ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

地方に医療都市を

2021年04月27日 | 日記

 ヒメウツギ 相変わらず下手な絵です。

 私は都心に住んでいるが、周囲にはいろいろな病院がたくさんある。大学の総合病院、外科病院、内科病院、産婦人科、歯科、眼科、鍼灸医院、諸々。人口が多いからそれだけ医療の需要があるのだろう。
 加えて、最近は高価な高齢者向けの有料老人ホームが建設されている。月50〜60万円とか、想像もつかない金額だ。これも需要があるのだろう。
 いっとき、地方へのUターンが盛んで、私の友人は「田舎暮らし」を薦める図書を出版していたりしていた。ところが今や逆で、なんでもかんでも都心、という感じになっている。前に紹介したが、少子化で学校の廃校が相次いだが、今や児童数が増え、公立小中学の学級がパンクするのではないか、と懸念されている。いわゆる都心回帰、こうした傾向をどう理解したら良いのだろうか。
 思うに、SNSなどを踏まえた、超現代に向けての胎動なのだろうか。都市を中心とした新たな社会制度、生活様式がおぼろげながら見えてきているようにも思える。経済学者・社会学者の出番だと思う。
 しかし私はこうした都心回帰とは別の、逆の方向を考える。地方の役割が増す時代だと思うのだ。もちろん、今もてはやされている持続可能化社会とか、グリーン革命とか、そんないかがわしい考えではない。
 超高齢化社会の中、多くの老人向けに、地方各地に本格的な総合病院が作られ、そこを中心とした医療都市ができるのではないか、と期待しているのである。私はそうした場所で老後を過ごしたい。家内は都心の自宅で死を迎えたいなどと言っているが、私はみどり豊かな地方都市の老人ホームや医療施設で死を迎えるのがいいと思う。できることなら、出身地の近くがいい。その地でこそ、自分の一生を見極めることができる感じがする。
 緊急事態宣言のもとで、都市では病院の逼迫が言われているが、ちょうど良い機会なので、この機に地方に病院及び関連の医療機関、そして介護施設を充実して欲しい。今日の通信技術・デジタル技術のもとなら、地方医院でも都会の最新治療は遠隔操作で自在に診療・施術を受けられるはずだ。そして病院ができればその関連の施設、例えば老人ホーム、健康センター、さらには墓地などが付随的に増えていき、そこが新たな医療都市=騒々しくはなく、落ち着いた都市に変身していくのではないだろうか。
 地方なら、費用も格段に安価だし、需要は多いと思う。動きの激しい都市はもともと老人には不向きな場所なのだ。地方の行政担当者の方、ぜひ病院誘致に取り組んでもらいたい。【彬】


 

 

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居酒屋・飲食店はなぜコロナ抑止の対象になるのか

2021年04月22日 | 日記

 満開のオオムラサキツツジ

 緊急事態宣言が再び発令(発出という用語の法的根拠がよく分からない)されそうである。
 不特定多数の人が集まる場所の使用禁止・抑制が要請されることになる。例えば居酒屋・飲食店、バチンコ店、スーパーマーケット、各種公演会場、スポーツジム、カラオケなどなど。
 ところで、こうした場所で実際に感染が起こっているのだろうか。
 ABEMAニュースによると、クラスターの発生場所は高齢者施設が40%、病院、家庭などが上位で、飲食店はほんのわずか2%とされている。信頼するにたるデータかどうか疑ったとしても、飲食店のクラスターはほんのわずかであることは確かだと思える。
 それなのに、なぜ、居酒屋・飲食店を狙い撃ちするのか。しかも仕切り板、手の消毒、人数を制限した座席、など細かな指示が出されている。そして密の回避とか言って、人数の多い会合を抑制している。口角泡を飛ばしている状況ならいざ知らず、集まっているからといって感染するわけではない。電車も同じで、乗車中に感染者が急増したなど、聞いたこともない。
 蜜といえば、一番の注意場所は集団生活を送っている例えば老人ホーム、合宿所など、そして家族や恋人同士だろう。それにテレビの撮影など集合体でしか仕事を成就できない場所。そういう肝心の場所には踏み込んでいかず、ただ人が集まると言うだけで規制するのは、人権や自由の抑制も甚だしい。
 感染対策を行っている専門家の皆さん、衛生に関する生活マナーとかだけでなく、少しは現実を見て、真剣に対策を打ち出して欲しい。
 私は前から指摘しているのだが、コロナにかかると言うのは、病気になるということである。この世界の中には無尽蔵の細菌が潜んでいて、癌をはじめいくつもの難病や軽い病気も細菌によって引き起こされている。そして多くの人たちが病気にかかる。コロナもその一つである。そうした病気の感染を全て予防することはできない。そのために必要なのが医学であり、治療である。医者はその役割を引き受けている。医者がなぜ予防ではなく、治療を中心にしているかといえば、予防によってすべての病気に対処することはできないからである。ヒトは地上に誕生以来、色々な細菌を利用し共存してきた。細菌を根絶することはできないのである。だから感染学者とはいえ、予防ではなく、治療の研究に専念して欲しい。予防のためのワクチンや人流を抑制することが問題ではなく、治療が核心なのである。国家はそのために治療装置・病院を充実すべきだ。
 近代医学は、予防の一つとしてワクチンを発明したが、私たちに今必要なのは治療方法なのである。医療関係者は、機関が逼迫しているとか言うだけでなく、現在のコロナ患者の治療にどんな手当てをしているのか、広く開示すべきだ。単に酸素吸入だけを行っていて、自然治癒を待っているだけなのか。あるいは感染拡大を防ぐ隔離のみをしているのか。もし、その程度の治療なら大騒ぎをする必要などさらさらない。
 もちろん今の治療方法はおおむね順調なのだろう。だから重傷者が少なく、死者も少ないのだろうと思う。その処置の仕方が明確になったのなら、私たちは安心できるし、そして緊急事態など不必要となる。例え感染者が万を越えようとも。
 いうまでもなく、緊急事態というのは、戦争に準ずるような一大事に対する対処であり、軽々に発すものではないし、そうした法的根拠は日本国憲法にはないことを重々承知しておくべきことである。【彬】

