ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

豊作の柿

2018年10月31日 | 日記

 鈴なりの次郎柿

 我が家の次郎柿が大豊作である。小さな木だが、数十個の実をつけ、しかも大粒。枝がしなっている。
 花のつく春先の晴天、そして雨が少なく、猛暑が続いた夏場の天候が、柿には絶好の生育環境だったようだ。我が家だけでなく、近くの空き地の渋柿なども、枝もたわわの状態。スーパーに並ぶ柿も豊作の実りを伝えていて、安価な上、粒ぞろいである。
 夏の暑さは果物には総じて良い影響を与えているようで、今年は、桃、ぶどうが美味しかった。ただ梨には雨不足が祟ったようで、店頭で並ぶ期間が短かった気がする。
 果物だけでなく、米や麦といった穀物にも、夏の暑さを歓迎のはずで、台風や大雨の影響がなければ、やはり大豊作だったのではないだろうか。
 ところで、作物はなぜ暑さを好むのだろうか。
 中尾佐助さんによると、多くの栽培作物の原生地は熱帯だそうだ。もともと暑い方がこれらの植物には最適なのだろう。しかし、昔の教科書には作物の南限、北限というのが、記載されていた。例えば、みかん、りんご、梨など。私が子供の時は、北海道ではお米がとれないとされていたものである。またある時、北海道の知人が、北海道では柿の木を見たことがないといったので、びっくりしたことがある。
 だから全てが熱帯ということではないだろうが、食料として人間を支えたのは、バナナやイモ類、それに穀物類も熱帯からの改良品らしい。
 とはいえ、私たちには今年の暑さには辟易した。人間には、涼しいところに住んで、作物は温室栽培で暑さを管理するというのが、理想のようだ。動物は清涼の地域が適しているのだろう。だから、都市の発達した地域は、緯度の高いところに点在することになる。寒さには対処できるが、暑さは対処できない、というのが動物の本性なのかもしれない。
 などと思いながら、小さいながらの庭先に果物が実るのはこの上もない幸せ感があるものである。【彬】

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矢面に立つ行政、あるいは行政の勇み足か

2018年10月20日 | 日記

 草むらでたわわに実った、ワルナスビ

 東京都の港区が児童相談所をはじめDV被害者を一時保護する母子生活支援施設などが入る「子ども家庭総合支援センターを総工費およそ100億円かけて建設することの地域説明会を開いたところ、これに反対する住民の荒だてた声がテレビで放映され、話題となっている。

 番組の様子を伝えるネットニュースの「しらべぇ」によると、住民の声は

「こういう子供の施設を造ろうとしていることに関しては賛成です。ただ表参道の超一等地に、あそこは完全な商業地なわけですよ。そこにそういうものを持ってきたとき「港区としての価値が下がるんじゃないかと思うんですね」

「全然青山じゃなくていいんじゃないですか?」

「田町とか広いところいっぱいあるじゃない」

とされる。

 私も偶然その番組を見ていたものだから、住民の苛立った怒号のような反対意見がちょっと異様に思えた。このテレビ放映への反響は、ほとんどが、住民の特権意識に対する揶揄であったり皮肉だったりで、当然かと思う。(ネット上では近くの不動産会社のやらせではないか、と噂されている)

 しかしながら、こういう説明会でなぜこのような反論や強い不満がでるのだろうか。説明会というのは本来決まったことを円滑に進めるために、近隣の要望などを聴くという会合のはずである。だから、こうした不満が出るというのは、建設に至るまでの議論の経緯がまったく住民に届いていないことを表している。

 該当する土地には、知り合いの画廊や、美術館などがあり、私は何回か行ったことがある。国道の青山通りから分岐する裏通りといった雰囲気で、いつの頃から骨董通りと命名され、小さなファッション店などが並ぶようになった、比較的新しい街路である。そのためか、歩道が狭く、散策するにはお勧めできない通りではある。

 テレビで紹介された住民の声を鵜呑みにすれば、確かに子どもの施設を作るのにはふさわしいとは言えない場所である。商業地だからではなく、また高級住宅街だからというわけではなく、なんというか、若者の街であり、子どもにとってはよそよそしい場所に思えるのである。交通は地下鉄の「表参道」を利用することになるだろうから、この混雑する場所を通って、この場所を利用するとなると、子どもにとっても親にとっても、好適地とは言えないだろうと思う。

