ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

アメリカの国内問題?

2017年08月28日 | 日記

 米国タイム誌、8月28日号の特集記事は、HATE IN AMERICA、(アメリカの中の憎しみ)です。 

 南部バージニア州、シャルロッテビルの公園に立つ南北戦争の南軍将軍像の撤去に反対する白人ナショナリストグループのデモと、それに反対する市民グループが、衝突。ナショナリストグループのメンバーが、反対グループに車で突っ込み、8月12日、白人女性が死亡。多くのケガ人をだした。 

 タイム誌はこの事件について、20ページの特集を組んだ。内容は

①    事件の起きた背景

②    アメリカの白人至上主義グループの成立の歴史

③    白人はこれから何をなすべきか。 

 僕は、前にも書きましたが、タイム誌は主として、アメリカ人向けに、リベラルな立場に立った記事を載せている。その点を考慮しながら、興味深く拝読した。そして、自分の意見も書かせてもらいます。

 ①    については、大統領が白人中間層に寛容な、トランプ氏になったこと。

 ②    については、1865年、南北戦争に敗北後すぐ、南部同盟の一部組織が、kkk(白人至上主義グループ)を組織する。その後、国際状況に合わせ、さまざまな対応をしてきた。

 僕は ③が、どう書かれるかに関心があったが、その要点は。

・白人のアメリカに戻したいという考えが、彼らの中にある。しかし、そもそも、ここはネイティブ・アメリカンと、草を食むバッファローの土地ではなかったか。今や、多人種による民主主義国家だということがイメージできないのだろうか?

・教育が重要。歴史に向き合うこと。この国は、原住民、奴隷の犠牲の歴史の上にある。多様性がこの国のエッセンス。理解には時間のかかることです。

・犠牲者が白人女性で、加害者が白人の男。もし、加害者が黒人だったらこれだけですんだだろうかうか。

・取り締まりの警官が白人だった。もし黒人だったら武器取り締まりはできなかったのでは?誰が事件を起こしたか、ではなく、何がこの事件をおこさせたかだ。

 さて、僕の考えですが。

・白人(主に西ヨーロッパをルーツとする)の文化は、近世の世界を指導してきた。そして、今のアメリカの力は、それに加え、多様な人種、文化を取り入れることで、多様性と柔軟性を持っている。

・白人は、自信、プライド、自分が最も美しいという意識があるだろう。そして、心の奥底には、有色人種への差別意識があるはず。時間をかけ、理性的に自分の外の世界を理解してもらいたい。

