ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

地方の創生は、老人社会への取り組みから

2014年09月26日 | 日記

富有柿が色づいてきました

 地方の衰退に対処する初代担当相が石破茂さんになった。彼は軍事の専門家として通っているが、農業問題にも精通している。で、一体何をやろうとしているか。税金の使い捨てにならなければ良いが。 

 私ならまず地方の高齢化に注目する。特に農村を中心とした地域での、この傾向はとどまることがないし、現代社会の根本的な社会動向だ。これを解決するために、地方に産業の拠点を作り、若者を呼び戻そうという動きがある。が、今日の高度な資本主義の動向から逆行する、無意味な目論見である。 

 * 里山資本主義とか6次産業による地方の再生などと広告コピーまがいの言説を振りまいている識者が横行しているが、地方経済を農業に固定しすぎていることが問題なのだ。網野善彦さんが早くから指摘しているように、徳川に代表される藩幕体制が、租税の単位として、お米の生産量である石高で表したにすぎないものを、これを社会の仕組みとして誤解し、農業社会が明治以前の社会の基本として認識したことが問題なのである。地域社会の拠点となる都市は、製塩、陶芸、鉄、米、農業などの様々な産業の集積、交易の地として栄えたのであって、農業単独で栄えた地域というのは、江戸時代でさえなかったのだ。

 地方の高齢化で、最大の問題となるのは、老齢化した家族の救済である。若い後継者が都会に出てしまい、取り残された老親が、インフラの整備されない農山村に分散して居住し、老骨にむち打っている。これは悲劇以外のものではない。地方創生には、こうした老人対策が第一歩であるべきである。これに対処するには、まず、近場に老人用の医療機関を作ること。高度な総合医療機関である必要はない。いつでも容易くみてもらえる医療機関があることによって、どんなに老いた心身が休まるものか。

 同時に、そしてその土地風土に見あった老人施設を作り、安価で利用できるようにすることである。

 高齢者の医療費がかさんで、医療保険制度を揺るがせていると指摘されているが、これは高齢者と医療機関のミスマッチによるところが大である。老人の心身のケアには高度な医療機器は必要ない。医療機関を中心に地方が再編されれば、そこに新たな需要が生まれ、経済も活発になる。 

 一つのアイディアだが、災害の恐れの少ない、林を背負った自然豊かな丘陵地帯に、総合病院とは内容違う老人病院を建てる。その周囲に幾棟もの老人ホームを作る。病棟とは随時に往き来でき、しかも各棟に看護師が常住し、医療相談ができるようにする。老人ホームといっても、障害者用ではない。入居者には、健常者も含める。そして、入居者の健康に応じて、ホームの配膳や清掃、車椅子の補助など有給の仕事ができるようにする。単身の場合と夫婦の場合では、別棟の入居とするが、食事や運動など、常に交流ができるようにする。

 さらにホームの外縁はインフラを整備し、ホームのへの入居を敬遠するような人達用の住宅地を設ける。

 要は、分散した集落を、病院を中心とした拠点地域に集約しようという考えである。地方・農村の難点は、過度に農業に偏った社会集団であるために、居まいの分散が著しいことだ。これをインフラの整った地域にまとめ、上下水道、電力、交通、公共サービスなどを効率化することがなにより大事だ。

 

 夢みたいだが、今日の老老介護の悲惨さを脱出することが、地方創生の第一歩だと思うのである。

 ここで問題なのは介護など外部の人の介入を敬遠する地方特有の家族意識と代々の土地にしがみ付く伝統である。こうした意識がどこから生ずるのかは、難しい問題ではあるが、これを固定するかのように機能しているのが、今日の行政機関であることは認識しておくべきだ。さらには、育児を終了した夫婦は、家族の束縛から解放されるのだということ、上記のアイディアの実現には不可欠であることは、都会も同様であること、言を重ねておくべきことである。 【彬】

 

 

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地域の祭

2014年09月19日 | 日記

 私の出身地は東京都日野市。現在は兄夫婦ほか家族が住んでいるが、私にとっては故郷である。
 毎年9月中旬、日野の八坂神社で大例祭が行われる。昔から、この祭に合わせ親兄弟そしてその家族が集まる。今の私は、祭そのものよりも皆が集まる宴席ばかりが楽しみであるが、今回、久しぶりに神社に脚を運んだ。会場には若い人、子供達であふれていた。ところで、普段、私が住んでいる、茨城県の某市。ここの祭も、今、若い人や子供がたくさん集まる。普段、若い人が少ないところかと思っていたが、祭となるとこうも集まるものか。
 幼少の頃から今までを振り返ると、地元の祭りは人間味ある楽しさがあるように思う。そこに行けば、地域に住んでいながら普段会えない人に会える。懐かしい顔に会える。小さな同窓会になる。もともとは、農作物の収穫を終え、神社に奉納し地域の人が集まり祭となったのだろうが、地域の人が神社の力を借り集まり楽しむというところは今も変わらない。