 では、だれがこの地に建設の計画を立て予算措置をして承認されたのだろうか。提案したのは区長か、あるいは議員団か。が、いずれにせよ、この事案を議決したのは議会以外にない。

 今回のような紛糾の予想される事案であるならば、議決に至っ経緯を十分説明し、そのうえで説明をおこなうのが筋であろう。ひょっとすると議会で十分な議論のないままに行政的な見地から推進してしまったものなのか。

 私がもし青山の近隣住民であるとしたなら、おそらく苦情の先頭にたって同じようにまくし立てただろう。私自身、区内の小学校廃校をめぐり、その施設の後使用についての行政の措置に対し、強く反対した体験があるからである。後使用について議会でどんな議論があって、どう進行したのか。私の場合は、議員に直接尋ねもし、また行政不備についての説明を該当機関に問い合わせもした。しかし区からの回答は瑕疵はないとけんもほろろだった。

 今回の港区の問題、子ども事案だからとして、十分な議論が行われなかったのではないのか。

 こうした場所に巨額の費用をかけ、先進的な建物を建てるというからには、当然のことながら議会の議決を経ているはずである。議会ではどんな議論がなされてのであろうか。もし議会が問題視するようなことがあったならば、事前に関係者へのヒアリングが行われるはずだ。議会で十分な議論がされていれば、地域の説明会がこんなに混乱することはない。そんな疑念を持つ。

 地方自治については、議会の議論が伝わってこない。自治体広報が配られてくるが、これは議会の議論には一切触れず、予算やイベントなどを淡々と伝えるだけである。

 地方議会といえども議員は政治家である。議員は地方の利害の調整役でもある。こうした混乱が起こるのであれば、議員は全く政治をしていないことになる。そして、その分、執行者としての行政が住民の矢面に立つことになる。

 だが逆もある。行政が事業を進めるにあたって、政治を飛び越えているのではないか、という疑問。行政の役割は、条例や法令を遵守し、滞りなく実施することである。今回、行政が政治的な勇み足をしていることはなかったのか。

 政治の不備を行政が積極的に先取りし、差配する。そんな傾向が、昨今の文部省や財務省の不祥事などに見て取れる。行政の勇み足が、政治を歪めることなることを、私は心配している。【彬】

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この夏の読書(続き)

2018年10月15日 | 日記

 7月10日付けのブログ、「暑さを忘れる夏の読書」、の続きになります。

 7月初めから読み始めたアンドレ・ジッドの、la porte etroite (狭き門)を先日ようやく読み終わりました。高校生の頃から、翻訳で数回、2年前原文で一度読んでいますが、今回、作品をより深く味わおうとして予定より時間がかかりました。前にも書きましたが、昔から世界の文化を理解したいという思いがあり、その方法の一つに言葉の理解が必要ということで、8カ国をかじってきました。今回の読書も、フランス文化の勉強の一環という位置づけになります。La porte etroite のフランス語はかなり凝っていて、理解を助けるため、1923年に出版された山内義雄の翻訳で内容を確認していきました。当時、名訳とされジッドが日本に広まったそうです。また、英語国民はどう読んでいるかを知ろうと、1924年年に出版された、ジッドの友人でもある、英国人の Dorothy Bussy の英訳 strait is the gateを 参考にしました。結局、一つの作品・文化を、仏、日、英、の目から見ようとしたことになります。

 そして今思うことは?

①    言葉とその文化は対になっていて不可分。La porte etroit はフランス語により完全に成り立つ。山内義雄の、「狭き門」、は、氏本人による独立した作品。また、英訳では、フランス文化の香りがあまりしない。

②    言葉はその国の大切な文化。日本では、いま、小学校で英語教育が始まろうとしているが、まずは日本語をきちんと学ぶことが第一。英語を教える目的、方法をしっかりさせなければならない。

③    少し飛躍するが、どこの国の誰でも、自分の国の文化を大切にするのは当然のこと。グローバル化が進むとそれに比例するかのように、自国の文化を大切にしようという気持ちが強くなるだろう。グローバル化にあって、欧米の先進、成熟国で保護主義が強まるのはある程度は自然なこと。

