アウトドアライフの記録

四季それぞれに あちこちの山に登ったり、桜や紅葉の写真、および南の島の記録を写真とともに整理して、ブログにまとめました。

樹氷で有名な三峰山(みうねやま)を歩く 2015年2月13日 奈良県御杖村 その1

2015-03-09 22:58:19 | 冬の山歩き
樹氷で有名な三峰山(みうねやま)を歩きに行った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
その1 登山口から不動の滝コースで尾根道の避難小屋へ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

駐車場に付いた。
午前8時、気温マイナス2度。寒い。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

上を見上げると山のほうは雪雲に隠れている。
上は降っているのかもしれない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

登山口から左の不動滝コースへ進む。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

すぐに分岐があり、右の「登尾コース」は下山時に降りてくる予定だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

渓流沿いに進む。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

しばらく林道を進む。路面はかなりツルツルで良く滑るのでなるべく端のほうを歩く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

30分ほど歩くとトイレがあった。ここで山道へ入る。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

山道へ入る。雪はほとんど無い。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

鳥居を潜る。滝の音が聞こえてくる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

滝が見えた。登山道はこの赤い橋を渡る。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

滝の周りは氷だらけだ。寒そうだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

山道は滝を高巻いて行く。祠が見える。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

急坂をどんどん上る。雪は硬く凍り付いて、ツルツル滑る。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

かなり登ったところで、アイゼンを付ける。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

アイゼンをつけてかなり登ったところでアイゼンのゴム部分が切断しているのに気づく。
冬山で長い酷使がたたったのだろう。
しばらく考えて予備の靴紐で繋ぎ合わせて止めると なんとか歩ける。
予備の靴紐が役に立った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

尾根に出たら小屋が見えた。避難小屋だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
その2へ続く
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

雪のダイトレを歩き大和葛城山 へ  その2  2015年2月6日

2015-03-07 22:42:02 | ダイヤモンドトレイル、紀泉山脈を歩く
その2 山頂から「自然観察路」を経て下山へ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

突然大勢の声が当たりに響いて、沢山の人が上ってきた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

たちまち山頂は人だらけになる。しかも後から後から登ってくる。
話をすると「何とか高校の耐寒登山」だそうだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

斜面を登りながら女子生徒はキャッキャッ言いながら滑ったり転んだり、楽しそうだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

林の中も沢山の生徒でいっぱいだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

屋外キャンプ場へ行ってみたら、ここも風が強く吹きさらしだ。お弁当を食べるには少々きつい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

いい場所を見つけた。「白樺食堂」裏の展望デッキだ。風邪もなく、静かだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

御所市街を眺めながら、お弁当を頂く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

周りのベンチには誰もいない。静かに雪は降っている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

食後 このデッキ脇の道から 自然観察路へ降りて歩く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

誰も歩いていない。フワフワの雪が気持ちいい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

周りの森も冬化粧でとても静かだ。片栗の花の季節はまだ遠い。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

熊笹の葉を カサコソ音を立てて歩く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

前方の標識が 北尾根道が左右に走っている分岐点だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

北尾根道を越えて歩き続ける。いつの間にか足跡がこちらへ方へ付いている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

このポイントでダイトレと再び合流する。右下から上がってきたのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ツツジ園へ行ってみた。誰もいないし足跡もない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ツツジの冬芽が出ていた。春にはこのあたり一体がツツジの花で真っ赤になる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

少し晴れてきたが雪はまだ降っている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ダイトレまで引き返す。来るときに付いた私の足跡だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

パラセーリンググランドまで戻ると 突然晴れ渡った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

御所市内は見えるが、遠くの世界遺産大峯奥駆道や、台高山脈は雲で見えない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

山頂付近にはあちこちにこの看板がある。

「野生生物や植物の保護の為立ち入らないで」だけでいいと思うけど。
わざわざ「この森には「ギフ蝶」が生息していますよ」と教えているみたいだ。
片栗の花の季節には大きな補虫網を持った人達をたくさんこの森で見かける。
「この森には片栗の花と魏不調が沢山います」と密猟者たちに教えてくれている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

晴れ渡ったダイトレを気持ちよく歩く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

しかしまた突然雪が振り出して、向側の大日岳(正面の山のすぐ奥の山)は再び雲の中に隠れた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

