ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

近場の紅葉を楽しむ。

2017年11月28日 | 日記

 11月も終わり近くなり、どこか紅葉を楽しみにいきたい。ただし近場がいい。

 ということで、某日曜日、ランニング練習を兼ね、自宅をでて、武蔵野公園から多磨霊園の周囲を巡る。この辺りは、マラソンを始めた頃のメインの練習コースで大変懐かしい。隣接する、浅間山公園にも登る。紅葉、枯葉、大気、に深まる秋を感じさせる。

 午後は、井の頭公園を散策する。大変な人出だ。池の周りを歩いた後、御殿山の雑木林へ。江戸時代、徳川家将軍の鷹狩りの休息所の御殿があった場所と言い伝えがあり、なるほどと思わせるものがある。

 後日、自宅のすぐ近くの、東京農工大学キャンパスに行ってみる。春の桜の季節には花見にいくところだ。この秋の日は、ケヤキ並木、イチョウ並木の紅葉が実に素晴らしい。この景色はいままで気が付かなかった。近所の住人も見物に訪れカメラに収めている。 

 秋の、紅葉、風情、をたのしむこと。所謂、名所にいかずとも美しいと思うところは近場にある。

 大学から自宅に帰る途中、カキの実を突っつくメジロ3羽を見る。これも秋の風景か。メジロは春の鳥と了解していたが。なにかオマケをもらった気持になった。

  絵は、農工大のキャンパス。イチョウ並木。

     2017年11月27日  岩下賢治

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同窓会と地方の衰退

2017年11月22日 | 日記

 センリョウ


 先だって高校の同窓会があって、久方ぶりに田舎へ帰った。卒後55年ということで懐かしい人達との老いの度合を測る会合であった。当時400人の同窓生がいて、今回集まったのは81人。主席率は悪くないと思う。
 田舎町に行って、老いは人の問題だけでなく、町についても気になることであった。
 賑やかだった駅前は更地にされ、車が2〜3台停められた駐車場になり、銀行があって2軒の本屋、スポーツ用具店、老舗の呉服屋や文房具店、さらには中規模の百貨店など跡形なく、飲食店がチラホラあるといったありさま。こうした地方の衰退は私の田舎ばかりではない。日本国中すべてに見る状況である。なぜこうなったのか?
 答えははっきりしていると思う。車社会の浸透により、経済の広域化が進んだからである。地方では一家に2台、1人1台のクルマ無しでは生活できないような時代になっている。当然のことながら、車の需要に応じて道路が整備された。行政は道路の整備が従来の地域経済を衰退させるだろうと分かってはいたものの、道路の整備を進め、高速道路やバイパスの建設を進めていった。そうせざるを得なかったと思う。そして今はさらに進んで、広域行政で地域はバラバラの状態のように思える。
 どうしたら良いのか。
 思いつきだが、私はは学校社会によって再興されるのがいいのではないか、と思う。
 どこの国、どの地域でもそうだが、地域の隆盛はその共同的な意識に依存している。アメリカや西洋だと教会を中心としたキリスト教が元になっている。日本だと神道で、その象徴がお祭りだ。が、宗教色が薄くなった現代では、宗教に代わるものが学校だと思う。だから地域が誇る学校が、共同性の元になりえると思うのだ。昔のことを思うと、各地域は、中学や高校が活気を支えていたと思う。高校だと一学年300〜400人、3学年にすると1,000~1,200人の若者が毎日、街を埋めていたのである。今、何年かたっても同窓会に人が集まるのは、そうした学生時代があったからである。
 現在、各高校にはおざなりな同窓会事務局がある。この事務局が名目ともに活動し、ここが中心になって、街の再生ができるのではないか、と思うのだ。街を出た人も交通が利便になった今日、田舎と都会は自由な行き来が可能だし、スポーツ、芸術、工芸など様々な分野の活動が現役生と卒業生の間で豊かに交流できるのではないか、それを支援する行政ではないのか、と。卒業生の同窓会宴席だけでも、こまめにまとめていけば街の消費はぐんと上がるのである。単純に計算しても50年の歴史のある高校は同窓会を毎年開けば週一回の宴席ができるのなる。
 こんな思い、他愛ないことだろうか。【彬】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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街路樹の剪定

2017年11月16日 | 日記

 次々と紫色の花をつける、メキシカンブッシュセージ

 私の住んでいる新宿区では現在主要な幹線道路の街路樹は剪定されずに、夏に育った枝葉を広く伸ばしている。樹種は、ユリノキ、プラタナス、アオギリなど。こらから落ち葉の季節を迎え、これらの木からは大量の枯葉が路上を埋めることになる。晩秋らしく、私には好ましい風景だ。
 昨年までだと、8月末の頃に茂った樹木は業者によって丸裸にされていた。信号などの標識が隠れるとか、落ち葉の始末が大変だとか、周辺からいろいろ苦情があったのだろう。だから台風前に剪定しておくというのが、この十数年の通例になっていた。まだ青々と茂っている落葉樹を大型車両を使って丸坊主にしてしまうのだから、木には気の毒という他にいいようがない光景が続いていたのだ。
 ことしはなぜ剪定しないのか。
 オリンピックである。木を育て、日差しを遮るなどの暑さ対策をするためである。どれくらい効果があるのか私にはわからないが、木が枝を広く伸ばしている姿を見ると、古都にいるような気分になる。木の大きさが年月を表現してくれるのである。オリンピック効果がこんなところに現れているのかと、思う。と同時に私たちの西欧的な都市づくりの欠点に思いが巡る。日本では、樹木と建物とは相性のより関係にあるのではないか。古代の昔からわが国では街路樹が植えられていた。それは、旅人の憩いの場を作るためのものであり、距離表示でもあり、同時に木の実など食べ物の補給を兼ねた、とされている。そんな歴史を辿るまでもなく、街路樹の様子を見ていると都市交通のあり方自体に考えた及んでいく。

