はちみつと青い花 No.2

飛び去っていく毎日の記録。

『女のいない死の楽園 供犠の身体・三島由紀夫』渡辺みえこ著

2021年02月26日 | 三島由紀夫

2021/02/26

 

久しぶりの三島由紀夫の書きつけ。

昨年は没後50年だったので、メディアの三島特集が多かったが、年が明けてしまうと、もう過ぎてしまったことなのか、名前が見られなくなった。

ここに読んだ本のことを書きたいと思いながら、なかなかエネルギーのいることで、先送りしているうちに日が過ぎて、そのうち記憶の彼方に消えていってしまうのだろうなと思ったりしている。

感想を書きたいと思っている本、実は昨年から下書き状態のまま。

・『ペルソナ』猪瀬直樹

・『暴流のごとく』平岡倭文重

・『金閣を焼かなければならぬ』内海健

 

そして今、書こうとしている『女のいない死の楽園 供犠の身体・三島由紀夫』(発行=パンドラ 発売=現代書館)は、1997年10月発行で、私は2003年に読み、数多くの三島本の中でも最も感銘を受けた本である。


 

この本の感想を書いてしまえば、きっと私の三島に対する書きつけも終わってしまうだろうと思われる。そのくらい、この本に書かれていることは私の腑に落ちた。死の謎が氷解したような気がしたのだ。その後多くの三島本を読んでも、その思いは変わっていない。

著者の渡辺みえこ氏は、2003年に私が通信制大学の夏季スクーリングで教わった先生なのである。

たぶん女性学(そういう科目名であったかさえ記憶にないが)だったと思う。たった1週間の講義で、私はその他大勢の学生の一人にすぎなかったし、先生と個人的な会話を交わしたこともない。先生は私という学生がいたことすら認識されていないと思う。

しかし私には、最も印象に残る先生だった。それは先生の講義に対する熱心さ、フェミニズムついての認識を新たにしてくれたからでもあるし、先生が三島研究者でもあったからだ。

ここで紹介する『女のいない死の楽園』は、三島の同性愛をテーマに置き、その同性愛こそが三島の違和感・苦悩の中心であり、死に至る原因であったと書いている。

蛇足ながら書いておくと、三島が同性愛(ゲイ)であったかどうかの判断は、書く人によって異なっている。

私の読んだ限りでは、三島の両親・梓と倭文重、友人の村松剛、『ペルソナ』の猪瀬直樹、『ヒタメン』の岩下尚史は同性愛ではないと書いている。認めていないという言い方をしたほうがいいかもしれない。

いっぽう、友人の湯浅あつ子、福島次郎、野坂昭如、ジョン・ネイスンは、エピソードを示しながら同性愛であると書いている。

石原慎太郎、徳岡孝夫はわかっていたけれど、特に触れてはいないというような感じを受ける。

 

ここからは本書から引用しながら、いきたいと思う。

 三島の作品の「最上の読者」であり、最大の理解者であるはずの母が、彼の人生については「世間並み」に当てはめる母のエゴイズムを押し通した。しかしこのような母、「恋人」が求める「人生のルール」という期待に沿おうとした三島の「可憐な」(「椅子」)心は、『仮面の告白』の時点の「私」をクローゼットの奥に押しやり、彼の頭部と肉体を二つに引き裂く道へと向かわせていくこととなった。(p.18)

祖母に気に入られるために、あらゆる努力をし続けた少年時代から、常に周囲の思惑を気にする性格があったことは、さまざまな方面から指摘されている。その後昭和という疑似益荒男文化の規範〈男らしさ〉〈正常〉を内面化し、〈雄々しい筋肉〉、〈武〉を身につけていった。(P.19)

 

アメリカ精神医学会が精神疾病リストから同性愛を削除したのは、1973年であり、日本では22年後の1995年であった。

女性化願望も同性愛も容認されている社会なら、「死と血潮と固い肉体へ」(『仮面の告白』)の願望は別の方向へとずらされていったであろう。そして、女々しさと倒錯を堅持し続けたなら、力や制服やナショナリズムではなく、それらを超え、突き崩す方向に向かい、他者も老いも受け止める活路は見いだせたかもしれない。「私」の人生の始まりが異性愛者としての「私」にしかない、規定したところに、1940年代末期の同性愛者の絶望的悲劇があった。(p.20)

岸田秀は「三島由紀夫の精神ははじめから死んでいた。(中略)一生を通じてついに生き返れなかった」という。 自我意識のまとまりがなく、精神病的人格構造を持っていながら発狂しなかったのは書いたからだが、すべてに実在感がないので「外的、観念的尺度に頼らざるを得ない。ボディビルによって隆々たる筋肉を人工栽培(三島自身の用語)する気になりえたこともこれと無縁のことではない」と述べる。(p.21)

 

三島の自刃と前後して、アメリカでは公民権運動と共に同性愛の解放運動(ゲイリベレイシオン)が生まれ、それは日本でも女性解放運動と共に起こった。もし彼がその時代までも生き抜いたなら、多くの同性愛者たちのように性指向の公言(カムアウト)をし、自分のなかの女性性を開放し、〈自分自身〉という〈人間〉として生き直す、五十代、六十代の三島由紀夫を私たちは見ることができたかもしれない。(p.23)

この最後の文章は「ほぅ」という感じでした。

三島は、兵隊になる強い男が必要とされる戦前の軍国主義の中では、自分の性指向はとても口に出せるものではなかった。

1度死んだつもりで書いた『仮面の告白』は、正真正銘の自分のことだっただろう。

「この本を書くことは私にとって裏返しの自殺だ。(中略)この本を書くことによって私が試みたのは、生の回復術である。」

三島の『仮面の告白』はカムアウトだったが、世の中はまだゲイを認めていなかった。世間の受け取り方は分かれ、作家の創作であると読み取るものも多くいた。

ゲイであることを世の中に真正面から告白できるようになったのは、日本では2,000年になってからのことではないだろうか。


 

 

 

 


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