・実を言うと。僕自身、以前は、欧米崇拝意識があった。今は、理性の眼で見ている。

  絵は、南軍のリー将軍像の周囲に集まるナショナリスト。 

    2017年8月27日  岩下賢治

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人ごとではない老人介護

2017年08月22日 | 日記

  道端でツユクサが紫色の花を咲かせています。

 「毎日新聞』によると、「岐阜県高山市桐生町の介護老人保健施設「それいゆ」で7月末以降、入所者3人が相次いで死亡し、2人が負傷していたことが明らかになった。県警は施設職員18人から事情を聴くなどして、事件と事故の両面で捜査している。県は18日、介護保険法に基づき施設を立ち入り調査した。」とされる。
 介護施設での事故・事件がこのところ何回か報じられている。被害者にはお見舞いをしながらも、私は加害者・当事者側にも同情の念をもつものだ。と言うのも、ある年齢に達した人なら誰でもが「介護」の仕事が汚濁にまみれた仕事であることを知っているからだ。下の世話から食事、入浴、病気、さては徘徊と、まったくやりきれない介添えが続く。3Kどころではない。家族でさえ手こずる介護を、他人がするのである。苛立って当たり前と思う。
 ヨーロッパではどうなっているのだろうか。
 昔、公園などに老婦人が一人寂しく佇んでいる映像が紹介され、個人主義の一面をのぞかせくれたものである。彼の国々ではファミリーが重視されているようだが、それは個人主義の表の部分で、実際は、死に際に家族が付き添うことはなく、孤独な生の涯は、宗教に頼る以外にない。映画などではそうのように表現されている。
 わが国では、従来、介護は家族が全面的に引く受けてきた。今でも大多数はそうである。そして、こうした家族介護を私たちはごく自然なこと、当然のこととして受け入れてきた。しかし、よく考えれば、こうした習俗は稲作農業に伴う家族労働に起因しているはずだ。小さな水田で食料を自給し、家族全体で仕事に従事、生活を守っていくという日本的な生活のあり方の結果である。ヨーロッパの三圃農業=それに付随する牧畜と、根本的に違うところである。こうした生活のあり方が家族介護の背景にある。
 このところの都市化によって、こうした習俗がくずれ、そして曲がりなりにも社会福祉が充実してきたことから、いまは年取ったら施設に入る、というようになりつつある。この変化は大事である。とはいえ、施設の内実は、費用の関係もあってか、報道にもあるように複雑なものがあるようだ。第一、従事する人材に苦しんでいる。
 理想的な介護、老後はどうあるべきなのであろうか。
 私は、施設を姥捨山のようにすべきではないと常々思っている。老後は元気なうちに入所し、ボランティア活動として施設の運営を手助けする。例えば、掃除、洗濯、周囲の草刈りなどを手伝う。そして施設の内実に触れることにより、入所者のマナーも向上していくだろう。そうした施設がいい。そして、大事なことだが、入所するに際しては家族関係を切断すること。死は他人のことではなく、自分自身のことである。家族に甘えることなく、老後の生活を送る。出家みたいだが、子供や連れ合い、資産から切れ、独り立ちすることが共同で施設生活をすることの第一歩のように思う。
 今、非婚の高齢者は多い。そういう人たちが、将来の老後のあり方の先鞭をつけてくれるのではないかと、私は密かに期待している。【彬】

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茅野・縄文尖石考古館を訪れる

2017年08月17日 | 日記

発掘された仮面のビーナス。顔の部分が逆三角形の仮面になっている。


 夏休みを利用して、長野県茅野市の尖石縄文考古館に行ってきた。観光施設としても通用するような立派な施設で、展示物など充実している。長野県は内陸部でありながら、縄文人が繁栄した地域で、各地に古代に関する施設が設営されている。
 今回、私なりに学んだことが、二つあった。
 一つは、相当大きな土器(口径40センチ、高さ80センチほど)の展示があったこと。一戸は小さなの掘建小屋なので、これほど大きな土器は、とても戸内では使えない。おそらく仮の屋根を葺いたであろう屋外の場所で、共同のカマドのもと、集落全体で食べる機会があり、長の何某がそれぞれ分け与える時に用いたのではないか。縄文土器は、通常、筒状で底の部分が尖っている。これは、火にかける時、下からではなく、横から熱を受けるためで、そうすると大きな土器は、中の食べ物を汲み取り出すことが難しく、食べる時になにか儀式めいた仕草があったにちがいない。
 第二は、人形の頭部分だけを折って埋められたと思われる制作物。人形だけでなく、用途の不明な焼き物で、意図的に壊された土器類が展示されていたこと。図像に示した仮面のビーナスの場合も、足が折られていた。これはいったい何を意味するのだろうか?
 勝手な解釈だが、トーテムが思い浮かぶ。アメリカの先住民は、それぞれ自分の分身である、実際の木とか秘密のトーテムを持っていたとされる。縄文の場合、死んだ時、このトーテムを死者とともに葬り、恐らく忌み嫌うため、破損させたのではないか。あるいは病気とか集団内である事象が起こったために、それを回避するため人形などの大切なものの部位を折り捨てたものではないか?
 私は専門家ではないから、思いつくままに書くのだが、何故、遥か彼方の、歴史から分断された縄文にこだわるのかと言えば、私たちは、弥生以降の稲作文明の慣習や気性に、今でも気付くことなく拘束されているのではないか。自然の変化にこだわる心性とか、祭りの習俗、家族介護、障害児に対する意識、皇族などを崇める気持ちなどなど、稲作文明の習俗が根底に潜んでいるのではないか、と感ずるからだ。そしてもっとも重要なことは、日本という共同体意識・国家意識が、この稲作文明の遺制なのではないか、と思うのだ。その共同体意識から脱皮するヒントが、ひょっとすると縄文文化にあるのではないか、と思うからである。