峠に下りると雪はほとんど消えていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

カメラを持ったカップルに「ダイトレの石の名盤」を知らないかと訪ねられた。
記憶にある場所へ案内してあげると、
「ダイトレの決められたいくつかのポイントの写真を大阪府に送ると、商品がもらえる」と教えていただいた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


駐車場まで歩いていると 大阪府のトラックが何かしている。融雪剤を撒きながら方向転換しているのだ。
こんなに環境にやさしくないことはやめて欲しいなあ。
森の中に塩を撒いて、環境にいいわけがない。

走る車にもやさしくない。私の車は 新車から5年で マフラーに穴が開きマフラー全部取り替えた。
マフラー取替えで10万円以上かかったが、どこにも文句を言うところが無い。

11月から5月の連休が終わるまでスノータイヤを履き 雪道を走ることが多いので、
融雪剤は 車体下部にとてもダメージを与える。

また山の植物や水に影響し その水は農業にも影響する。

別に大阪府だけではなく、全国でやっていることだけど。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

歩いた記録。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

歩いた距離は6キロちょっとだった。歩行時間は4時間ほどだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「金剛、岩湧、紀泉山脈を歩く」トップページはこちらです。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kongodaitore/index.html
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ホームへはここから戻れます。
http://yochanh.sakura.ne.jp/
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

雪のダイトレを歩き大和葛城山 へ  その1  2015年2月6日

2015-03-05 22:57:24 | ダイヤモンドトレイル、紀泉山脈を歩く
雪のちらつくダイトレ(ダイヤモンドトレイル)を歩き、水越峠から大和葛城山 へ行った。
山頂は一面の銀世界で、吹雪いていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
その1 山頂へ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ダイトレの水越峠。ここがスタート地点でゴールだ。
国道309号線の旧道の水越峠でもある。ダイトレはこの国道を50メートルほど歩き横断して
大和葛城山 から金剛山へ向う。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

石畳の道を歩く。まだ雪は少ない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

登るに連れて雪が増えてくる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

長い丸太階段の道が 続く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

晴れたり曇ったりのくりかえしだ。時々前方が明るくなる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

雪は降り続いている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

植林帯の杉林を抜けると少し明るくなった。やっと山らしい雰囲気だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

前方に見える丘は山頂ではない。山頂のハゲ山はまだまだ見えない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

樹氷なのか、霧氷なのかとてもきれいな景色が続く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

尾根道に出た。サラサラ雪の上を気持ちよく歩く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

パラセーリングのグランドに着いた。歩き出して1時間くらいだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

グランドからは御所市、大和高田市など山と盆地が見える。
雪雲が激しく流れて遠くの山は見えない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ツツジ園に着いた。帰りに覗くことにしてひとまず山頂へ急ぐ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

展望台が見えてきた。今日は吹雪いているので誰もいないようだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

展望台に着いた。やはり誰もいない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

向側の大日岳は雪雲の中だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

先ほど通ってきたツツジ園が眼下に見える。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

松の葉の樹氷がとてもきれいだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

山頂へ向って歩き出す。せっかく登ってきたのに、トラックが正面に待ち構えている。
この景色は何とかならんのかなあ。もう少し建物の後ろの目立たない場所に止めるとか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

誰もいないので「幸せの鐘」(と言う鐘だと記憶しているけど違うのかも)を一つ鳴らした。
吹雪の中で寒々とした大きな音がした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

山頂が見えてきた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

やはり誰もいない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

周りは雪雲がぐるぐるとうが巻いている。遠くは見えない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今日は奥さんに造ってもらったお弁当を持ってきたけど、こんな吹雪の中で食べられない。
どこか静かで、風のない穏やかな場所を探しに行こう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

突然背後からも雪雲が追いかけてきて吹雪が強くなる。
さあどこか お弁当を食べる場所を探しに行こう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
その2へ続く
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて」 大和編 その3 奈良県櫻井市、磐余の道、巻向の郷を歩く

2015-03-03 15:39:20 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて
古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

奈良県桜井市の歴史道歩き その3 磐余(いわれ)と巻向(まきむく)

