ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

蝉が鳴かない

2022年07月28日 | 日記

                  ホタルブクロ

 こんなにも暑いのに夏の象徴とも言える蝉のたぎりきった鳴き声が聞こえない。いくつか脱殻を見つけたから、蝉はいることいるのだが、途切れ途切れの鳴き声も弱々しく響くだけである。
 私が初鳴きを聞いたのは、7月21日、弱々しいミンミンゼミだった。普通だとニイニイゼミが最初で、次にアブラゼミ、ミンミンゼミと続くはずだが、アブラゼミは依然として聴こえてこない。
 地中に何かが起こっているのだろうか。
 昆虫の専門家である小松貴さんは、
「セミに限らず、昆虫が成長するためには温度の積み重ねが必要なんです。これを有効積算温度といいます。昆虫は変温動物ですから、外気温の変化に左右されるんですね。種によってその有効積算温度は違いますが、幼虫やサナギから羽化するまで、トータルで一定の温度を積み重ねなければ成虫になれない。しかも有効温度帯というのもあって、極端に寒かったり、逆に暑かったりすると、それはカウントされないんです。今年の春先は例年にも増して寒かったですから、急に暑くなったとはいえ、数日間の気温の急上昇では間に合わない」(デーリー新潮)
 地中の温度が揺れ動いていて、変温動物が活動する条件が整っていないのではないか、と言うのです。変温動物は環境の温度が一定の温度に治まっていないと活動しないそうで、あまりの高温や低温の中では、その温度を切り捨てるそうだ。だから彼らは急に暑くなっても、活動する適温と感じないのだろう。
 蝉は暑いのは大好きなのか、と思っていたのだが、そうではないらしい。
 大気の温度も異常だが、地中の温度も不安定なのだろう。変温動物にとっては大義だ。
 そうこう思っていると、先週末にはヒグラシの鳴くのを聞いた。もっとびっくりなのは晩夏を知らせるはずのツクツクボーシの鳴き声を聞いた時だ。まだアブラゼミは鳴いていないのに。
 地中を含め、大気はひどく流動的のようである。【彬】

 

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この夏の読書

2022年07月26日 | 日記

 毎年、夏の時期には、なるべく読書に時間を充てるようにしている。自然に手にした本は、la porte etroite 。アンドレ・ジッドの「狭き門」。

 確か、初めて読んだのが、高校生の夏休みだった。その時、心洗われる感動を覚え、外国にはこういう小説があるのかと思った記憶がある。大学生になってから、趣味でフランス語の勉強をしてきたが、ずいぶん時間がたってからだが、La porte etroite を2度ほど読んでいる。

 今回は、高校生の頃から、今の自分に至る道のりを改めて振り返って見てみようという気持ちもある。古典的名作を読むと受け取るものはそのたびにあたらしいものが加わっていくものだろう。・・・実際は小説の内容からというよりフランス語の知識がほとんどだろうが。

 絵は、1章の終わり辺り。不誠実な主人公の叔母が失踪した後、縁者が教会に集まる。牧師から受ける説教の冒頭はキリストの言葉:

 Efforcez-vous d’entrer par la porte etroite,car la porte large et chemin spacieux menent a la perdition, et nombreux sont ceux qui y passent; mais etroite est la porte et resserree la voie qui conduisent a la vie, et il en est peu qui les trouvent.

 汝、力を尽くし狭き門より入れ、大きな門、広き道は滅亡に続く。そして、そこを通る者多し。だが、狭き門は生命へ続く道を細め、これを見出すもの少なし。

 ここで、主人公,ジェロームは叔母の義理の娘、アリサへの憐憫と愛情に押され、ともに狭き門に入ろう、と独りで心に誓うのだが・・・・。

    2022年7月25日  岩下賢治

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安倍国葬問題について

2022年07月23日 | 日記

             ハイビスカス

 安倍晋三元首相が凶弾に斃れて、国葬にするという内閣の方針に異議を唱える議論が目につく。また、これに加え、訴訟を起こしているグループがいる。安倍元首相のように数々の問題を起こした人を多額の費用をかけて国葬にするというのは、思想の自由に反するし、政教分離の原則に反するというのが主たる理由である。
 私は国葬に賛成なのだが、これらの異議申し立ては、国家と宗教との関係について、大きなテーマを含んでいるので、識者と言われている人、あるいは政治家の諸氏には、これを蔑ろにせず、本格的に論じ合うべきだと思う。
 問題は安倍晋三という毀誉褒貶のある政治家云々についての諸事情に関しては、触れないことが大原則である。安倍だからダメというのでは、元も子もない。そもそも議論が成り立たない。
 国葬については、西欧でも、政治家が対象になった葬儀が行われている。イギリス然りアメリカ然りである。しかもイギリスの場合は、キリスト教が国教会として位置づけられていて、いわゆる政教分離とはなっていない。ドイツなどでは、キリスト教を名乗る政党から首相が輩出されている。西欧に限らず、イスラムや東南アジア諸国も同様である。ロシアはロシア正教が再興していて、中国では逆に民間の宗教さえ禁止している。国家と宗教の関係は多様だと言っていい。日本では信教の自由が保障され、政教分離が確固として成り立っている。話題の統一教会やオウム教でも、自由な宗教活動は保障されている。政治との関係では、創価学会という宗教団体が政治活動を行うことが問題視され、宗教とは分離した、公明党という団体として公認されている。
 こうしてみると、日本の政教分離は世界の中でも優れて実効性を確立していると言って良い。
 そうした中での今回の国葬問題。これを開催すること何ら問題はない。安倍氏が統一教会に絡んでいるなど、ちっとも問題ではない。私は、法律によって国葬を儀典化すべきではないかと考える。葬儀は厳粛な儀式だから、宗教が介在するのは当たり前である。どこの国、どこの地方に行っても、葬儀は宗教性を持つ。だから、これを国家の儀典として行うことで、できるだけ宗教性を薄めるのである。勲章や表彰と同じように、国家国民に多大な寄与をした人を顕彰する儀典とするのである。そして国葬された人は、国立の墓地を作り、そこに埋葬することとする。
 国家と宗教の関わり方は、下手に介在すると、戦前の国家神道の問題になるし、靖国問題にもなりかなない。国家の儀典として明確にすることによって、イデオロギーとか、他国からの因縁も防げる。
 安倍晋三の政治的は功績や失態を問うのなら、その機会はいくらでもある。安倍氏のような大きな政治家の葬儀のあり方云々で問うべき問題ではない。【彬】