 私は以前、車道の一方通行化を提案したが、電気自動車の普及を含め、車社会あるいは交通の理想的なあり方を問うことは近代文明についての難問のひとつだとも思う。【彬】

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電気自動車という産業革命

2017年11月08日 | 日記

 花オクラ  入澤光世

 中国が国の戦略として電気自動車の全面的な普及に突き進んでいくそうである。それだけ北京をはじめ都市部の環境劣化が深刻なのだろう。環境問題に懸念を持つドイツも、原発否定に加え電気自動車の普及を宣言している。
 私は若い頃、環七の沿線に住んでいたことがある。モータリゼーションの始まった頃で、排ガス規制がまだ十分でなかった。ジーゼル車は黒煙を撒き散らし、室内に放置したビニール袋には、うっすら黒い粉塵が付いてしまうような時代だった。また騒音もひどく、戦車が走っているかの轟音だった。その後の自動車の改善は著しく、車の進化は文明の発展そのものだった。  
 その先端を日本が担ってきたわけである。
 そして今、電気自動車の時代。その普及は環境の維持のために必要なだけでなく、文明のあり方の根本を変える革命に匹敵するように思われる。
 すでにいくつか指摘があるようにEV(エリクトリック・ビークル)によって、車の生産工程、主としてエンジン部門が大幅に変更される。それは一種の産業革命になる。さらに全国に配置されているガソリンスタンドから給電所への変更。さらに現在の自転車にあるような軽便な電動車の普及などなど。
 しかし、ここで問題になるのは、電力の調達である。電気自動車が走るには多大な電力が必要になる。現在主力である石油・天然ガスにだけで供給できるものなのか。ドイツは否定的だが、中国は原発による電力の供給を推進する方向のようだ。再生可能エネルギー、いわゆる太陽光発電にたよるなどの空言もあるが、そのためには広大な土地と好天が必要だ。
 電気の長所であり欠点は、その力を貯蔵できないということ。またその力を送電すのに大幅なロスが出るということ。だから本当は優れた蓄電技術が発見される必要があるのだが、一時話題だった超電導も幻の科学となっている。回転する車輪から再び電力を再生すれば良いではないか、といった永久エネルギー論など笑い話ではなくなる時が来るのかもしれない。
 また、別の問題がある。電磁波の影響である。発電所や変電所、送電線の周辺には人の感覚にも認識できるウンウン唸るような電磁波が発生している。この電磁波と健康との関係が気になる。
 文明の発達にはこうしたマイナス要因が必ず発生する。便利や快適さと引き換えに、こうした負の側面をどう考えるか‥‥新しい時代が突きつけてくる問題である。【彬】

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「所得格差について」続き

2017年11月06日 | 日記

 2015年1月17日付けのブログ「所得格差について」の続きになります。

 当時、フランスの経済学者、トマ・ピケティ氏の、著書「21世紀の資本」が世界的なベストセラーとなっていて、僕は、英語版(capital in the twenty-first century)のペーパーバックが出たら是非読んでみようと思っていた。

 この夏ようやく発行されたので購入し、9月の末から読み始め先日ようやく読みおえた。多少コンパクトになったが、750ページで、厚さ4.5cmの大作である。 

 概要は、資本主義経済下では、資本の収益率が経済成長率を長期的に上回り、富は資本家に集まり所得格差が広がり社会不安の要因になる。世界レベルで富裕税導入など政府の干渉が必要。・・・過去、300年以上の、ヨーロッパ主要国、米国などのデータを使い、理論というより事実をもって説明しているのが素晴らしい。

 読後、思うことは、

 ①    昔、経済理論を勉強していて、最後まで疑問に思っていたのは、経済分析の基礎である「資本」はどのように私有、所有されるのが、公正なのか、ということ。これは、経済学の範疇ではないようなのだ。ピケティ氏は政治経済学の観点から世に問うている。

 ②    300年もの歴史を通して、昔は、資本は代々相続されてきたものがほとんどだろう。高額の不労所得をえていることになる。しかし、現在は、事業や、スポーツ、芸術などの分野で成功を収め、財を成した人が多いだろう。

 ③    以前、ハーバード大学の政治哲学マイケル・サンデル教授の白熱教室というテレビ番組があった。大教室で大勢の学生たちと議論するものだ。その中で、「日本人の某アメリカ大リーガーは、アメリカ大統領の何倍もの収入を得ている。これは、正義であるか?」のような議論があった。この場での正解はないのである。課題を常に考えつづけ正解をみつけていかなければならない、が結論であった。

 さて、所得格差に関係する課題は時代と国によってとらえ方が色々ある。現在の日本は、経済成長、中間層の所得充実、そして、正規、非正規格差是正、が課題だろう。 

   絵はトマ・ピケティ氏

      2017年11月6日  岩下賢治

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