ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

宮城県・大川小学校、津波判決、大いに疑問

2016年10月28日 | 日記

     毎日新聞/石巻・大川小学校、画像より。大川小学校は湾より4キロ強奥にある高台に位置している。


 東日本大震災で多くの小学生と教師が死亡した大事故で、10月27日、次のような判決があった。
「教員は、子どもを守るために、事前の想定にとらわれず臨機応変に対応する責任がある。そう判決は指摘した。
 東日本大震災の津波で74人の児童と10人の教職員が死亡・行方不明になった宮城県の石巻市立大川小学校を巡る裁判だ。うち児童23人の遺族が市と県に23億円の損害賠償を求めたのに対し、仙台地裁は遺族全員に約14億円を支払うよう命じた。」27日・毎日新聞社説より。
 この判決には、疑問を投げかけるツイッターやブログがある。
例えば、
[前代未聞の大川小判決。自然災害時の避難指示を「結果論で」間違ったら賠償しろというすさまじい判決]
当然だと思う。

 一方、原告団長の今野浩行氏は
「震災後から、なぜ多くの子どもたちの命が犠牲になったのか。市教委と話し合いを続けてきました。しかし、市教委は、虚偽の報告や証拠の隠滅など、事実を隠して自分たちの組織を守ろうとしてきました。検証で事実を明らかにするからと言われて立ち上がった“第三者委員会”も、実際には“第三者”ではなく身内による行政擁護の調査で、事実は不明確なまま終わった。裁判の場なら事実がわかるのではと思った。我々が望んでいたのは、我が子が51分間、どういう気持ちでどういう指示を受けていたのか、最後の様子を親としては知らなければならないという事実の解明だった。しかし、津波の予見性に終始して、唯一の生存教諭の証人尋問も叶わなかった」HUFFINGTON POSTより。
 今野氏のいう「どういう気持ちでどういう指示を受けたか」など、どういうふうに事実を解明するというのだろうか。被害者という優位な立場を振り回しすぎていないか。まして23億円の賠償を求めたというのであれば、なおさらである。

 空から眺めた小学校の跡地、裏山の様子がわかる。毎日新聞、画像より。

 私は以前、本欄で幼稚園の送迎バスの訴訟について書いている。長くなるが、再掲する。
「日本大震災の津波で宮城県石巻市の幼稚園の送迎バスが流され園児が死亡した事故を巡り、園児4人の遺族が幼稚園側に2億6700万円の損害賠償を求めていた訴訟で、仙台地裁は17日、園側に1億7700万円の賠償を命じる判決を言い渡した。(CNN)
 斉木裁判長は「巨大な津波に襲われるかもしれないと容易に予想できた」と指摘。「園児は危険を予見する能力が未発達だから、園長らは自然災害を具体的に予見し園児を保護する注意義務があった」と判断した。その上で「園長は津波警報が発令されているかどうかなどの情報を積極的に収集する義務があったのに怠った」と注意義務違反を認め、「その結果、高台にある幼稚園から海側の低地帯に出発させて被災を招いた」と結論づけた。
 判決などによると、園長は震災発生後、園児をバスで帰宅させるよう職員に指示。バスは海抜23メートルの高台にあった園から低地の海沿いに向かった。その後、津波にのまれ、園児5人と女性職員1人が死亡。運転手は車外に押し流されたが無事だった。(日経新聞)
 以上が、事件・判決の概要である。この判決に対し、私は次の点で、反対である。
 第1に、事実関係の認定について。「バスは海抜23メートルの高台にあった園から低地の海沿いに向かった」とされるが、この認定が事実だとしても、その時の自然的、状況的な実情をどう判断したのか、判決では考慮されていない。親元に早く返したいという園長の判断や、現実に運転した運転手だってあの異常事態において気が動転していての決断だったと思う。注意義務を怠ったなどといえるのか。異常時で重要なのは平時の判断に戻れ、というのがある。園長が親元へと判断したことは平時に戻れということだろう。この判断に過失があるとは思えない。現場に立ち会ったわけではないが、あの未曾有の自然災害の中で、園児を乗せたバスの運行についての是非を法的な正邪として問うことが果たしてできるのだろうか、全くの疑問である。
 第2に、判定の基準になっているのは、近代法の判例からであろう。近代以前、例えば鎌倉や江戸期だったら、現行法規は当然適用できない。今回のような極端な自然災害下では、それと同じで、近代法が適用できる範囲を超えているはずである。現行法の適用は近代社会や現代社会において平時であるという限定のうえに乗っかっているはずである。だから場合によっては、権力者は超法規的処置とか非常事態宣言とかを執行するのである。この判事は、自分の判断がどの範囲内で有効なのか、まったく理解していないと言わざるをえない。
 第3に、被害者、特に幼い子どもの犠牲ということに過度におもねっているということである。
危険を予見する能力のない園児、という表現というのはいらぬ判定である。危険を予見できないのは、園児だけでなく誰でもそうであった。だから園長は帰宅を急がせたのであろう。子供を失った親の心情に思いを寄せたくはなるが、子供や親という立場を斟酌しすぎて論理的な判断を揺るがせにするのは、全くの思考の退嬰である。そして、その判定の中に倫理的な仮面をかぶった思想があったとすれば、それほど危険なものはない。
 では、この問題に対するお前自身の判定はどうなのだ、と問われれば………もちろん私は法律の専門家ではないのだが、そのことを留保したとして、私ならば、訴えた訴状については、事実認定は行うが、刑罰については〈不能〉としか、判定しようがないのではないかと思う。つまり現行法を超えているので、第三者を仲介して双方で話し合い、納得しあうよりしようがないのではないか、ということである。
 巨大な自然災害の前では、すべての事柄は、国家=法の規範を超えるのだ、ということは厳然としている。【彬】2013/9/28

