ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

カミユ、「ペスト」再び

2023年05月29日 | 日記

 コロナも第五類に移行し、安心感が広がる。この3年ほど中止されていた集まりなど再開される動きあり。懐かしい顔を見る。

 コロナをきっかけに、3年前、カミユのペスト「La peste」を読んだ。もとより、関心があったわけではなく、コロナが背景で、国内外でよく読まれているからそれでは僕も、ということだった。苦労して。フランス語で読み通したが、もう手にすることはないと思っていた。だが、この度、辛い時期を改めて懐かしむような思いで、ページをめくってみる。すると、自然にそのまま進んでいった。キビシイ内容の作品だが、引き付けるものがある。

 物語は医師のリユウ「Rieux」氏が診察室を出たところで死んだネズミにつまずくことから始まる。内容は承知のうえだか、どのような展開となるのか、初めて読むときのような、ドキドキするものがある。文章表現は難しく、密林をかき分け進むようなところもあるが、もはや義務感はなく、のんびりいこう。

 194*年のアルジェリアのオラン市。癖のあるフランス語。再び、異次元の世界の旅を楽しみたい。

  2023年5月29日   岩下賢治

 

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私はガリ版印刷を使った

2023年05月21日 | 日記

          アップルセージ

 私は70代の老人、若い頃、プリントと言えばガリ版印刷だった。寄合の日時や行事の知らせに、よく使われた。
 ガリ版というのは、油紙に文字を書き込み、それを謄写版というバネ式の網に貼り、その上からインクを押し付けてプリントする小型の手動式装置である。油紙に文字を書くとき、鉄のヤスリ板を下敷にする。その上を鉄筆で手書きする。慣れないと鉄筆が横に滑ったりして、紙に書くのとは全く違う。達筆だからと行って、うまく書けるものではない。仕事を請け負う筆耕という職人がいたものである。
 このガリ版という技術、当時は大変な発明で、今まで口頭で伝えていた物事が、記録として残るものとなった。今風に言えばコニュニケーション革命に等しい。ヨーロッパをはじめ、公共性という概念はグーテンベルグの活版プリント技術の発展と連動している。聖職者しか触れられなかった聖書が文字を読める人にも伝えることができるようになったのである。
 その後の印刷革命の進展は著しいものがり、今はパソコンに繋がれた家庭用プリンターに達しているのはご存知の通り。ここで問題になるのは、逆にプリントの信頼性ということ。今、新聞、出版など、印刷コミュニケーションの衰退が顕著である。印刷というのが、信頼性を保持できなくなっているのである。
 プリントが上意下達のメディア=コミュニケーションだったからだと思う。それだけに使用にあたっては十全な思想と配慮が必要であった。日本では悪名高い新聞紙条例、出版法という法律があり、昔はことごとく検閲されたのも、プリントが持つ役割の大きさを表している。
 一方、映像についてはどうか。
 テレビも視聴率は大幅に下がっている。私が若かったころは、NHKの紅白は視聴率が80%を超えたいた。今では2-〜30%前後である。映像メディアも衰退の一途である。では映像コミュニケーションとは何か。
 端的に言えば、映像は風俗を伝承するのに最適なメディアである。アメリカがテレビを開発したキッカケは、軍人の養成のためだった。多様な人種の合衆国から軍人を集め、教育するのに、映像ほど有用なメディアはなかったのである。
 今テレビはワイドショウ全盛だが、ワイドショウこそ風俗を伝承する場である。
 が、そうした映像媒体も、今ではネット通信にやユーチューブなどのネットチャンネルに凌駕され、衰退している。ひと昔まで、マス・コミュニケーションの問題は情報の一方通行だったが、ネットメディアの発展によって、相互通行が可能になった。メディア・ミックスの進展が今後どういうふうに進むのか。またCHAT・AIの登場など、この分野はSF的世界になっている。
 振り返るに、メディアはこの50年ほどの間に、想像を絶する発展を遂げている。【彬】

 

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五月晴れ、新緑の中のウオーキング。

2023年05月19日 | 日記

 この3週間ほど、事情があり、きちんとしたウオーキング練習が出来ていなかった。

 素晴らしいこの五月晴れの今日、野川沿いの、武蔵野、野川公園などを巡り大いに歩いた。当初から、いろいろなことに出会いそうな予感はしていたが。

・はけの森美術館近くのいつもの場所に、八重のドクダミを見る。昨年、すっかり除草されてしまい今年はないだろうと思っていたが、しっかり再生している。「雑草は強し」。

 いや、この「雑草」という言い方は、よろしくないな。

・野川沿いに桑の木が並ぶ。そして、その実を盛んに摘んでいる女性あり。ジャムにするのでいつもこの時期につんでいるのだという。つられて僕も、小粒であるが熟しているのを、口にすると、甘酸っぱく旨い。はるか昔の記憶がよみがえってくる。

