ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

僕と赤毛のアン

2014年04月29日 | 日記

 

 4月も半ばを過ぎると、野山は萌葱色に変わり新緑の季節を迎える。

 茨城県の常陸大宮市に住む僕は、車通勤をしている。街中から山の中にある勤務地まで、17キロほどの道のりを「新緑のこの景色は青春の色だな……」などと思いながら愛車を走らせる。

 今、青春といえばNHKの朝ドラマ「花子とアン」が浮かんでくる。僕は「赤毛のアン」の物語が好きなのだ。

 ドラマの主人公の花子は日本で最初に「赤毛のアン」を翻訳、紹介した村岡花子をモデルにしているようだが、ドラマの花子の境遇は原作のアンの境遇に似ている。11歳のとき、縁あり山梨の村を離れ東京の学校に通うようになり自分の道を開いていく。村岡は「赤毛のアン」の原作に自分自身を見い出し翻訳を決めたのかもしれない。

 僕は「赤毛のアン」の物語の神髄は縁ある出会いと思っている。

 二人だけで暮らす初老の男女の兄妹が、孤児園に男の子の養子を求めたが、手違いで赤毛の女の子が現れた。断ろうと迷ったりしたが、これも神のお導きだと受け入れた。その後は皆さんよく知るとおり、アンは兄妹の助けを受けクィーン学院に入学、立派な成績を修め自分自身の道を開いていく。

 話はとぶが、今の僕の車について。

 今の車は3年前に購入した中古のクラウンだが、気に入ったものが見つからず妥協して入手したもの。ところが昨年事故を起こしてしまった。修理を依頼したところ、大変高額になり、同じ程度の中古車の買換えを強く薦められた。しかし修理をすることにした。縁あり出会って、妥協して入手した車だが、愛着が涌き愛車になった訳だ。そのとき、「赤毛のアン」のアンと兄妹との出会いを思い出していた。たかが車のことで、なぜ文学の名作が? と思うだろうが、名作というのは読者の心の中に眠っていて意外な時にヒョッと目を覚ますものだろう。

 たくさんの名作が心にあれば、何かの折に再会する楽しみも多いということか。 4月25日 岩下賢治

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老老介護を制度として確立できないか

2014年04月20日 | 日記

絵は各地で花盛りのハナニラ

 4月11日、人口問題研究所が将来の家族や人口動向の予測を発表した。
 超高齢化社会を目前にして重要なデータが含まれているので、一部を紹介したい。
 ①高齢世帯が一般世帯に占める割合は全国では2010年の31.2%から25年後の2035年には40.8%へと上昇する。そして都会より地方のほうが上昇率が高くなる。つまり地方の過疎化が一層進むとともに、全国の半数の所帯で高齢者を抱えることになる。
 ②また、世帯主が75歳以上の世帯のうち、単独世帯が2011と2035年を比較すると全国では73.1%増加する。つまり独居老人の所帯が倍増するのである。
 ③さらに人口構成でみると、20年後の2035年で、65歳以上の人口がなんと50パーセントを超えるということが数値で示されている。
 こうした超高齢者社会の進展の中で老人介護の問題はいっそう深刻にならざるをえない。

 現在の社会保障制度は旧来からの家族制度の上に乗っかっている。だから老人の介護はできるだけ家族で行うことが健全とされており、その結果が老老介護という悲惨な現実が生まれているのは周知のことである。しかも寿命が伸びれば伸びるほど、これは深刻な問題となる。私たち高齢者にとっては他人事ではないのである。

 加えて現在の社会保障制度はほぼ破綻状況(大幅な赤字と加入者の減少)だから、この制度以外に、なにか抜本的な対策を工夫しなければと本気で思う。
 

 私が提案したいのは、老老介護の現状を逆手に取って、老人たちが老人施設を積極的に利用する事はできないかということである。たとえば一定の老齢に達したら、週に何回か、老人ホームのような施設で介護の仕事を手伝う。そして介護を受けることはどういうことかを実感する。介護の仕事を身近に感じることで介護を受ける側、支える側の様々な問題を、老人自身が理解するのに役立つはずだ。

 これは家族の介護ではない。朝から晩まで掛かり付けということではない。そしてこの活動は有給で、自身が介護を受ける側になった時の費用として積み立てられ、転用できるようにする。そうすることによって、施設の運営費は多少とも軽減化されるだろう。さらに入居者と外部の老人たちの交流が進められ、良質の施設になっていくはず……、と考えるのである。一部の自治体では、老人の生活や介護に若い人や子供を介在させ、地域として活性化を図ろうとする動きがあるようだが、不景気の時代に若い人は生活で手一杯である。そこにこういうアイディアであれば、若者の負担はいっそうの重くなる。 

 社会制度としては、老齢化・高齢化が進めば進むほど、若い人の負担を減らすことを考えなければいけないのである。【彬】

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満開の桜の花

2014年04月10日 | 日記

 この桜の季節、各地で花見が開かれている。今回は桜の花の美しさについて私の印象をお話しします。

 桜の花が最も美しいのは満開の散る直前。息をのむようである。私が桜の花が美しいと初めて感じたのは小学校の入学式で、満開の桜の下で記念写真を撮ったとき。うれしいというより、怖いような切なさに似た感覚だった。今でも満開の桜の下に立つとそのような感情、いや、むしろ妖しささえ感じることがある。何故そのような感覚になるのか? 

 次の二つの文学作品がこの不可解な感覚をよく表現しているように思う。

 ①梶井基次郎の「桜の下には」……何故あのように美しいのか、信じられずに不安でならなかった。だが、桜の下には動物たちの屍が埋まっていると想像したたいい。それから溶け出す水晶のような液体を桜は貪欲に吸い上げ花になっていく。そう思うことで、やっと安心して花見ができるようになる。

 ②坂口安吾の「桜の森の満開の下」……昔、江戸時代のより前のこと。ある山賊が鈴鹿峠付近を縄張りにして荒しまわっていた。怖いもの知らずだが、満開の桜の森の下だけは、狂気を感じ通るのを恐れていた。妖しいほど美しい女を奪い女房にして、都で暮らしていたが、男は冷酷な女のわがままに翻弄される。都から村に帰る途中、男は女を背負って満開の桜の木の下を通った。その時、女は鬼に変わっていた。男は思わず鬼を絞め殺したが女に戻っていた。そして女が消え、やがて男も消えていった。そこには桜の花びらだけが残されていた。

 私は花見では桜の花がただ「キレイ」とだけ感じるのは物足らないと思う。妖しく、背筋がゾクゾクする感覚がわいてきて本当に「楽しめる」のだろうと思う。

 桜の花見には風情はなくてもいい。怖いほどの美しさの下では、皆で車座になり大いに騒ぐのがいい。こうして昔からみんなで楽しんできた。宴の後、花はハラハラと散っていく。その潔さに人は心を奪われる。    4月7日 岩下賢治

 

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