  絵は、アリサの顔。前回の描き直し。参考にした小説のなかの文章で、releves 、という単語。山内氏の、離れた、という訳語を誤解して描いてしまった。平面から離れた、つまり、ほりの深い、という意味になる。 

       2018年10月14日  岩下賢治

 

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シイノミを食べる

2018年10月13日 | 日記

何回か前に使用した画像の再掲です。シイノミは、煎ると外皮が割れ、白い子房が現れます。

  用事で出かけたついでに、回り道をして役所の植込みの側を通った。すると、歩道のあちこちに、黒くツヤツヤしたシイノミが落ちている。台風の風に煽られたのかもしれないが、しかし完全に熟している。

 私は腰を屈めて、両手いっぱいに拾い集めた。そしてフライパンで煎って、晩酌のツマミとした。美味いものではないが、香ばしく仄かな甘みがある。
 同じように以前、シイノミを拾っていたら、通りがかった年配の女性が、何を拾っているのですか、何に使うのですか、食べられるのですか、と怪訝な様子。都会に育った人なのだろうか。シイノミを食べたことがないなんて!
 田舎で育ったせいではないが、私は道路側や公園、あるいは屋敷の庭に植えられた実のなるの木々や草花に興味がわく。例えば、グミ、ウメ、キイチゴ、ハナモモ、ビワ、オリーブ、ギンナン、カキなどなど。家内にも教えたものだから、夏の初めに公園から大量のクサイチゴを摘んできて、旨くもなんともないものだからジャムに煮込んでいた。
 シイノミを食べるのは、昔を懐しむからではない。栄養があるからでもない。ではなぜ食べるのかというと、野生に馴染むというのか、太古の祖先の記憶に触れるというのか、そういう感じである。また季節を感じるというのもその1つだろうか。
 植物学者で探検家でもある中尾佐助さんによると、アジアでは古くから、家の周りに実のなる木を植える風習があるという。「栽培植物と農耕の起源」(岩波新書)より。実のなるものに興味があるのは、そうした流れの中に生きているせいもあるかもしてない。
 私は花よりも実にに関心があるのだ。【彬】

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防風林のある家

2018年10月06日 | 日記

 先日の台風24号は大変な風であった。東京を通過した深夜、強風とともにキリキリ~、と金属をこすり合わせるような異音が不気味でなかなか眠ることができなかった。・・・何かが起きている。

 ランニングなどでよく訪れる、小金井公園、や、野川公園は、自分の庭のように思っているので、翌日ジョギングを兼ね様子を見に行った。枝が打ち払われ、幹が折られている。根こそぎ倒されている大木もあちこち。そしてフェンスが壊されている。倒木の極め付きは、直径1mほど、長さ(高さ)20mほどのヒマラヤスギの巨木が2本並んで根こそぎ倒されている。すぐ反対側には、電線が張られ、住宅が並ぶ。倒れた方向が逆であったら大変なことになっていた、とゾッとする。台風の風は恐ろしい、倒木は怖い、と思いながら帰宅する。木というのは風から家を守るものではなかったか?・・・防風林。昔、僕の生まれ育った東京郊外の大きな農家で見た記憶がある。 

 自分の住居のすぐ近くに、敷地100坪を少し超えるほどの土地の、半分を住宅に、もう半分を畑にしているお宅がある。家は木造平屋で歴史を感じさせる味のあるもの。年配のご主人が畑で春夏秋冬様々な野菜を作っている。柿木や、柚子もある。周囲は樹木の垣根が囲んでいるが、家の南側に沿うて、屋根を超えるほど高さの「防風林」を備えている。今度の台風でも「防風林」の役目を立派に果たしたのだろう。普段、僕はこの家の前を通るのが楽しみだ。何か素朴で懐かしさを感じる風景に癒される。

 世の中はドンドン変わっていく。そんな変わっていく中で、昔のままを続けている人がいる。この家のご主人は自分の生活を送っているだけだろう。そして僕のように、それを見てホッとしている者がいることが、これまた楽しいではないか。

 自分なりの生活をし、周りの人がそれは良いことだと思えること。僕自身もそんな風な生活をしたいな、と想うこともある。

 絵は近くの防風林のある家。個人的なものなので配慮して描きました。

 

      2018年10月6日  岩下賢治

 

 

 

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