ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

鎌倉海岸ハイキング

2021年10月29日 | 日記

 先日、ランニング愛好会の友人に誘われ、鎌倉海岸あたりのハイキングに出かけた。

 コロナが収束に向かう中でようやく実現したもので、湘南の海を眺めながらのウォーキング。茨城時代には、よく車で、大洗方面に出かけ海を眺めたものだ。今回、久しぶりの海で楽しみにしていた。

 鎌倉駅をスタート、由比ヶ浜、から、七里ガ浜の海岸線を歩く。多くのサーファーが波乗りに挑んでいる。遠くから見ると海鳥が、水面で波と戯れているよう。コースを外れ、長谷寺、鎌倉大仏、極楽寺にも寄る。観光客も多い。小学校、中学校、また、高校からの、修学旅行の団体も来ている。緊急事態宣言が解除されようやく普通の学校生活が戻ってきたのだろうか。

 今回、なによりも嬉しかったのは、小中高の子供たちが、この歴史の町で、活き活きと旅行を楽しんでいるのを見られたこと。自分の歩きより、そちらほうが大きな成果だ。彼らにとって、いい思い出となりこれからの生活の糧になってほしいと思うのだ。

 11kmほどのウォーキング。今の自分の体力では十分の運動であった。締めは、イタリアンのレストランで食事をしながら、日の暮れる湘南の海をながめる贅沢。

  2021年10月28日  岩下賢治

 

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政治は控え目がいい

2021年10月26日 | 日記

                     我が家の収穫した次郎柿

 衆議院議員選挙の期間中である。この間は、特に政治的なことはとやかく言わない方がいいのかもしれないが、いろいろ考えるところがあるので、一つだけ記しておきたい。
 それは、政治家は各方面にあまり口出ししないほうがいいということ。識者と言われる人や新聞やテレビでは、反対に、アレやコレやといろいろな要求を出す。要求を出すことが民主主義、議会主義での正義だと思わせる口振りだ。
 私は、それは違うと思う。
 現在、私たちの生活はあまりにも多くのことを政治に依存しすぎていて、身の回りから、衣食住の全てにわたって政治が事細かく食い込んできている。たとえば食べ物、その生産から流通、さらには食品の成分・内容に渡って細かく政治的な規制が食い込んできている。また、住宅などはどれほどの細密な規制が組み込まれているものやら。それでも、何か事故が起これば、政治が怠慢だったなどと新たなる規制を求め、制度化する。これでは身動きが取れなくなる。
 六法全書というのがある。ご存知のように、これは明治以降、現在生きている法律を全部書き留めたものであり、この分厚い書物は、言ってみれば全文政治家が作ったものである。今でも毎年200~300本あまりの法律が作られ、施行されている。
 亡くなられた吉本隆明さんは、政治の理想は町内会のゴミ当番と同じで、嫌々ながらやるもので、何か大言壮語するようなものではない、と言っている。プラトンは、国家篇で、政治家が出しゃばることはよくない、大工などと同じで一定範囲内の厳格な職業倫理に服すべきものだと言っている。
 政治が肥大化するとろくなことはない。戦争は政治が肥大化したものでもあるのだから。現在争われている選挙の各政党の公約は、自分たちがいかに事細かく丁寧に細部に渡って政治の手を差し伸べるかを競っている。私の考えでは、政治のあるべき姿から最も遠い位置にあると思う。社会保障からインフラまで、普通の職業と同じ仕事として処理できないだろうか。かつて問題を起こした年金制度は、現在は半民間化されたし、鉄道、水道、郵便など、国の手から離れつつあるのが時代の流れである。
 革命、などとはほど遠い、複雑で進歩した時代に生活しているのである。【彬】

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栗に食べ頃がある

2021年10月21日 | 日記

                 栗、葉を描くのが難しい

 先日、田舎道を歩いていたら山栗が落ちていたので、いくつか拾ってきた。早速茹でたのだが、美味しかったのは2、3個で、後は硬くて食べられたものではなかった。落ちてから何日か経ち、実が固くなっていたのだろう。そう言えば、栗のお尻の部分が黒く変色していたかのようにも思う。
 店頭で販売されているタンバ栗でも、おいしくないものがある。収穫し一定以上の時間が経つと、渋皮が固くなって味そのものも瑞々しさを失ってしまう。栗の食べ頃を見極めるのは、なかなか難しい。茹でて渋皮がすっと剥がせる時が一番だが、外見ではわからない。
 農作物には旬(しゅん)があると言うが、旬の意味するのは、季節性だけでなく、収穫後の食べ頃についても指しているように思う。
 都会に住む者の贅沢かもしれないが、野菜類や果物など、店頭での販売の際には、賞味期限と同じような意味で、食べ頃表示をしてもらいたいものだ。特に果物類、たとえばスイカ、りんご、梨、蜜柑などの柑橘類、その他、多様な輸入品。今、冷蔵、冷凍技術が発達し、季節外でもいろいろな果物を手に入れることができるようになっている。しかし、瑞々しさを保持する食べ頃までは維持できない。買っては見たものの当たり外れがあるのだ。
 私は季節的な意味での旬には、こだわるつもりは全くない。冬にキュウリを食べても違和感はないのだが、ただ食べ頃だけは大事な情報なので、なんらかの説明があってもよいのでは、と思う。【彬】