古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて磐余道と巻向を歩いた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「磐余橋」という地名を見つけた。
記紀に書かれた作り話の大王 「神武」が熊野から大和入りして ここ磐余の地に落ち着き「磐余彦」と呼ばれたとある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「磐余の道」を歩いてみた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

近鉄桜井駅前の道が 「磐余の道」らしい。

第一次物部東征で 最初紀ノ川河口へ上陸し、高倉下の子孫たちに手痛い反撃を受けた物部軍は
大将の「物部五瀬」が戦死する。

その後熊野へ転進して上陸するも、磯城王朝側のゲリラ名に攻撃されて 身動きも出来ず川洲の中で防戦一方だったという。

戦死した五瀬の弟の稲飯か三毛入りかどちらが 大将か分からないので ここでも記紀は「ウマシマジ」という大将を
でっち上げている。ちなみに上陸地点の新宮市の浜王子神社では「稲飯」と「ミケイリ」の両方を主祭神 としている。

困り果てた物部軍は 大和の登美家にひそかに使者を送り、大和へ先導してくれるように頼む。

登美家の「鴨建津乃身」は物部軍とともに大和に新国家を作ろうと、自ら案内して下北山、上北山の山中を通り
物部軍を大和に引き入れた。物部軍は彼に感謝して「ヤタガラス」として末代まで神社に祭ったという。

ところが大和入りした恩知らずな物部ウマシマジは「磐余彦」と名乗り、出雲系の集落を次々と襲い
銅鐸祭祀をやめさせて、自分たちの、神獣鏡を飾る支那の道教祭祀を押し付けて回り、宗教戦争を引き起こしたという。

この争いはモモソ姫が三輪山の巫女となり、祭祀を行うと次第に収まったらしい。(魏書による)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

磐余の道を歩くと 昔ながらのたたずまいに出会う。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

老舗の造り酒屋もある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

突然現れた素戔嗚神社。このあたりは出雲系と物部の混在地域だから、徐福を祀っても不思議はない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

恵比寿神社が現れた。恵比寿さんは徐福、穂日らに幽閉殺害された事代主のことだ。
出雲系の住人が建てたのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

中へ入ると拝殿はなかなか立派だ。本殿が大社造かどうか見たかったのだが、覗けなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この神社の主祭神 は当然八重波津身(事代主)だ。

ところが加夜奈留美と書いてあるのを見て またまたびっくり。

徐福、穂日らに幽閉殺害された 第八代大名持ち八千矛王のあと、八重波津身(事代主)の皇子の
鳥鳴海が第九代大名持ちとなった。主王(大名持ち)と副王(少彦)は 東王家(向井家、富家)
と西王家(神門臣家)から交互に出すしきたりだからだ。

鳥鳴海王は死後伯耆の国日吉津の香屋島神社に祀られたので、香屋鳴海の命と呼ばれるのだ。
このあたりの出雲系の人たちは なかなか出雲の内情に詳しい人たちだ。

八尋熊鰐の命はよく分からないので いろいろ調べるとどうも 熊鰐(わに)族とは事代主族と書いてあるのが多い。
つまり出雲系の分家の長なのかもしれない。

古代出雲では 鮫のことを鰐といい(今でもそう言う)、鰐は神の使いだと尊敬されていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

磐余の道を歩いているとこの「豊田」という地名が目に付いた。

安芸の宮島で亡くなったトヨタマヒメ(第2のヒミコ)の葬儀を宇佐王国で済ませた
豊来入彦、豊来入姫たち豊王国勢はイクメ王に遅れてこの地にやってきた。

沢山の豊王国軍隊の中にはこの地域に住み着いた人も多く、「豊」の地名が残る。
「豊田」や「豊前」まであるのにはびっくりした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
磐余道の最後に「桜井市埋蔵文化財センター」へ行ってみた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

何かの儀式に使用されたと思われるお面。
なんに使われたのだろう。なかなか興味深かった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

イヤリング、ネックレス、ブレスレットなどの装飾品。
出雲市の王家の谷で発掘された物を展示している「出雲弥生の森博物館」のものとほぼ同じだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

埋葬された女性が身に付けていた装飾品。
豊来入姫や大和姫もこのように飾られて埋葬されたのだろうか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