 どなたからでも教えを請うものである。

 ついでながら、この考古館で2006年に発行された「考古論文集」を購入した。全部目を通しているわけではないが、「縄文農耕論の行方」(勅使河原 彰)が、藤森栄一以来の問題提起を総括しながら、日本の土壌問題に触れていたのに興味が湧いた。論者は中学校の教師で、古墳の探求はこうした教師たちに負っていることが多い。【彬】

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夏の暑さを楽しむ(続き)

2017年08月14日 | 日記

 2015年8月12日のブログ「夏の暑さを楽しむ」の続きになります。 

 今年の8月9日、東京地方は、気温37度の猛暑日となった。前日から、熱中症に注意、外での運動は控えるように、と警報がでていた。果たして、当日は朝から快晴。強い日差しが照りつけている。だが、この真夏の日の光が僕を外のランニングに誘う。

 小金井公園で、200m ×10本、のインターバル走をおこなった。コースは90%が日陰であるが暑い。だが、楽しい。つらいのは、故障気味の膝の痛みの方だ。

 近くの高校の陸上部員が、芝の上で練習をしている。高校生らしい、若くて、軽い走り。僕は、水道の水を飲み、頭からかぶる。水しぶきの向こうに、真っ青の夏空、緑の芝、躍動する若者たち。水の香りの中に、夏らしい風景が広がる。

 高校生は40分程で練習を終えた。夏場は早めに切り上げる。賢いことだ。僕は、所定の練習をこなした。今日は、高校生の軽い走りを眺め、僕の中に残る若さを引き出していた。

 最近の夏の暑さは辛いものがある。だが、この日も多くの人が自分なりにジョギングをしていた。暑さにもめげずというよりは、夏を楽しんでいるように見えるのだ。

  絵は、小金井公園。高校陸上部員のランニング練習。

     2017年8月14日  岩下賢治

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久しぶりに対人で碁を打つ

2017年08月05日 | 日記

  ワルナスビです。秋になるとナスに似た小さな実をつけます。食べられません。

 久々に対人で囲碁を打った。普段はコンピュータ・ソフトを相手にしているので、感覚がうまく働かなかったが、それでもソフト相手とは違った楽しみが味わえた。で、ソフトと対人ではどこか違うのか。

 将棋界では中学生棋士の藤井聡太君の活躍が話題だが、その核心はコンピュータを如何に活用するか、ということになっているようだ。私の囲碁将棋は全くの素人の嗜みであるから、比べるべきことではないのだが、コンピュータ・ソフトについて思うことがあるので、いくつか感想を記しておく。

 人とコンピュータの違いの第一は、考える時間が全く違うこと。容量の大きくなったソフトは、瞬時に指し手を選ぶ。昔、まだ不備だった頃のソフトは反応時間が若干長く、おお、コンピュータが考えている、などと揶揄したものである。ところが今は違う。普通に対局すると、20分で終局。対人の場合は、通常、1時間以上かかる。というのも、碁は終局まで、だいたい250~300手と手数が長いからである。短い時間で対局ができるソフトは、記憶力旺盛な反面、蓄積がない中学生くらいが学ぶには格段に有効だと思う。

 第二にはコンピュータは筋がいい、ということである。変な手は打たない。情勢判断も正確である。これも上達していく上で有効だ。対人の場合、一番厄介なのが、筋悪、情勢判断の曖昧さに悩まされることである。当然投了となってしかるべきなのに、いつまでもぐずぐず打ち続ける。だから、相手に恵まれないと上達しない。

 第三は、コンピュータには「待った」ができることである。あれ、おかしいなと思ったら、何手か後戻りできる。対人ではこんなことはできない。そして全局、並べ返すことができる。プロの対局では「検討」と言って、最初から並べ替え、指し手の良し悪しを検討することが礼儀だが、素人ではこれができない。最初から最後まで覚えきれないからである。

 とはいえ、ゲームとしての楽しさは、対人のほうが数段勝る。勝負の興奮はソフトでは味わえないものがあるのだ。しかし、そんな対局も、多くて2~3局まで。あとは思考力が鈍り、惰性になる。囲碁将棋に限らず、麻雀、競馬など、勝負ごとは、ギャンブラーではないかぎり、楽しさの限度を越えない自制が大切である。【彬】

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