 

 

 

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プーチンは裁かれるべき

2022年07月18日 | 日記

                     ヤマユリ

 他国を侵略することは犯罪である。武力で相手方の国民を殺害し、その国の権益や財産を丸ごと収奪すること、全く許されることではない犯罪である。ところが、これを国家という名のもとで行うと、たとえ公然と大規模に相手を陵辱していても、これを直接罰することができないのが現状である。これを実際に行っていても、周囲はただ手をこまねいて、情勢を見守るという状況が現に生じている。
 もちろんロシアのプーチンのことを言っている。個人では許されないことを、国家、それも強大国が行えば、認められるのだろうか。この現在進行中の悪事の前にして、何も手出しできないもどかしさに私たちの頭は混乱している。
 なぜ手出しができないのか、と言えば、それは強大な武力を持っているからである。あるいは他国に対しては介入をしないという、内政不干渉の原則があるからなのか。
 争いのない平和、人権が保障されるのが現代社会の普遍的な価値だと口先ではいうものの、現実には武力による支配と強圧を認めないわけにはいかないのか。国家という不可解なものに為政者が隠れ、その権力者として勝手な振る舞いをすること、特にロシアで赤裸々になっている。
 プーチンは裁かれるべきだ。
 もし、このことが実行できなければ、人間社会のあらゆる有徳、生活のあるべき理念は崩壊する。  NATOを含め、国際社会は、現在の国際司法裁判所を一歩先に進め、新たな裁判所を設置して、公然と公判に付すべきだ。被告人不在でも良いから。
 かつて私達日本は東京裁判という裁判にかけられた。ドイツはニュルンベルグ裁判にかけられた。敗戦国だったからである。その中で戦後の様々な人権制度ができあがってきた。こうした裁判は戦勝国でしか行えないのだろうか。
 そもそも国連こそ、その役割を果たすように組織されたはずであった。今でもその役割を果たすことができるはずである。その裁判、実質的に無為無能であっても、形式的でもいいから裁判として実現すべきである。それが次世代に繋がっていくのだと思う。【彬】

 

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暑いのは湿度のせい

2022年07月15日 | 日記

           アサガオ

 いわゆる温暖化なのか、年々、夏が暑くなっているように思う。今年は30度を越す真夏日が夏本番前に連続して記録するほど。しかも湿度が異常に高いように思う。
 昨年も暑かった記憶がある。調べれば簡単なことだが、記憶を追う方が、環境に関しては正鵠を得るような気がするので、想い起こしたい。そして思い出すのだが、去年の夏の最盛期には湿度が低く、夜になると急に涼しく感じられて、何か高原に行ったような気がしたものだ。ところが今年の暑さは湿度が高く、暑さが堪える。
 湿度が高いとなぜ暑く感じるのだろうか。
 料理やお風呂を見れば想像がつくのだが、熱は蒸気=湯気によって放出される。そのまま温度が下がるのではなく、湯気となって熱が放出され、下がるのである。蒸気は気温に関係なく湿度との関係で放出される。だからマイナス下でも乾燥していればどんどん気温は下がる。
 人が暑く感ずるのは人体から蒸気が発散しにく時だ。周囲の湿度が高ければ蒸気は発散しにくくなり、代謝で生じる熱が体内にこもる。だからそれほど温度が高くなくとも熱中症が発症するのである。
 と、ここまでが中学の科学である。
 そこでだが、現在市販されているエアコンの除湿能力をもっと高めてもらいたいと思うのである。除湿の方法は空気に高熱を加え、湿気を取る方法が採用されているようだが、もっと効果的な方法があるはず。
 温度を下げて暑さを避けるのではなく、湿度を下げて暑さを防ぐのである。そして室温が30℃くらいでも快適に過ごせるようにする。そのためには多くの電力を必要とするだろうが、節電ではなく電力はふんだんに使いたいものだ。それが文明というものだ。【彬】

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