たくさんの騒動を起こしながら持ち前の勝ち気さと想像力(空想かな?)の豊かさで周りを明るくし成長していく。読む人に勇気を与えてくれる。

 というのが、一般的な理由でしょうか。

 この作品は

・作者が女性。

・読者は女性が多いと思われる。

・今まで多くの方が翻訳していますが全て女性。

 そうなると、これは女性向けの作品かと思ってしまいます。

 ところが男性の感性で読んでも大変面白いと思うのです。厳しい境遇にある子供が、その境遇を乗り越え成長していくという物語をいろいろ読んできましたが、たいてい子供は少年なのです。その時の表現は「少年は立派な人間に成長していく。」です。少女の物語は多くはないと思います。そうするとその表現は「少女は立派な”女性”に成長していく。」がすんなりきます。

  若い女性の読者はアンを自分に置き換え、物語を楽しむことができますが、大人の男性である僕は、自分とは別の世界を覗くように読みます。アンが健気で前向きなこと、空想、おしゃべり、好奇心、感受性などで、とどまることなくスリリングに物語を展開させる。話の多くは女性ならではのもので、男性である僕には楽しく愛すべきものを、舞台の脇でハラハラしながら親のような気持ちで楽しめるのです。

 さて、大人の男性諸氏。皆さんはアンの物語をどう読みますか?   6月17日 岩下賢治

 

 

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老人介護を本気で

2014年06月12日 | 日記

 階段の上り下りが不如意になったら、私は迷わずに老人施設に入居しようと考えています。家族に迷惑をかけないというのが第1の理由ですが、同時に老人を子供扱いするような対処をされたくないからです。介護に携わっている若い女性など、赤ちゃん言葉を使い、まるで老人をあやしているかのようです。老人というのは身体の自由が利かなくなった人であって、精神が退化し子供のようになった人ではないのです。痴呆が進んでいるようにみえる老人でも、それは病気か、介護してくれる人に対する遠慮なのです。この数十年の科学技術の進展は著しいものがあり、老人はこのような社会の変化についていくことはできませんが、だからといって痴呆扱い、子供扱いするのは、介護の根本が誤っています。だから頭脳が明瞭なうちに施設に入り、老人というのは何が問題なのか、若い看護師と相互理解を深めながら、老いの生活を送りたいのです。

 吉本隆明さんは、老齢者の介護を、優しさにことよせ、ことさら奉仕しようとか、親切や善意で尽くすほど、肝心の老齢者を息苦しくさせるものだと言っています。「家族のゆくえ」光文社2005年刊。

 とは言え、入居できるような安価な施設があるのだろうか。さしあたり古くなった公共住宅を老人施設に転用できないものか、と思うのである。  【彬】

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アミガサダケ。珍しいキノコ。

2014年06月01日 | 日記

 アサガミダケ。私にとっては、珍しく、不思議なキノコ。

 私の勤める茨城の会社の事務所周りの草地に毎年、4~5月に現れる。ある年は点々と大量に、ある年は僅かに、無い年もある。気まぐれである。7~8年程前に或る社員から驚きの声で教えられた。「こんなところにアミガサダケがある! ヨーロッパでは高級食材のキノコなんですよ。珍しいですね」

 長さ7~15センチ、ローソクのような形をして、カサは網目状。食用キノコに分類されるが、日本ではほとんど食されないようである。フランス、イタリアなどでは珍重され、バター炒めやシチュウで食べるそうだ。

不思議に思うのは

①フランス、イタリア料理好みの日本人がなぜ食べないのか?

②その味と香りはどんなものか?

 であるが、おそらく、生では毒であること、栽培が難しいこと、などが理由であろうが、本当は日本人には味がわからないからではないだろうか。その国固有の食材の旨みはその国民にしか分かりにくいのではないか。キノコでいえば松茸の香りが分かるのは日本人だけじゃないかな。

 世界三大珍味の一つ、トリフの味は、僕は食したことはないが美味しいのだろうか? 和食が世界文化遺産となったが、刺身に欠かせないワサビの味が外国人には分かるだろうか? 日本料理店が多いというロシアの寿司レストランでは、ワサビをつけて食べるらしいが味が分かるのかな。また、日本人に近い韓国人は鼻にツーンと抜けるワサビの辛さは苦手と聞いたことがある。

 ところで、

 世界中は大変多くの事件が起き、当該国民の反応も実に様々だ。理解しずらいところもある。人間は深い部分では同じかもしれないが、習慣、文化で覆われた部分では、みな「違う」のだろう。外国の人を理解するのは、善し悪しの判断の前に「違いがある」ことを理解することだな、といつもながら思う。

 ‥今回もキノコの話から、大袈裟な話になってしまった。    5月30日 岩下賢治

 

 

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