アウトドアライフの記録

四季それぞれに あちこちの山に登ったり、桜や紅葉の写真、および南の島の記録を写真とともに整理して、ブログにまとめました。

古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて 大塚古墳、東大寺山古墳、和邇坐赤坂神社、石上神社、大和神社 その1

2015-08-16 10:59:15 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて
今回訪ねたのは
1.大阪府羽曳野市 河内大塚古墳 日向ソツ彦(オキナガ姫と共に三韓征伐を成功させた王)の墓

2.奈良県天理市東大寺山古墳 イクメ大王の皇后ヒバス姫が造りなおした父上のミチヌシ大王の墓稜

3.天理市和邇坐(わににいます)赤坂彦神社 出雲王家分家の大和登美家から分家して和邇家始祖となった阿田賀田須を祭る

4.天理市石上神社 イクメ大王が困難の末に大和入りして 政治を行ったところ

5.天理市大和神社 大国主を祭り 戦艦大和に分祀された神社  以上である。
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1.河内大塚古墳
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宮内庁の石碑が立っている。
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後から付け加えたと思われる通路があった。
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要するに誰の墓か分からないと書いてある。明治時代に数十軒の民家をどかしたらしい。
宮内庁が「陵墓参考地」としたと言うことは つまり皇族の墓らしいといっているのだ。
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大きな古墳の周りの堀は未だ健在である。堀の周りは車で一周できる。
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このお墓は日向ソツ彦(武内ソツ彦)大王の墓である。

オキナガタラシ姫(息長帯姫)は 1世紀後半に朝鮮半島辰韓から渡来した辰韓の王子ヒボコの子孫である。

ヒボコは最初出雲王朝の直轄地に上陸しようとしたが、出雲の法律を守る事を拒否したため 出雲王に
上陸を拒否され、丹波円山川上流の湿地帯に上陸し 苦労して開拓したという。

オキナガ姫はイクメ大王の孫 ワカタラシ大王の后になり、後の贈り名は神功皇后といわれる。
そのとき辰韓が滅び新羅となった。
オキナガ姫皇后は新羅に対し辰韓の財産の分与を要求したらしいが拒否された。

夫君のワカタラシ大王に朝鮮出兵を持ちかけるが拒否される。そのあとワカタラシ大王は戦死される。

そこでオキナガ姫は豊前中津彦に相談されるが これも拒否されて かつ中津彦は戦死する。

記紀は物部王朝が三代で終わった事を隠すため中津彦を大王に格上げして「仲哀」としているが中津彦は
大王ではなく、オキナガ姫皇后の単なる部下であり、大王ではない。

また物部王朝を長く存在したように見せるため、九州から一度も出ずに病死したイクメ大王の父君イニエ王を
大和の大王に格上げして「任那来入彦イニエ大王」とでっち上げて 任那からイニエ王がやってきた事にしている。
しかし 任那ができたのは ソツ彦大王とオキナガ姫の三韓征伐が成功したずっと後の話なのだ。

次にオキナガ姫皇后は日向ソツ彦に相談されてソツ彦は 朝鮮出兵を快諾される。

ソツ彦大王は初代大和大王「天の村雲大王」の異母弟高倉下(たかくらじ)の子孫の武内宿祢のひ孫で
武内ソツ彦といい 日向の王となられていた。高倉下の母姫は出雲王家の大屋姫だからソツ彦大王も
当然出雲王家の血を引くお方だ。

ソツ彦王は華麗で豊富な人脈を生かして紀伊家、尾張家、丹波海部家など全国から水軍を組織して
三韓征伐の総大将となり、朝鮮半島に向われた。

海上を埋め尽くした夥しい軍船を見た新羅王は戦わずして降伏したという。その後百済も降伏させたという。
三韓征伐に大成功を収めた結果、和国には朝鮮から莫大な税が入ってくるようになった。
そしてソツ彦王は大和に凱旋し 大王となられた。


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ソツ彦の弟武内臣若子の娘岩野姫はオオサザキ大王(仁徳)の皇后となり、イザホワケ大王をお生みになった。
それで当分ソツ彦王家が続く。

そのソツ彦大王の陵墓が恵我之荘の河内大塚山古墳なのだ。
作ったのはもちろん出雲系の土師集団だという。

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その2(天理市東大寺山古墳)へ続く
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