ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

リベラリズムから「徴兵制」の提言あり

2019年03月28日 | 日記

                                 ハナニラです。

 井上達夫さんの「リベラルは嫌いでもリベラリズムは嫌いにならないでください」(毎日新聞出版)という長ったらしいタイトルの本が気になって、発売後すぐ購入したのだが、長らく積読していた。
 パラパラとだが、ようやく読み終わったので、私として言うべきことは言って置きたいと思う

 井上さんは海外の知友も多く、法哲学者として独走しておられる方(東大教授)で、本書はインタビューの形をとって、自説をかなり大胆に述べていて、内容的にもわかりやすく説得的だと思う。

 要旨をかいつまで言えば、グローバル化(西欧・東洋だけでなく)した現代において、リベラリズムとして政治的な価値あるいは人権、正義というのはどう考えればよいのか、という問題だ。井上さんは言う。
 「リベラリズムとは何か。リベラリズムには二つの歴史的起源があります。「啓蒙」と「寛容」です。啓蒙主義というのは理性の重視ですね。理性によって蒙を啓く。因習や迷信を理性によって打破し、その抑圧から人間を解放する思想運動です。」
 そして、寛容というのはヨーロッパの宗教改革の後にでてくる宗教戦争を経ての棲み分けの経験からで、
「その経験から出てきたのが寛容です。宗教が違い、価値観が違っても、共存しましょう、という。この「啓蒙」の伝統と「寛容」の伝統が、リベラリズムの歴史的淵源だとういうことは、ほぼすべての研究者の共通了解です。」
 だが、冷戦時代までとは違い、今日のような政治的な価値が錯綜している状況では、啓蒙と寛容という指針は、価値の相対主義に陥りやすい。そこで、それを突破するために、正義という概念をもってくる。しかし単なる正義ではなく、グローバルな世界正義論、つまり世界中に通用する絶対的価値を措定する。例えば人権の絶対性、そうした正義を求める立場である。

 こうして展開された論の中で、もっとも気になるのは、「徴兵制」である。井上さんはいう。
 「もし戦力を保有すると決定をしたら、徴兵制でなければいけない、と。かつ、その徴兵制で、良心的兵役拒否を、認めなければいけない、と。‥それはなぜかというと、無責任な好戦感情に国民が侵されないようにするためです。‥
 徴兵制の採用は、軍事力をもつことを選択した民主国家の国民の責任である、と。自分たちが軍事力を無責任に濫用しないために、自分たちに課すシバリだ、とうことです。
 そして、徴兵は、絶対に無差別公平でなければいけない。富裕層だろうが、政治家の家族だろうが、徴兵逃れは絶対に許さない。」
 と述べている。 

 リベラリズムの原理からいえば、国家に軍隊がある限り、徴兵制は当然なのだろう。井上さんのほか、最近では三浦瑠麗さんもおなじようなことを述べているらしい。
 私はリベラリストではないが、こうした考えには基本的に反対である。なぜか。
 井上さんは国民と国家の関係をストレートに繋いで、国民は国家の一員であり、国民と国家は一体であると考えているように思う。だから軍事と言えども税金と同じように国民の義務となるのである。
 本当だろうか。確かに日本のような近代国家は国民国家とし、それまでの宗教国家や専制国家とも違い、主権は国民に属し、基本的人権も保障された国家体制となっている。国民=国家というわけだ。しかし国家というのは、主権者である私たちを代表する議員たちによって運営されようが、国家という実体を持った時、私たち個々の意識から分離し(疎外され)、共同の幻想として独立するものである。吉本隆明さん風に言えば、逆立する。その共同性は必ず個人の思いとは遠く隔てられるものだ。平時の選挙の投票率が50~60%だと言う現実がそれをよく表していよう。その国家が軍隊を維持する目的は、国家自体の自己運動以外にない。
 とは言え、国家は軍隊を必要する。たとえ、外国からの侵略がなくともである。そこで、三権の分立、そして軍隊のシビリアンコントロールというのは、この軍隊に対する歯止めとして設定されているわけだ。
 ならば君は軍隊は不要と言うのか、と問われよう。憲法9条至上主義者のように。
 私はそうとは考えない。国家が実体あるものとして機能するには(国家が廃止されない限り)、国家権力の行使を保障する、警察と同様の実行部隊が必要なのは明らかだからだ。
 とすれば、国家権力と国民を直接に繋ぐ考えを排除し、国家あるいは国家機能というものを国民の主権を委託する行政組織と明確にすべきなのである。行政の責任として国家は隊員を募集し、訓練する。そして国民はそうした軍事事業に失敗した際にはいつでも罷免し、軍隊を解散できる体制をとるべきである。統帥権も内閣だけではなく、三権の元に置くこと。軍隊は徴兵制を取ってはいけない。
 今日、国際政治状況からいえば、軍事面は縮小されつつある。だから国家の持つ軍事力は必要最小限であるべきだし、そしていつでも転用ができるように、余剰部分を強力な機動力を持つ災害救助隊として、別途かつ並列的に組織されるべきというのが私の考えだ。救助隊はいざという時の、重要なロジスティック(兵站部隊)になるのだ。
 現在、徴兵制を取っているのは韓国。スイス、オーストリア、フランスは最近廃止している。アメリカはベトナム戦争の時に、徴兵制を実施したが、現在は廃止している。【彬】