 現代は法治国家だが、法の支配が貫徹するのは、自ずと範囲があろう。いくら罪悪的とはいえ、人の気持ちや考えを罰することはできないのだ。それと同じに、大災害など、異常事態に直面した場合、人助をしなかったからといって、法的に問うことが正しいことなのか。
 原発問題を含め、東北大震災は、私たちに本質的な課題をなげかけている。【彬】

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錦秋の会津

2016年10月26日 | 日記

 この、10月21日から23日、福島県の会津地方の旅行をした。

 この時期は紅葉が真っ盛り。自然の美しさを求め、五色沼の一つ毘沙門沼周辺の散策へ。コバルト色の沼に紅葉が映える。スキー場グランデコリゾートへ。ゴンドラから眺める錦秋のパノラマには息を飲む。会津の象徴、磐梯山は表も裏も遠方から眺める。そして、国の天然記念物、「塔のへつり」へ。「へつり」とは会津の方言で断崖のこと。川や風雨で浸食された奇岩が見られる。そして、まえまえから訪れたいと思っていた、大内宿へ。江戸時代に、会津若松と日光を結ぶ会津西街道の宿場町。茅葺の家並みがその時代へタイムスリップさせてくれる。等々

 さて、今回の旅行は誘われて参加したもの。僕の義理の姉の実家が会津にあり、毎年のように親兄弟姉妹が集まり旅行をしている。そこに僕が加わったもの。1歳から95歳までの、総勢13名。半数は、僕のように東京からだ。赤ん坊、幼児、高齢者、それぞれペースが違う。行動を共にする中、予期されないさまざまなことに出あう。それをうまく進めていく。そこに団体、家族旅行の楽しさがある。

 NHKの番組で、普段遠くに離れて暮らす親戚が、何かのイベントで集合するのを紹介する番組が、時折ある。僕の記憶に、年一度、親戚だけの野球大会のために集合する、というのがあり、いいものだなー、と思っていた。

 今回の旅行もそんな気持ちにさせてくれるものがあった。

 絵はグランデコリゾートのゴンドラからの眺め。

     2016年10月25日  岩下賢治

 

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大谷翔平君は凄い

2016年10月21日 | 日記

 日本シリーズが始まる前に書いておこうと思う。

 日本ハム・大谷翔平くんはとにかくすごい。193cm/92kg  の長身から投げ下ろす160キロ台のストレートがホームプレート前で、ぐっと伸びる。大リーガーでも、簡単に打てそうにない球である。

 また、バッターとしても群を抜いている。テレビの映像だが、空振りしたバットが空気を切り裂くように遠心力で円を描く。一流選手がコンパクトに振った時のバットスピードが、大谷の場合は大きく振っても同様な速さで振り抜かれる。こんなスイングで打たれたらボールはどこまで飛ぶかわからない。現に、今シーズン20本の本塁打は、球場の最深部に届いている。このスイングを目の当たりにしたら、ピッチャーは慄くだろう。

 で、思うのだが大谷くんは2世でも3世でもない点が驚きである。純粋な日本人(岩手県出身)で、これほどまで身長があり、手足が長く、しかも運動能力に長けた人(足も速い)が、生まれているということだ。両親については詳らかではないが、つまり栄養がよく、適した環境があれば、人間はこうした変化が可能だということである。

 とかく日本人は体格に劣り、云々といった憶測はもうすぐ忘れ去られるに違いない。次から次へと大谷くんを継ぐ人がでてくるような気がする。いま、大谷くんの勇姿を見逃すべきではない。【彬】