 私の幼少の頃の祭の記憶。‥‥山車を引いて遠い道を歩いた。折り返し地点に、火の見やぐらがあった。それは夕日に赤く輝いていた。その印象が暑さと疲労感とともに、「祭」として深く心に刻まれた。
 話は変わり、映画のこと。古いが名画として評価の高いオーソン・ウェルズの「市民ケーン」。新聞王として富と名声を得たケーンが、死ぬ直前に残した言葉「バラのツボミ」。それが彼にとって何なのかを新聞記者が探る物語。調査の結果、見つけることはできなかったが、遺品を整理処分される映像に「バラのツボミ」の絵のある子供の頃の雪ゾリが映し出される。彼にとって最後まで心にあったのは子供の頃の雪ゾリで遊んだ思い出なのだろう。この映画を見た時、私の火の見やぐらと同じかもしれないなと思った。
 

 これからの日本の課題は、地域再生である。人が減り、活力が低下している地方が増えている。過去にも、経済低迷で、祭が寂しくなったが、経済回復し、賑やかになった歴史がある。地域再生の程度は、祭の賑やかさで測れるかもしれない。   9月16日    岩下賢治

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夏に鍛える

2014年09月07日 | 日記

 9月に入り、今年も暑い夏をなんとか乗り越えてきたな、と振り返る。だが、夏は人を成長させ前に押してくれる季節じゃないかな、とも思う。

 この夏の高校野球。選手たちのプレーには見ている方も暑さを吹き飛ばすものがある。彼らの顔からは暑さを感じていないように見える。暑さをこらえいるというより、おそらく暑さを感じないほどプレーに打ち込んでいるのではないか。そして彼らは成長する。青春はいいなあ。

 青春時代をはるかに過ぎた僕だが、いまでもあのような夏の暑さを吹き飛ばすような経験をしたいものだ。充分に大人の我々にもできないものか。憧れである。

 ところで自分の趣味のランニングについて。

 僕は若い頃からランニングを楽しみとして続けてきている。夏場の練習で走るのは、長距離は無理で、短距離走の繰り返しをやる。7~9月は、普段住んでいる茨城県常陸太田市にある公園の一周250メートルほどの楕円形のコースを使う。日中でも、50~70%が木陰で、都合がいい。一周を全力の80%のダッシュ、そしてジョグで一周。これをセットとして10セットが練習メニュウ。

 長距離走と短距離走は違う。前者はマイペースでゆっくり楽しみながら走ることができる。一方後者は腕を振り、腿を上げ、エネルギッシュに走る。脚にもかなり負荷がかかる。呼吸も荒くなる。その身体に感じるシビレがなんともいえない快感なのである。もちろん、今は以前のように早く走れない。それでも肉体の躍動感は青春時代の感覚を呼び戻してくれる。僕は中学、高校時代は、3流だが陸上部でトラック短中距離走をやっていた。その感覚を脳が記憶している。

 高校球児を引き合いに出したのはおこがましいが、僕にとっては夏の短距離走が、自分を前に押しだしてくれるものだと思っている。     9月3日 岩下賢治

 
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都市近郊の農業に活路

2014年09月03日 | 日記

 新幹線は高架なので地域一帯の様相を俯瞰することができる。八月、姫路に行った折に気づいたこと、ひとつ。

 静岡、浜松、名古屋など、大都市周辺の水田地帯の多くが畑作に転用され、場所によっては鉄骨で骨組みを作ったハウスが幾棟も連なっていた、ことである。

 TTP交渉に当たって相変わらず農業団体の反発が続いているが、元をただせば農業の生産性の低さが原因である。結果、普通に農業を生業としていては生活が成り立たないので、農業人口は低下、高齢化がどんどんすすみ、農業生産人口は全産業の4%以下でしかない。いくら補助金を出そうとも、どうにもならなくなっているのは、農家自身が一番よく知っているのだ。都市周辺の農家が前述のようなハウス栽培に活路を見出そうとしているのは、そうした従来の補助金農業に対するひとつのアンチテーゼである。

 生鮮食品を扱う農家は都市に近い方が有利である。都市の需要に即応できる。これを実現するには天候に依存する農業から、自然を管理する農業=ハウス農業に移行する以外にない。もっと進めば、作物に応じて肥料、温度、日光を調整し、いつでも適量を生産する工業的な仕組みにしていくことである。そして長距離の輸送による歩留まりの悪さを軽減することが最も重要になる。

 都市近郊のハウス栽培はまだ序の口だろうが、新幹線の高架から見える農業の姿に将来の希望を見た気がしたのであった。

 農業の生産性については、米の場合の反当たり収量は天候に恵まれた場合で、1反(10a)当り、普通米で10俵。この収量はここ十数年変わらない。絵のように米はたわわに実るのだが。【彬】

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