 

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ロシア仮想旅行、キジ島の木造教会

2021年04月20日 | 日記

 前回のモロッコのリヤードの続編になります。5月の展示会への絵。次はロシアの何かいい景色の絵でも描こう。今までのNHKテレビのロシア語講座の中に、題材を求めよう。・・・

 最近放映されたもので、サンクトペテルブルグの北東300kmにあるオネガ湖に浮かぶキジ島。島内に点在する、各地から移設された古い木造建築の紹介があった。島全体の建物が世界遺産に登録されている。その中で、二つの教会、プレオブラジェンスカヤ教会、と、ポクロスカヤ教会、そして、鐘楼がすばらしい。全て木材で作られ、釘は一本も使われていない。ロシア正教の教会の屋根はタマネギ形、または、ロウソクの炎の形が特徴。18世紀に建てられた木造の建物で、3つの建物は美しく隣接し配置されている。そして周囲は、広い草原と森が広がる。まさにロシア民話の世界。

 テレビの画像や、他の資料をもとにして、昔のロシアらしい風景の絵に仕上げたつもり。テレビで現地を撮影したのは、5月下旬、草原のなか黄色いタンポポが美しく映え、真っ青な空、画面からは爽やかな風が感じられる。絵を描くことで、美しい自然とロシア民話の世界へ迷い込み、仮想旅行を楽しむことが出来た。

 さて、5月の展示会の開催の有無は今不明だが、ともかく、最近は展示会がなければなかなか描かなくなっているので、絵を描くことそれ自体がよかったな。

 挿し絵は、テレビ番組の一場面のスケッチ。展示作品ではありません。

 手書きのロシア語を日本語にすると、

A.私たちは、プレオブラジェンスカヤ教会の前にいます。

B.ロシアにまだ木造建築の史跡が残っているなんて、とても面白いですね。

A.実際、プレオブラジェンスカヤ教会のような史跡はもうほとんど残っていません。これは非常に珍しい史跡なのです。

  2021年4月20日  岩下賢治

 

 

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金槌の使い方に思う

2021年04月12日 | 日記

 白のハナミズキ

 日曜大工とは言わずとも、どこのお家でも金槌はあるに違いない。金槌、こんな便利なものを私たちは何気なく使っているが、最近は大工さんでもを使わなくなった。釘打ちにはエアタッカーでブシュブシュと打ち込む。
 ところで、金槌をどういう風に使うとよく力が伝わるのかというのは、調べると相当高度な数式が必要になるようだ。ネット上には研究成果がアップされていて、数式に弱い私には手に負えないが、しかし使い方次第で金槌も力が分散して、非効率的になるのだということは理解できる。
 どういうふうに打ち下ろせば、釘に力が効率的に伝わるのか。
 基本は支点をどこに置くかということに尽きるのだろう。打点時のエネルギー量は、金槌の重さと打ち込む速さによって決まって来るが、実際にはどういう軌道を通るか、その際の支点がどこにあるかによって、力量は違ってくる。遠心力が加わるからである。
 紹介されている論文では、基本形として、座ってハンマーを振り下ろす時の力量が説明されている。これだと腰が座標軸の0位置に固定されるが、私たちが実際場面で使う金槌は椅子に座ってすることはない。中腰か、片膝をついてか、あるいは立ってと色々な場面がある。それに肘の動きとか、肩の動きが加わるから、座標軸を腰に置くことはほとんど意味がなくなる。
 力学的には支点の移動をつぶさに把握し、それを累計すれば、打点にかかる強度を測定できることになるが、、、?