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大切に育てたい都会の街路樹

2021年10月18日 | 日記

                      野生のリンドウ

 私の若い頃だと、並木と言えば「前座のヤナギ」で、その他では表参道のケヤキ、日光街道の杉並木とかが有名だった。東海道の松並木はもう一部にしか生き残っていなかった。大阪の人にとっての並木は御堂筋の銀杏だろうか。
 現在は道路の緑化が進んで、各地の道路に様々な樹木が植えられ、地域の風情を豊かにしている。樹木の種類もいろいろで、私の住む近くでは、アオギリ、ユリノキ、エンジュ、ハナミズキ、コブシ、サルスベリ、イチョウ、プラタナス、などなど。いずれも落葉樹で大木になる。落ち葉の季節になると始末が大変で、葉を落とす前にきれいに剪定してしまうことが多い。それも丸坊主に近い、強めの剪定である。木を大きくすることは念頭にないようだ。年取ったせいか、並木のことが気になる。

 そもそも並木というのはどのような観点から植樹されているのだろうか。古くは奈良朝あたりに遡るようで、朝廷に向かう街道に、旅人や荷物の運搬者のための休息、および食べ物を供する実のなる植物を植えたことがはじまりのようだ。もちろん中国由来である。

 江戸時代になると、並木は道標の意味を持つようになる。一里塚などと距離をも示すようになり、そこに植えられたのは、エノキである。柳田國男はこのエノキに特別の意味を与えている。エノキは実もつけ、食べられるもする。東京の神宮外苑には今でも観兵榎という記念碑がある。この地で兵の訓練をし、エノキの木の下に明治天皇が鎮座して見守ったとされている。

 このように並木は私たちの生活に染み付いたものだが、交通のあり方の変化とともに意味も変わってきた。車社会の道幅拡張に伴い、並木は不要になったのだ。そんなことをあれこれ思うと、今の時期の剪定に何かやるせない思いが湧き出てくる。
 手入れされず歯が抜けたような並木とか、強く刈り込んだ木々は、本来の並木には遠いのではないのか。夏、木陰を作ってくれる大木、冬は葉を落とし、柔らかの日差しが差し込む穏やかさなど、木々は心を落ち着かせくれる。並木が現代都市の発展の象徴になって欲しいものである。

 ついでながら、ヨーロッパでも並木の由来は古く、ローマの時代からあったようで、今、英語でアベニューというは、ラテン語からフランス語などと共通していて、フランス語だとアレ、つまり歩くという言葉につながるようである。パリではマロニエが有名だが、これは日本だとトチノキである。【彬】

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国立陸上競技場の活用は?

2021年10月07日 | 日記

              近所の公園で棗が熟していました。

 私は、新しくできた国立陸上競技場に入ったことはないが、もちろん入る資格もないから、当然だが、その外周は走ったり歩いたりしながら、何回か回っている。その印象を一口で言うと、とにかく広い、大きいと言うこと。この建物、従来の国立競技場を建て替えたものだが、その広さは従来の倍の広さがある。倍と言ってもうまく伝わらないと思う。具体的に言うと、従来の施設の周りには、明治公園とか広い公園があったのだが、その公園を丸ごと飲み込んでいる広さと言えば想像が出来ようか。収容できる観客はなんと9万人。それにスタンド下には、選手、関係者用の設備・施設を含んでいて、競技場の中央には、400メートルトラック9レーン、それにフィールド競技をするスペースがあるのだ。それほどの巨大さなのである。とは言え、高層ビルのような威容を誇ると言うものではない。現代の遺跡だと思えば思えなくもない、どっしりした楕円形の構造物である。
 そこで問題なのは、オリンピック後のこの施設の利用方法。以前からとやかく言われてきてはいるものの、具体策はないようだ。国は民間に利用権だけを売却したいようだが、買い手はあるのだろうか。ロックコンサートに最適だとか、言われてはいるものの、スーパースターの野外コンサートなど、これから先、今までのように隆盛を続けていくとはとても思えない。さてどんなふうになり変わっていくものやら。
 セバスチャン・コー世界陸上協会会長は、次の世界大会でこの会場を使いたいと申し出ているらしいが、この会場を観客で埋め尽くし、この施設を十全に使い切れる能力がある団体だとはとても思えない。
 以前の国立競技場も同じ悩みを抱えていた。観客席数確か5万人だったか、このスペースを埋め尽くすイベントは、お正月のサッカーくらいで、閑古鳥が鳴いていたのである。お祭りの後始末は、どこでも大変である。【彬】

 

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