鏃や鐙などの鉄製品は 「穴師の郷」でつくられたものだろうか。
出土した土器は 全国から集まったそうだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ガラス製品も出土したそうだ。インド製のビーズが多かったけど、時代が下がるとこの地で作られたガラスもあるそうだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

このイヤリングなど 今のデザインとあまり変わらない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

巻向で出土した土器の半数は東海のものだそうだ。笛吹から東海方面へ移住した尾張家の祭り参加が多かったのか。
出雲系の土器が少ないのは意外だった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

古墳から発掘された埴輪も展示されている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

野見の宿禰 の子孫が大和に残り、土師氏として埴輪を発達させて、それまで行われていた 
王の墳墓への 生き埋め殉死をなくしたと 何かの本で読んだけど、本当だろうか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて」トップページはここから戻れます。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.htmlーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
全体のトップページへはここから戻れます。
http://yochanh.sakura.ne.jp/
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
歴史については
斎木雲州著 「出雲と大和の曙」「古事記の編集室」「万葉歌の天才」「御伽噺とそのモデル」「出雲と蘇我王国」
勝 友彦著 「親魏和王の都」
谷戸貞彦著 「幸の神と竜」
を参考にしました。  
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて」 大和編 その2 奈良県櫻井市、ホケノ山古墳、箸墓古墳、射楯兵主神社

2015-03-02 14:29:37 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて
古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて 大和歩きその2
 
奈良県桜井市 ホケノ山古墳と箸墓古墳、穴師坐射楯兵主神社 2015年1月29日

次に訪れた場所と人物
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ホケノ山古墳、箸墓古墳、穴師坐イタテ神社、相撲神社

 それぞれに関連する人物

豊来入姫、大和姫(イクメ大王の姫)、五十猛(徐福の息子)、野見の宿禰 (富 大田彦)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

次に檜原神社から眼下に見える「ホケノ山古墳」と「箸墓古墳」へ行く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ホケノ山古墳は道路で削られている。「山之辺の道」かもしれない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

墳墓の一部を復元されている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

発掘調査の結果 木製棺と瓶棺が発見されたそうだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

発掘された棺を復元したそうだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この古墳の説明書である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

埋葬施設の説明書。

誰が埋葬されているのかかかれていないが、先ほどの檜原神社「豊来入姫の宮」説明文にも
あったように豊来入姫」である。

イクメ大王(垂仁)が大和統一の邪魔になると 刺客を放ち 伊勢の椿大神社で殺された「豊来入姫」
であることは、複数の歴史学者の本にも書いてある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

古墳頂部から三輪山を望む。あの山の麓に彼女がしばらく祭祀を行った檜原神社がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

古墳頂部から西を見ると すぐそこにこんもりとした森が見える。箸墓古墳だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

道路を歩いていくと この道は山之辺の道だと 表示があった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

山之辺の道を下っていくと、こんもりとした箸墓古墳が見えてくる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

北と西は かろうじて堀が残っている。
記念碑が立ててあり、何とか池の修理完工記念とか書いてあった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

箸墓古墳の回りは環濠があったらしいが、東と南側は埋め立てられて畑になっている。
古墳の周りを歩いて回ってみる。かなり大きい古墳だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この写真は「桜井市埋蔵文化センター」の箸墓古墳(左)とホケノ山古墳(右)の模型である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

南側の畑の中の畦道を歩いていくと 鳥居が建っている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

宮内庁の立て札があり、それを読むと思わず噴出した。

「大和トトビモモソ姫」の墓だと書いてある。なんのこっちゃ??。
しかもこのわけの分からん姫君は、磯城王朝第七代フトニ(考霊)大王の皇女だと書いてある。

大和姫とモモソ姫という二人の皇女姫巫女を並べてくっつけて書いてあるのだ。

つまりこの墓が大和姫の墓なのか、モモソ姫の墓なのか分からないと宮内庁は公にしているのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

石碑にも「大和(ヤマトの字は中国がわが国を蔑んで付けた卑字をそのままありがたく使用しているので
私が大和の字に訂正した。)トトビモモソ姫」と書いてある。

宮内庁も記紀の作り話を丸呑みにせざるを得ないのであろう。いろいろとまずいことがたくさんばれるので。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
モモソ姫は磯城王朝第八代クニクル大王と磯城家クニアレ姫との間に生まれた姫巫女である。