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山里の秋とアケビ

2016年10月12日 | 日記

 10月10日の体育の日。涼しくなったので玉川上水沿いをランニングした。道沿いの木々や草花に秋を感じる。秋という季節、東京生まれの僕でも山里への郷愁のようなものを感じる。そして、走りながら、頭の中には、蔓から下がるアケビの実が浮かんでくる。

 13年間暮らした茨城が、第二の故郷のようなのだ。当地の山里をランニングするコース沿いには、今の季節、アケビの実が豊かだ。住宅の垣根や塀越にもアケビの蔓が伸び、実を覗かせる。僕の頭には、山里の秋とアケビは対となって刻まれている。幼少の頃、絵本でアケビをみていたとき、大人からこんなことを言われた。「アケビというのはとても甘くておいしい果物なんだよ。でも、山の奥にあって人間の手が届かない。お猿さんしかたべることができないんだよ。」山奥の貴重な果物というイメージがインプットされたまま意識の底に沈んでいた。だから、茨城で普通に存在するアケビを見つけると、蔓ごと採ってきて、絵に描いたりしていた。僕に限らず、アケビは、秋をテーマとした絵のモチーフとさえることが多いようではあるが。

 東京でアケビを見ることはほとんど無い。スーパーで稀に見かける程度。

 先日、筑波山にハイキングに出かけ、地元産の野菜果物の売店にアケビの実が並んでいた。だがアケビは蔓に下がる風景が秋を感じさせてくれる。

 自分の住む小金井市は、自然が多く、散歩する時は、ありえないと思いながらも、どこかにアケビがないかと探してしまう。そんな時、先日、ある住宅の玄関先に、植木としての、アケビに酷似した植物を見つけた。葉の形状、実の形、大きさ、似てはいるが違うのだ。それは、今まで見たこともない、珍しい植物。家人に尋ねたいところだがそれも出来ない。本当はアケビを植木にしたいがそれが出来ぬのでその代わりとして植えているんじゃないか、というご主人の気持ちを想像する。僕と同じ嗜好をお持ちだな。そう思えてならない。

 絵は茨城のアケビを思い出し描いたもの。

    2016年10月12日  岩下賢治

 

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スポーツは新たなマルチ産業である

2016年10月05日 | 日記

 小池新東京知事ですが、似ていませんね。垂れ目、エクボが特徴なのですが。

 東京オリンピックを控え、会場の設営問題で、東京都は大揉めに揺れている。小池知事によると、豆腐屋さんのように一丁だ二丁だとか、兆を超える大金が湯水のように飛び交っているというのだ。数々の競技を運営するのだから、その費用も当然高騰するに違いない。

 昔、たまたま聞く機会があったのだが、IOC(JOCではない)の委員だった猪谷千春さんが次のように言っていた。オリンピックは競技種目が多すぎ、費用もかかりすぎて、将来、開催する受け入れ都市がなくなってくるのではないか、との懸念が委員会の共通した考えだと。さもありなむ。1964年の東京オリンピック(柔道を競技種目に押し入れた)以来で次と競技が増え、種目も圧倒的に増えた。

 それでも大会が円満に運営できたのは、小規模の競技でも、アマチュアリズムという王道の元に国家をあげて何としても運営してあげたいと考えたからだろう。

 今は、オリンピックは完全に商業化・興行化した。その放映権、開催時期など、興行的利益として多額な金銭が多重にまとわりついている。にもかかわらず、かつてのアマチュアリズムの思考が捨てきれずにプロ=アマの落差に戸惑っているのが、TOKYOをはじめ、開催地の動向のように思う。最高の施設を作り、気持ち良くプレーしていただき、世界中の観客にも満足してもらう、というのは、一種のアマチュアリズムである。プロなら、そんなことはしない。人気がなければ、ドサ回りである。

 私たちは、もっとプロという目を持ってオリンピックを見直したいと思う。プロというのは別言すれば産業として成り立つということである。商業化したオリンピックは各種競技それぞれの産業規模に応じて、ビジネスとして大会を開くべきだ。

 スポーツ産業というのは、大勢の観客のほか、その裾野にスポーツを「する」人が層をなしている。そして、健康増進という面から、あるいは用具産業として、そして有効なメディア的機能など多様なビジネス的機能を持っている。たとえば、それを有効に活用しているのが、ゴルフであり、サッカーであり、野球である。面白いことに、この3種はオリンピックにそれほど乗り気ではない。

 2020TOKYOも、施設や受け入れ体制を、ビジネス面から見直すべきだ。「おもてなし」などというのは、アマチュアリズムの残滓である。【彬】

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