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春は名のみの風の寒さや

2019年03月25日 | 日記

 3月24日(日)素晴らしい快晴となり、早速、ランニングの練習に出た。コースは小金井公園を経て、東大和市の多摩湖折り返しの17~18km。ただ、最近は脚などの調子があまりよくなく、のんびりと、花見をしながら行こうか。

 日差しは春の明るさだが、吹く風寒く、調子が上がらない。息も苦しい。「春は名のみの風の寒さや」早春賦の一節が口をついて出てくる。花でも眺めていこうとするも、前日の冬の寒さで1~2分咲きというところ。

 多摩湖はいい湖だ。この日は、のんびりと景色をながめる。子供のころからの思い出がある。幼稚園児の時、今はないユネスコ村に遠足に来たことがある。オランダ風車の前で記念写真を撮った。高校生時代、隣の、狭山湖周回コースでの全校マラソン大会に参加して3位だったな。脚が元気だったころ(フル、サブスリー時代)は、よく今日のコースで練習にきていた。軽い練習にちょうどよかった。

 そして、今、10km以上はキツイものがあり、この多摩湖往復コースもそれなりの強い気持ちが必要だ。脚にトラブルを抱えるなど、ランニングに不利なものが身にまとわりつくようになってきている。無理をしないことが治す方法であるようなのだ。ゆっくり走ることを楽しむ。そして、自然に春がくるのを待つ。それは、明日かもしれない。だが、春は名のみの、風の寒さや・・・。そんな日が続く。

   絵は多摩湖

   2019年3月25日  岩下賢治

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道路の進化が必要

2019年03月16日 | 日記

     モクレンが咲き始めました。

 ハイブリッド車や電気自動車など、エンジン進化は著しいが、反面、道路の改善は進んでいないように見える。私は車の運転はしないから、歩行者として車交通の現状に思うことがいくつかある。
 問題は依然として騒音と粉塵・煤煙である。しかしその原因はエンジンにあるのではなく、道路とタイヤにあるように思う。
 私は昔、悪名名高い環状7号線の沿線に住み、勤めていたことがあるのだが、ポリ袋を2〜3日、ロッカーに置いておくと、表面がうっすらと黒くなる体験をしたものだ。今、思うにあれは排ガスの汚れではなくタイヤと道路の摩擦による細かな粉塵だったに違いない。今の環七は随分改善されたと思うが、例えば冬の残雪が黒く汚れているのをみれば明らかなように、車と道路の問題は依然として課題を残したままである。
 昔、宇沢弘文という著名な経済学者が「自動車の社会的費用」という新書を上梓して問題提起したことがある。自動車の普及は、道路を占有し自然環境の破壊にとどまらず、生活環境や風習を壊すというのである。確かに、莫大な費用を投じ、山間にバイパスを造成。そしてそれまでの鉄道中心の交通システムが変更されることによって、いくつかの地方都市は衰退、街はいわゆるシャッター通りに変貌した。 
 現在、荷物の運搬や人の移動に、精巧な車の活躍無くして社会が成り立たない。とはいえ、騒音や粉塵を根本から防ぎ、快適な物流、移動ができる道路は作れないものなのだろうか。従来、道路は混雑や渋滞を解消することが重点的な課題であったが、サービス産業中心の現代社会ならば、路上で飲食できたり、スマホを楽しんだりする快適空間の到来が夢見られて当然であると思う。例えば、新宿や銀座の歩行者天国のような。
 簡単は対策として、車輪の泥除けに遮音や粉塵を吸着する装置を付けること。また、道路の清掃の一助として側溝を廃止、道路の中央に下水溝を置くことなど、素人的には考えられる。
 もちろん、根本的には従前にないタイヤとアスファルトの開発が主だろうが、SNS空間の拡がりと同じように、地上の交通の改革が待ち望まれるのだ。【彬】

 

 

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メバル

2019年03月08日 | 日記

 春になり、スーパーの鮮魚売り場に、メバルが並ぶようになる。高級魚ということもあり、普段はほとんど食することがない魚。

 8年前の、3.11の大震災。

 今まで、この震災に関わる自分自身の記憶をいくつか書いてきましたが、ささいなことだが、もう一つあります。当時、僕は、茨城県の常陸大宮市で被災した。ガソリンスタンドは暫く閉店したのち、開店しても車は長蛇の列。スーパーも店の修復などがあり、しばらくたってからの営業開始であった。なかには、店は閉じたまま、店の前のスペースで仮店舗を開設、そこに、お客の長蛇の列が並んだ。