登美家当主 大田田根子の世話で 三輪山で大ヒルメムチの祭祀を行うと、それまで続いていた
第一次東征で大和入りした物部家とヤマトの豪族との間の戦争も徐々に収まった。

魏書に「そのヒミコが女王として立つと、戦乱は収まり国がまとまった」と書かれた最初のヒミコが
モモソ姫である。

祭祀の日には巻向の地に 各地から大勢の豪族の首長たちが集まり、巻向は大いに栄えたという。

当時の巻向は 登美家の領地、地盤であったので モモソ姫の亡骸は 当然登美家の土師氏で葬られた。

彼女の墓は 巻向の大きな古墳のどれかだろうと思われる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一方ヤマト姫は初代物部王朝イクメ大王(垂仁)と磯城王朝最後の道主大王の娘ヒバス姫との姫である。

彼女は信仰心が深く、伊勢志摩で井澤富彦(登美家出身)の世話を受けて、五十鈴川の
ほとりに内宮を建て 太陽の女神を祭り 最初の伊勢斎宮となる。

彼女の亡骸は 伊勢から登美家に送られて 登美家の土師氏に葬られた。

最初は土師氏たちの作った墓、「土師墓(はじはか)」と呼ばれたらしいが 後に箸墓と書き換えられたという。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
つまり ヤマト姫とモモソ姫は 姫巫女としてもお墓も 全く異なる別人なのである。

二人の皇女をくっつけて呼ぶとは宮内庁も よほど困った事情があるのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

なんせ嘘で固めた記紀は 魏書に書かれたヤマトの内情を一切無視して作成され、何百年も生きた大君がいる。

またヒミコが誰なのかいっさい触れていない。

朝鮮渡来人ヒボコの子孫オキナガタラシ姫(神功皇后)をヒミコと思わせる為、魏書に何回も名前の挙がった
平群王朝の祖である武内宿禰などなどは、3代の大王に仕えて 150年も生きたことになっている。


ヤマトタケルなどの架空人物を歴史の繋ぎに作ったり、150年以上も離れた物部王朝の前後2回の東征
を一つにまとめて「神武東征」としたり、いろいろと嘘が嘘を呼び大変なのだ。

持統女帝が記紀の編集で一番恐れたのは、自分たちが渡来人で元からの王朝(古代出雲)を倒した
征服王朝だということが知れること。そのために天孫降臨神話を作り出し、天上から築紫の日向に降り立ち
橘の小戸で禊をしたと 作り話を書いている。そして出雲国譲りなどという神話をでっち上げたのだ。

※ちなみに 築紫は徐福が再上陸した場所で、日向は第二次東征のため イニエ(崇神)が築紫から日向へ転進し
日向にツマ国をつくり、イクメが日向の生目で生まれ橘の小戸で産湯を浸かったということらしい。

次に無視したのは 和国が一時的に 魏の属国になっていたということだろう。
イクメ大王(垂仁)が若い頃 魏へ直接行き、イサチという名前で魏王に臣下の礼を
とったことなど、とんでもない卑屈なことなのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
次は 徐福(素戔嗚)の息子五十猛を祀る 穴師坐イタテ兵主神社へ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

参道入口の鳥居脇の石碑には 兵主神社としか書いてない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

境内から拝殿を見たところ。奥に本殿が見える。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

神社の説明文。手書きであり、どなたがかかれたのか 説明がない。
ここにも五十猛の名前は出てこない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿は良く見えないが、三連の造りのようだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
石見から丹波に移住した五十猛は、丹波で「香語山」と名を変える。

そしてさらに 数千人の秦国人を引き連れて 大和葛城の笛吹の地に移住する。
住んだ場所が 尾張村なので 尾張家と呼ばれるようになる。

先住の出雲族の登美家、カモ家よりもはるかに数の上で勝る尾張家は 「天の村雲」が初代大和大王となる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
尾張家の一部は ここ穴師に移住する。「穴師」とは「金属精錬技術師」の意味だ。
そして村雲の父五十猛(香語山)をこの地で祀る。