 なんでこんなことを言うのかというと、ゴルフとか野球とかテニスとか、各種のボールスポーツの力学がここに集約できるからである。

 私は高校時代、野球をやっていた。バッティングについては、誰も教えてくれないし、見様見真似、先輩のアドバイスや流布している言い分などを参考にして、なんとかこなしていた。もちろんこなせはしないし、側から見れば酷いものだったと思う。
 力を込めて打ったボールは遠くへ飛ぶことはわかる。ところがある時、左で打ってみた。するとほとんど力を入れずに打ったボールが鋭くライナーで飛んでいったことに驚いた。その時は左右のバランスがよくない欠点が、左で打った時、偶然矯正されたのだと思ったが、その後もずっと府に落ちないままだった。今でも不思議だ。
 最近、ユウチューブで元プロ選手が色々技術的なアドバイスをしているのを見ることがあるが、なるほどと思う反面、どうもしっくりこない。何が問題なのか。結局力学的な説明がなされていないと言うことではないか、と思う。バットがボールに当たった瞬間、力学上、どのような力が伝わっているのか、ということが説明されていないのである。バットスイングは、金槌と違って肘と肩と腰の動き、それにバッター自身の回転運動が加わっている。その時の支点は複雑微妙に移動しているはずだ。それをどう活かすかという問題意識がないように思うのである。
 野球だけではない。ゴルフにしてもそうだ。テニスは動きながらのスイングだから余計複雑になる。指導者たちには、この力学をよく理解してもらいたいものである。
 実はボールゲームだけはない。私は今趣味でランニングを楽しんでいるのだが、このランニングのフォームも運動力学が関わっている。一般的にはストライド走法、ピッチ走法とに分けているが、基本は体を前に移動するために、いかに効率的に地面に力を伝えるか、が問題となる。この時も脚から体全体の支点をどこに置くかが最大の問題となる。移動している中での行為なので一筋縄ではいかないが、運動神経の発達した人はこの支点の捉え方が本能的に上手な人なのだと思う。
 でも理屈がはっきり理解できれば誰でも上手にできるようになるはずだ。そうした理解と指導がもっと浸透するといいように思う。スポーツマンに限らず、膝や肘、腰の痛みや故障はそうした理解でだいぶ防げるのではないのか。痛みを加齢によるせいと諦めずに、力学的な理解・指導によって、ある程度解決できそうな気がする。金槌なら誰でも上手に打てるのだから。【彬】

 

 

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モロッコのリヤード

2021年04月07日 | 日記

 毎年今頃は、自分所属する絵画愛好会が開く、5月の作品展示会の作品準備で少し悩まされる。4点を予定しているが、何を描いたらよいのやら。

 よくすることは、気に入った風景写真をネタに絵に置き換えてみることだ。そうすると描いているうちにその場にいるような気分になったりする。海外の風景なら、海外旅行をしているような錯覚に陥る。

 先日、NHKテレビのアラビア語講座で10年ほど前に録画した映像を見ていて、北アフリカのモロッコ編でのリヤードの紹介から、閃めくものがあった。

 マラケシュの旧市街には伝統的な住宅が多く残されているが、今はその多くがホテルとして再活用され、旅行客に大変人気だという。それらは全ての部屋が中庭を囲む形になっている。そのようなホテルをリヤードと呼ぶが「庭」という言葉の意味がある。エキゾチックで優雅な雰囲気で、泊まってみたいと思う。・・・それならば、その絵を描きながら異国情緒と優雅な気分に浸ってみようか、と安上がりのことをしてみた。

 録画映像をベースに様々な資料を集め、自分なりのリヤードを描いてみた。これが写真とは違ういいところだ。

 5月の展示会はコロナ禍で、開催は未定であるが、いろいろ風景画を描いて、架空の旅行でも楽しもうか。

 絵はテレビ講座の一場面。手書きのアラビア語を日本語に直すと、

  部屋は全て庭の周りにあります。私たちはこのような家を、リヤードと呼んでいます。それは、「庭」を意味します。

    2021年4月6日  岩下賢治

 

 

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