 2週間ほどたつと、スーパーはほぼ通常営業にもどっていった。そして、春の魚、メバルがならぶようになった。

 原発事故の影響で、並ぶ魚の種類が限られている中で、赤いメバルは不思議な美しさがあった。今までほとんど食べたことのない魚であるが入手した。この時の気分は、食べる前に、絵に残そうというものだった。

 東京に戻っている今、春になると、メバルをスーパーで見るようになる。美味しい魚だが、食べようと思はないのだ。8年まえのあの魚の味が、嫉妬するように、食べることを拒ませるのだ。3.11の、ささいだが辛い記憶が、自分の中から消えていかない。

 絵は8年前の、メバル。

     2019年3月7日  岩下賢治

 

 

 

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大学コンツェルンのすすめ

2019年03月03日 | 日記

ミモザが咲き始めました。

 青山学園大学野球部の監督が、父兄からの苦情があって、更迭されたというニュースが出ている。この監督は小久保選手や井口選手といった一流の選手を育てたアマチュア球界の大御所だという。更迭の理由は我々には分からないが、日大のアメリカンフットボール部も含めて、近頃アマチュアスポーツ界のゴタゴタは後を立たない。おそらく誰でも知っているはずと思うのだが、トラブルの元となっているのは、学内のスポーツ活動を推進している古くからの風習自体が持っている体質だと思う。部活といえば青春を謳う清々しい活動のように思えるが、その内情と言えば、指導方法や上下関係、活動費を含め、古めかしいいわば旧軍隊の訓練を踏襲する惨憺たるものに違いないことが想像できるのだ。
 私は以前から体育や音楽などの技術系の課目は、高校を含め義務教育のカリキュラムから除外すべきだと言っているのだが、それを別角度から推し進める方途として、音楽やスポーツをはじめとする各種スポーツ・文化活動を、特に高校や大学の場合は、教育部門から切り離し、付属の事業経営として位置付けることを提案したい。これらの諸活動は今や低年齢層の活躍が著しく、しかも専門化が進んでいて目を瞠るばかりだ。例えば、水泳、体操、卓球、野球、ピアノ、バイオリン、フィギャアスケートなど、あげればきりがない。通常の教育機関としては、これらの才能を受け入れ、発展させていくことは難しくなっている。
 加えて、提案するまでもなく、高校や大学では、それらの成果を生徒募集につなげているが、そうした運営を、教育などと誤魔化さずに、正々堂々と前面に出し、一つの学校事業として運営したら、と言うのである。
 日本にはノンプロという、不可思議な実業団形式がある。企業に所属しながら、アマチュア活動をするのである。私は大学や高校のスポーツ、あるいは文化活動は、この実業団システムに移行するのがいいと思う。学校が生徒や学生の経済的な側面を面倒見ながら、選手を特別の機関の中で育成するのである。指導者は高給で迎えられ、成功報酬もだす。そうすることで選手育成は近代化され技術的にも向上するだろう。
 部員が卒業資格が欲しいと言うなら、身分証明を出し、一般生徒は違った形で卒業などを認める。ひょっとしたら、実質、私たちの知らない間に、有名校は、若手の選手のスカウトや奨学金制度を通して、現実化させているのかもしれない。
 そうすると一般学生が部活動をする余地がなくなるのではないか、と言う心配が出てくる。しかし、現代ならば、そうした活動は、同好会や地域の施設で十分補完できる。
 こうした考えは、学校を教育の場として聖域的なものとして位置づけるのではなく、明確に企業経営の一翼だと位置づけることにつながる。今や、都心の一等地を買い占めるのは、教育事業者であり、学生数は大学でさえ50 %の進学率を越えるのだから、経営的な基盤は十分に裏付けられているのである。
 学校が企業化すれば、学内だけで生徒や学生を相手にしたコンビニ経営ができるだろう。生協も可能だ。出版や学生寮、学業器材、様々な有望な消費部門が、学内には目白押しである。それらを一括して大学が経営運営するのである。
 こうなれば、そしてそこに通う学生は、市中にアルバイトを求めることなく、出版の手伝い、生協の販売など学内で稼ぎ場所を求めることもできる。さらには、スポーツ事業の手伝いでも収入を得られよう。働く先はいくらでもあるように思える。
 以上、つまり簡単に言えば、大学や高校が、一大コンツェルンになることである。
 こういう発想は奇抜なものではない。キリスト教の修道院、仏教の寺院、ヨーロッパ中世の大学制度など、同じようなことをしている。大学進学率が50%を超えた現在、従来の学業の方式にとどまる必要は全くない。大学の運動部不祥事を思うに、つくつく感ずるのである。
 まさか、それを独禁法違反だと言う人はいまい。【彬】

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