最近いくつかの同窓会に出席した。僕は努めて同窓会には出席するようにしている。
以前ある先輩が同窓会について語っていた。「世の中、なんと多くの人がいることか。だが考えてみると、互いに時を共にし、過ごした人はなんと少ないことか。だからこういう会を大切にしたい。」
以下は、先日の小学校の6年生時代の同窓会で思ったことです。外見は、十分すぎるほどの大人。しかし、会場は子供のころのクラスにもどる。昔の悪ガキは今も元気。社会的地位のある人でも偉ぶることなく、昔のままのおとなしい子になる。先生はあくまでも先生である。状況は、タイムスリップである。
僕の頭の中は、懐かしいな、というのは勿論だが、つぎの思いが巡ってきた。
ある人がいっていた「こういう会に参加できる人はいい。」 病気や今の自分を人前に出すのがつらい人もいるだろう、ということか。またある人がいっていた「人の人生は、最後になって、良かったどうかわかるものだ。」 最後まで何があるか分らない、ということか。
僕は「悔いのない人生」というのは無いのではないかと思う。たった一度の人生、どんなに成功した人でも、ああすべきであった、こうしたかった、というのが無いわけがない。人生というのは生まれてから死ぬまでの日々生活の積み上げた堆積層だと思うのだが、現実にできるのは日々の生活を大切にすることだけなのだ。この同窓会も、大切にした一日一枚の層になる訳だ。
前回から5年だった今回は、参加者がかなり減った。色々な理由があるのだろう。この日会えなかった人たちはまた違う一枚の層を重ねているのか。それがその人にとって良き日であることを願う。
今は、11月も終りに近い、秋深まり初冬に近づく時期だからこのような心境のなるのかもしれない。
11月28日 岩下賢治