古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねるヤマトの旅
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村屋神社のすぐ近くの岐多志太(きたした)神社
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村屋神社のすぐ近くの田んぼの中に神社らしきものがあったので 気になって寄ってみた。
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近寄ると岐多志太神社と書いてある。
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神社の由緒書きをみて 驚いた。なんと徐福の長男、香語山を祀っているのだ。
島根県大田市の五十猛海岸に 大勢の海童や事前に上陸した部下の穂日と共に 上陸した秦国人徐福は和名を
ホアカリ(火明かり)と名乗る。そして出雲王家第七代「天の冬衣」の姫皇子「高照姫」との間に長男五十猛を
設けるのである。
五十猛は成長して丹波の国へ移住し、香語山と名乗る。香語山と出雲王家の大屋姫との間の皇子が
「天の村雲」で初代大和大王であるが、記紀では 名を消されて「神武」と言う名に書き換えられた。
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由緒書きを読んで またまた噴出した。 香語山は歴史作り話の中で アマテラスが岩とに隠れた時、
おびき出す為に音楽を奏でた 音楽の神様らしい。ばかばかしいにもほどがある。
それとアメノコヤネも祀っているという。中臣氏の祖先といわれ 記紀では天孫降臨したと書かれた神だ。
やはり 記紀を書かせた布人に逆らえないので 迎合する由緒となったようだ。
それと やはりこの地は 物部氏や鏡作り部の土地なので 徐福の長男の五十猛(香語山)を祀ったのだろう。
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この拝殿の向こうに本殿がある。
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本殿には近寄れないが、二棟みえるので 五十猛とアメノコヤネを祭っているのだろう。
まあこんな小さな神社でも記紀の呪縛にのろわれていた。
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4.ヤタガラス神社 奈良県宇陀市榛原高塚42
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国道に面して立派な鳥居が立っている。
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駐車場から神社全体を見上げる。
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この鳥居を潜ると広い境内だ。
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この神社も境内でトンド焼きの準備がされていた。右が拝殿だ。
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拝殿の奥にさらに石段が見えている。
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石段をさらに登っていく。
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本殿が朱塗りの塀で囲われている。
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隙間から本殿を覗くと、広くて大きな神社に不釣合いな程 ごじんまりとした本殿だ。
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本殿は 出雲式とは程遠く、千木も物部式の横削ぎだ。
九州物部家を熊野から大和へ安全に引き入れてくれた登美家の「加茂建津之身」に感謝して
物部族が建てた神社なので 物部磯城なのは あたりまえなのだが。
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ヤタガラス神社の由緒書きです。
熊のに上陸した九州物部軍をお的へ導いた、加茂建津之身(賀茂建角身)を祀っているとかかれています。
そして賀茂建角身は山代の加茂族の祖と書いてある。
まあ記紀に迎合したところは 少しあるが、神社の由緒書きの中ではかなり上出来のほうです。
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九州物部王家の第一回東征は 西暦165年頃筑後から薩摩への南下で始まった。
四国南岸を進み、紀伊水道から紀ノ川の下降に上陸しようとしたが、高倉下の子孫たち(名草の戸部たち)により
強烈な 反撃を受けて、総大将の物部の五瀬は戦死する。
※五瀬の遺体は和歌山市竈山神社に祀られて 家臣の人たちが今も守り続けていらっしゃいます。竈山神社訪問記は
このブログの2015年9月8日です。
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一旦船へ引き上げた物部軍は五瀬の弟の稲飯と三毛入を大将として 紀伊半島を南下して熊野へ上陸するが
熊野でも大和磯城王家の兵たちにゲリラ戦をし掛けられて全く動けなかったという。
彼らは 熊野川の中洲に陣取ったまま その地から動けなかったので、秘密裏に大和登美家へ使者を送り
大和への道案内を頼む。(その陣地の熊野川中州に最初の熊野本宮大社が建てられた)
※ちなみに熊野海岸の物部軍上陸地点に建てられた 稲飯と三毛入を祀る浜王子神社はこのブログの2015年11月14日です。
登美家の当主「加茂建津之身」は 戦乱に明け暮れていた大和を物部軍と共に平定しようと考えて 物部軍を
熊野川、吉野川沿いに案内して大和へ引き入れて 登美家地盤の磐余の地に 住まわせます。
記紀は 稲飯か三毛入かどちらが大将か分からないので 「物部ウマシウチ」なる人物を創り上げて磐余彦として
「神大和磐余彦」と書いて神武という贈り名をつけた。
この磐余彦を初代大和大王としたので 天の村雲の名は歴史から消されてしまったのだ。
しかも 記紀のでたらめは続き、古代出雲王朝も 存在自体を隠すため 磐余彦の大和入りを紀元前5世紀頃の
古代出雲王朝の初代大名持ち「菅の八井耳」の時代までさかのぼらせたものだから、磐余彦以後の大王たちは
150年くらい生存した大王が沢山居る事になった。
大和入りした物部軍は 加茂建津之身に感謝して 鴨と 鳥のように聞こえる彼の名をヤタガラス
(古代支那の神仙寓話の中で太陽の中に住む 三本足の神の使いの烏)と呼んで末永く祀ったという。
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吉野の地酒「ヤタガラス」が奉納されていた。この長家は昔から吉野の地酒で有名だ。
もちろん日本サッカー協会のエンブレムになるまえから 有名だ。
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あわてて付け加えた、真新しいモニュメント。サッカーボールを持っているところが笑わせる。
今の時代に迎合する姿勢が 記紀が書かれた当時に 時の最高権力者不比等に迎合する姿勢に通ずるものがある。
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境内から鳥居を通して外を見ると 伊那佐山が見える。
記紀によると 神武が熊野からこの地までやって来たところ、空腹を覚えたので この地の鵜飼に
食べ物を持って来いと仰せられたそうである。
物部の稲飯や三毛入たちは、険しい山岳地帯を ゲリラ兵たちに怯えながら 登美家の人たちに導かれながら
やっとこの地まで無事に辿りつき もうすぐ登美家の地盤なのでほっとしたのであろう。
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