・三鷹市の大沢の田んぼ。代掻きに備え、水を引き込んでいる。その背後にはハケ(国分寺崖線)の斜面。ハケから流れる水がワサビをそだて、水芭蕉の花が眼を惹く。

・気分がいいので、調布の飛行場まで脚を伸ばす。飛行場を一望できる丘の上のベンチで休憩する。隣のベンチには、美形の若い男女が座って、何か話をしていると思ったら、その前にビデオカメラ。何かの撮影だろうと、しばらく、耳をすましていたが、ハングル交じりの台詞から、全体がつかめない。・・・まあ、今日の天気のように爽やかな風景ではある。

・野川公園の一番大きな広場では、大集団での幼稚園生のピクニックと運動会。周囲には、ホロ付き自転車がずらーっと並ぶ。集団から離れ、別の遊びを見つける子もいて、大人は大変だな。

 今日は、久しぶりのウオーキング。しばらく、すっきりしない天気が続いたが、この素晴らし五月晴れと新緑を満喫でき帳消しにしてくれた。

   2023年5月17日   岩下賢治

 

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弱者探しの風潮

2023年05月18日 | 日記

            カーネーション

 LGBT=性差別の禁止などという法律が成立しそうだ。このブログで、以前、この動きについて、ファッションではないか、と述べたことがあるが、法律となるとそんな冗談ごとではなくなってくる。成立に向けて、アメリカ大使までデモに加わってメッセージを発していることが伝えられている。そんなに重要な案件なのか。
 法律の趣旨は、男なのに女だと(思って)いる、いわゆる性同一性障害の人を差別するな、ということ。あるいは逆に女なのに男だと思っている人も指すことである。そういう人が同性同士で結婚することを認めよ、という運動である。
 こうした特殊な性意識を持つ人は何人くらいいるのだろうか。私の身の回りからみて、ほんの少数だと思う。そんな少数の弱者を差別するな、差別したら罰則を加えるというのである。趣旨は違うが、家族から虐待を受けて、性産業に依拠せざるを得ない少数の若い女性を救済するという運動=colaboなどという団体もある。いずれも少数者の救済にテーマを見出している。
 これら、性をめぐる問題は、なんだか世の中の〈弱者探し〉のようにも見える。当人達は本当はそっとしておいてもらいたいのではないのか。
 弱者の救済といえば絶対正義の立場をとれる、と考えているのだろう。それが社会運動の表に立っている。しかし弱者といえど、かつての癩病の患者のように、社会そのものが疎外していた問題とは違うように思う。結核についても同じような側面があった。そうした問題の解決方法と、今の性差別の問題は根本的に違うように思う。
 LBGT運動は少数の弱者を無理やり表に引っ張り出す、主客が転倒した社会運動のように思う。弱者の名を借りた目立ち屋の運動である。私はもちろん法案に反対である。【彬】

 

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誰もが戦争犯罪人を裁けない

2023年05月13日 | 日記

            黄色のツルバラ

 ウクライナ・ロシア戦争の行方が気になる。短期で決着がつくかと思ったものが、今では長期にわたって続くのではないか、との予想がおおかたの専門家から出てきている。
 戦争が長引けば、長引くほど被害は大きくなり、収拾が付け難くなる。それなのに、なぜ長引くことになるのか。おそらく両国とも全面戦争に踏み切れないからなのであろう。ウクライナは当初から防戦のみで、国境を超える意思はない。ロシアにしろ、ヨーロッパ諸国のバックアップがある状況下では、全面戦争には踏み込めない。特に最後の切り札である核爆弾を全面に押し出すことはできそうもない。
 そうした中、戦争犯罪は次々と勃発する。敵国を犯罪人として告発し、開戦したのだから、兵士たちの戦闘は敵国を壊滅する以外に方途はない。民間組織であるワグネルなど、市民をさえ殺戮し、犯罪を繰り返している。そもそも民間組織が武力を組織し、独自に武力攻撃をするなど、通常では考えられない。ところが戦時状況ではなんでもが許されるのだ。
 では、戦争そのもの、つまり戦争を指揮する責任者を裁くことはできないのか。その人物を裁けなければ、戦争は永遠に続き、犯罪は積み重ねられる。
 私はプーチンのことを言っている。ロシアという国家主権を代表しているから他国が連合しても裁けないのだろうか。
 第二次大戦では日本とドイツが、戦争犯罪人として裁かれた。敗戦国だったからである。敗北ではなく、休戦状態では裁くことはできない。最近では、イラク=サダムフセイン、リビア=カダフィ、ルーマニア=チャウシエスクなどの大統領は、裁判にかけられずに、直接殺害された。ロシアも同じ道を歩むのだろうか。
 戦争を、戦争責任者を裁けないのは、なぜなのか。国家という防壁があるからなのだろうか。問題なのはその国家という代物である。ロシアの前身であるソ連は国家を否定することで世界制覇に撃ってでた。そのインタナショナリズムが逆に国家という代物を強化した。平和な時代には影に隠れているが、国家を制御することこそ現代の難問である。
 国家の犯罪は、これを裁けるのはその国の国民だけなのかもしれない。とすると、国家の犯罪を裁けない国は、国民自身に責任があるとも言える。
 さて、今回のG7の広島開催、これは国家の強化にほかならない。明らかにウクライナ・ロシア問題の陰影部にあたる。【彬】

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