イタテ神社のイタテとは 五十猛の五十をイと読み、タケをタテと書き換えたのだろう。

村雲にはじまる海部王朝は 3代目から磯城王朝となり、やがて五十猛の腹違いの弟ホホデミに始まる
九州物部家の東征で、物部王朝となる。

五十猛の名前をそのまま残すことがためらわれたのかも知れない。

それで五十猛を射楯と表記したのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
兵主とは 徐福が育った 古代シャントン半島で行われた八神信仰で 第3神が兵主
(ひょうず)という神様らしい。徐福が和国に持ち込んだといわれている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
続いて相撲神社
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

穴師坐射楯兵主神社は狭い山道の奥なので、神社鳥居脇の広場で一休みしたら、
相撲神社と書いた小さな祠があり、びっくりした。

またまた今日の偶然の発見だ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

相撲神社の謂れの説明だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ご丁寧に「野見の宿禰 」の新しいレリーフまで設置してある。

嘘もここまでかためると本当に思えるから恐ろしい。

社やレリーフを造っている人も記紀の嘘の作り話に 踊らされているとは、夢にも思わないだろう。

皆さんの真剣さが伺える。

千年以上経つのに 記紀の呪縛は恐ろしいほど 強烈だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
もともと當麻のケハヤと野見の宿禰 は相撲など取っていない。
イクメ大王のために 戦をして野見の宿禰 が勝ち
イクメ大王から物部家の重臣の呼称「宿禰」を貰ったのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
イクメ王がイコマ山脈を越えて大和入りしたときには、既に一足早く九州から田道間守(朝鮮渡来人ヒボコの子孫)が
古代出雲王朝の田和山神殿を破壊してすぐに、大和入りしていた。

田道間守も、イクメ王も数年前に魏へ イニエ王の使いで渡り、魏王から「中朗将」の称号を貰っていた。

田道間守は第二次東征で大和へ一番乗りし、しかも葛城地方に沢山の丹波人を移住させて自分が大和の王のように振舞っていたという。

その土地はタジマがなまって當麻タイマと呼ばれるようになったという。


しかも後から来たイクメ王の言うことを聞かず、磯城王朝第11代彦道主大王を倒す為に独自の動きをしていたという。

困り果てたイクメ王は 出雲に占領軍として進駐していた物部の十千根に 田道間守を撃つように指示するも 十千根は兵力が足らず

彼は旧出雲王家の向家に頼み込んだという。向井家は富家と名前を変えていて、当主の富大田彦は 田和山神殿が破壊された恨みもあり、

大田彦はトビではなく、野見大田彦と名を変えて 大勢の出雲兵を連れて葛城へ進撃し、田道間守を打ち破り淡路島へと追いやった。

喜んだイクメ王は野見大田彦に物部王家の重臣の称号「宿禰」を与えて、領地も与えたという。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
血で血を洗う 王朝交代の戦争を嫌う持統は この話を不比等に「田道間守(当麻蹶速)と野見の宿禰 が相撲をとり

野見の宿禰 が投げ飛ばして勝った。と言う話に作り変えたのだ。

それが相撲発症の神社になるとは、嘘で固めた記紀の呪縛もすごいものだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

射楯兵主神社鳥居付近から巻向の街を見下ろす。
このあたり一体が3世紀から4世紀にかけて 一大都市として栄えていたのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

物部王朝2代目オオタラシオシロワケ(景行)の都もこのあたりにあったと書いてある。

先ほどの射楯兵主神社のたて看板に寄れば、オシロワケ大王は和国統一を進める為ヤマトタケルを各地に派遣し平定させたと書いてある。
大和の大王になったものの、オシロワケ大王 はまだ力も弱く、和国統一を自分が出兵しながら進めたという。

記紀の製作者や不比等は それでは大王家の権威がないし、大王が自ら戦争に行くのは格好が悪いというので
ヤマトタケルを作り出して彼に征服戦争をさせたように書いたのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

イクメ大王の宮殿もこのあたりにあったと書いてある。

※イクメ大王を垂仁天皇と書いてあるが、この時代にはまだ「天皇」と言う言葉はない。「垂仁」も後の世で付けた「送り名」だ。
この時代は まだ大王(おおきみ)と呼ばれていた。

天皇と名乗ったのは天武からである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
次は古代出雲王朝ゆかりの歴史道を歩く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
古代出雲トップページはここから戻れます。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.htmlーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー