ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

実りの秋…稲のおだ掛け風景

2012年10月23日 | 日記

今回も茨城での話し。

東京時代、生活の周りには、田んぼはない。野菜の畑がすこし残っていただけ。こちら茨城では周囲が田んぼばかりで、9~10月の刈入れの時期は、稲の天日干しの風景がひろがる。

初めて見たときは小さなカルチャーショックであった。なんとも懐かしい、日本の田園の秋の風景であることか。50年ほど前の、私の育った日野市の田んぼにタイムスリップしたようであった。……しかし、当時の日野、私の記憶にこのような天日干し風景はない。脱穀した稲藁を、積み上げた稲山の記憶だけだ。身体を寄せた時の温もりを覚えている。

あらためてみると、この天日干しは風景は、列車の車窓から見ると、茨城県に多い。埼玉県や千葉県に入ると、見ることはほとんど無い。少し調べると、地方により稲干しの姿はいろいろある。茨城では、おだ木を一段に並べた合掌の形だが、東北地方の日本海側では何段にも高く積み上げる。太平洋側は一本の杭を立ててその周りに稲を積んでいくところもある。

このような稲のおだ掛け風景をみているとほっとした充実感に満たされる。

私も瑞穂の国の、日本人である。

10月11日  岩下賢治

 

*稲の掛け方 「おだ掛け」の「お」は「た=田」の接頭語。枝等の細い木を粗朶「そだ」というので、おだというのはこの言葉の派生かとも思われるのだが、否でした。なお、束ねた稲の掛け方を「はさ」といい、稲架と書き、本文中の一本の杭に稲を掛け積んでいく方法を「ニオ」といい、「堆」と書くそうです。  【玉造】

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境域の耕し方 その2

2012年10月16日 | 日記

隣家の間の狭い仕切りブロック塀の上から睥睨する猫の図

 境の確定はむずかしい。私たちの住まい、例えばマンションの場合の境域は柱と柱の真ん中とされている。それが分割所有である。

 一戸建ての場合は法務省の地図がある。線が引いてあって、杭がうってある。しかし、境域を定めがたい場所、あるいは所有権が確定できない場所というのは各地にあって、そこは法務省の地図でも曖昧であるはずにちがいない(確認したわけではないが)。でも、生活権が優先されるから、実態的にはその地域の人たちの生活のやりやすいように暗黙の境域が出来上がっているわけだ。

 また、広い地域の境域についてはある程度遊びがあって、境など目くじらを立てるほど厳密ではない。

 ところが、都会の場合は深刻だ。狭い地域にびっしりと住宅が建つ。当然、隣家と諍いが起こる。猫がようやく通れるくらいに接近している場合では、雨だれがどうの、植物がはみ出したの、些細ないざこざが絶えない。

 こうした生活上の問題は、境域を線で区切ることから発生しているのではないだろうか。隣接地とは線ではなく、面=地帯で対処すべきなのではないのか。面であれば、はみ出したなどの問題は生ぜず、お互い同士で管理することができる。つまり狭いところを両者が耕すのである。都心の狭い土地であっても、隣家との境は、たとえば30センチでもよいから、これを境域として、所有権の実効性を猶予することができないものか、つくづく思う。

 〈境〉の問題は国内にとどまらず、近隣国とでも課題だ。領有権は線で確定すべきではないと思う。たとえ線で調整し得たとしても、どちらがはみ出たとか、法的な権利はどうだとかということが、直ちに発生する。所有権はひとまず後ろにおいて、お互い同士で境域をいかに耕すかを考えたいものだ。

【彬】

 

 

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境域の耕し方

2012年10月08日 | 日記

 中国、韓国、との国境が問題になっています。また国内でも町村合併やら道州制とかが課題となっています。

 いずれも、境の問題です。境というのは、古来から大問題でした。そして地域の境を調整するのが政府の役目です。日本では、大宝律令、守護地頭制があり、諸国民の境域紛争を調整する制度でした。豊臣になって、検地というのがあって、これも戦国期の境域争いの調整のあり方です。

 ヨーロッパですと、典型的なのはフランスとドイツが争い続けたザール地方の争奪戦があります。つまり国境の問題です。アメリカンポップスに「国境の南」という名曲があります。南というのはメキシコですね。いろいろな悩みは国境を越せば解決するという歌です。こういう牧歌的な歌はアメリカがメキシコ戦争に勝って、国境を優雅に超えることのできた時代を象徴しています。

 ところで、日本の1960年代、まだ貧しかった時代のことです。

 谷川雁という詩人/思想家が、日本は境域の処理の仕方がセコイというようなことを書いていました。その例に挙げているのが、農地の耕し方です。田圃にはあぜ道があります。このあぜ道を農民は1センチでも多く削り取って、吾が田にしようとするというのです。確かに農民はそのようにして小さい我が田を守ってきました。でも思うに、そうゆうふうに耕し続けることは農民の境域を尊重する大切な耕作マナーだったのではなかったのか。他人の隣接農地を侵蝕し、あぜ道を全部削り取ってしまうのではありません。境域を丁寧に耕すことは、隣接農地を尊重することでもあります。あぜ道を削り取ってきれいに整えることで、一方の耕作者に、そちらも丁寧に耕してください、というメッセージを送っているのです。侵略的な行為ではないし、そんなにセコイ意識ではないのです。

 こうした不断の耕作によってお互いの境域は維持されてきました。秀吉が検地をしても、このような農民の意識を無視する場合には「チクヲヌク」という方法によって抵抗しました。チクというのは検地のための測量竹です。

 境は平面上を線引きするようなことでは決められません。特に海上や無人島の帰属などではなおさらだと思います。線引きで思い出させるのは、第二次世界大戦後アフリカ諸国です。連合国によって都合良く国境が線引きされた結果、国境を直線で引かれた姿が、アフリカ地図に明瞭に残っております。

〈境〉の処理は、農民の知恵=境域の耕し方、あるいは漁民の知恵=漁法に残る方法を念頭に進めるべきです。

 とはいえ、現代農業は大規模農場化され機械で耕されるため、かつてのあぜ道は消えつつあります。機械に合わせた直線的農地に分割されているのです。漁法も大きく変わりました。農漁民の知恵が消えないように願うものです。【彬】

  *谷川雁の指摘は農村問題に加え、労働者の賃金問題を含めていました。労働者は個別に賃金をもらうのではなく、一括してもらい、自分たちで独自に分割しようという提案でした。

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八ヶ岳、思い出の記録として

2012年10月02日 | 日記

昨年6月から、高校以来、約25年振りの登山を始めました。 
一昨年、若くしてこの世を去った後輩の告別式に参列されていた諸先輩の山行に参加したのが、復帰のきっかけでした。 
以来、週末には奥多摩・秩父を一人で歩くようになり、年20回はどこかの山に分け入っています。 
山を通じていろいろな方とお知り合いになることもできました。 
投稿させていただいた絵も、こうした新たな出会いから生まれたものです。

八ヶ岳での思い出を、いつまでも鮮明に記憶するために、恥ずかしながら、筆をとりました。 
真っ青な空と、綿あめのような雲と、ケルン。そして、今回の山行にお付き合いいただいた皆様がたです。 

こうした素晴らしい方々や風景に出会えたのも、若くしてこの世を去ったK君が、私に遺してくれたご縁だと感じています。 

(尾) 

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