旧出雲王国領の稲葉(因幡)の国を歩く
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その2 稲葉神社 日向襲津彦が三韓征伐の折に戦勝を祈念してこの地に旗を立てたのが始まりとされる。
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三韓征伐について
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オキナガタラシ姫(息長帯姫)は 1世紀後半に朝鮮半島辰韓から渡来した辰韓の王子ヒボコの子孫です。
ヒボコは最初出雲王朝の直轄地に上陸しようとしたが、出雲の法律を守る事を拒否したため 出雲王に
上陸を拒否され、当時誰も住めなかった 丹波円山川上流の湿地帯に上陸し 苦労して開拓したという。
オキナガ姫はイクメ大王の孫 ワカタラシ大王の后になり、後の贈り名は神功皇后です。
そのとき辰韓が滅び新羅となりました。オキナガ姫皇后は新羅に対し辰韓の財産の分与を要求したが拒否されました。
夫君のワカタラシ大王に朝鮮出兵を持ちかけるが拒否されます。そのあとワカタラシ大王は戦死される。
そこでオキナガ姫は豊前中津彦に相談されるが これも拒否されて かつ中津彦も戦死する。
記紀はイクメ大王に始まる物部王朝が三代で終わった事を隠すため中津彦を大王に格上げして「仲哀」としているが
豊前中津彦は大王ではなく、オキナガ姫皇后の部下で 単なる豊前の豪族の王です。
次にオキナガ姫皇后は日向ソツ彦に相談されてソツ彦は 朝鮮出兵を快諾されます。
ソツ彦大王は初代大和大王「天の村雲大王」の異母弟高倉下(たかくらじ)の子孫の武内宿祢のひ孫で
武内臣ソツ彦といい 日向の王となられていたので日向襲津彦とも呼ばれていました。
高倉下の母姫は出雲王家の大屋姫だからソツ彦大王も当然出雲王家の血を引くお方なので臣を名乗っておられたのです。
襲津彦王は華麗な人脈を生かして紀伊家、尾張家、丹波海部家など全国から水軍を組織して三韓征伐の総大将となり、
朝鮮半島に向われた。
海上を埋め尽くした夥しい軍船を見た新羅王は戦わずして降伏したという。その後百済も降伏させたという。
三韓征伐に大成功を収めた結果、和国には朝鮮から莫大な税が入ってくるようになった。
そして襲津彦王は大和に凱旋し 大王となられた。
そして でっち上げの歴史小説である 記紀は 物部王朝を長く存在したように見せるため、九州から一度も出ずに
病死したイニエ王(イクメ大王の父君)を大和の大王に格上げして「ミマ来入彦イニエ大王」とでっち上げて
任那からイニエ王がやってきた事にしています。
しかし 任那ができたのは ソツ彦大王とオキナガ姫の三韓征伐が成功したずっと後の話なのです。
また不比等や持統たちは、魏書に何度も登場している「ヒミコ」を無視し続けていますが、どうも
神功皇后をヒミコと思わせようとしていたのではないでしょうか。武内宿禰が偽書に何回も書かれていますが
彼を300年以上長生きさせて 息長姫の時代まで活躍させたのは その表れだと思います。
※偽書では武内宿禰を載斯烏越(さいしうえつ)と書いていますが戴斯烏越(たいしうえつ)の戴と載の写し間違いと思われます。
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襲津彦大王の活躍舞台の変遷を曽祖父の武内宿禰からまとめました。
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記紀ではホムタ大王は息長姫と中津彦の子だとしていますが、ホムタ皇子が生まれたのは三韓征伐の後なので
当然 ホムタ大王の父親は息長姫と講堂を共にしていた襲津彦大王です。
しかし実際のホムタ皇子は7歳にして夭折されました。息長姫は困り果てられました。お世継ぎが居ないと
新羅が年貢の支払いをしなくなるのは目に見えているからです。
そこで親交のあった上毛野国造家の竹葉瀬ノ君が同じ7歳と知り 秘密裏に呼び寄せて息長家の皇子としました。
竹葉瀬ノ君は 宇佐豊玉姫が生んだ 豊彦(記紀では豊鍬入彦と書かれた)がイクメ大王に追われて東へ逃げた
子孫です。その話を聴いて 一番喜んだのが 宇佐八幡宮です。宇佐豊玉姫の子孫から大王がでたのです。
もともと宇佐八幡宮は 豊玉姫(魏書でヒミコと書かれた一番最初の姫)を祀っていたが その竹葉瀬ノ君の話を聴いて
急遽ホムタ大王とおまけにホムタ大王の母親とされる 息長姫を祀り 現在も主祭神 はこのお三方です。
一般的には 宇佐八幡と何の関係も無い ホムタ大王、息長姫が主祭神 に成っているのは こんな意味があったのです。
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また襲津彦大王の弟武内臣若子の娘岩野姫はオオサザキ大王(仁徳)の皇后となり、イザホワケ大王をお生みになった。
それで当分ソツ彦王家が続くのです。
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稲葉神社について
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三韓征伐の準備中、襲津彦王は親族の住む紀州、日向はもちろんの事、尾張や丹波但馬若狭で勢力を持つ
名門海部家の建振熊(たてふるくま)宿禰からも協力を取り付けて 多くの漁船軍船を集めました。
その途中 この地に立ち寄り稲葉山の麓にある金亀にある祖先の墓所にお参りしたあと この地に旗を立てて
戦勝を祈ったといわれます。それがこの稲葉神社のはじまりです。
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稲葉神社の表参道は分かりづらくて 近寄れませんでした。裏側には大きな道路が走っていて、隣には稲葉小学校が
あり、そこの駐車場に勝手に車を止めさせてもらいました。ごめんなさい。
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境内は比較的広く、良く整備されていました。
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拝殿です。近所の方が何人か御参りされていました。
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本殿です。残念ながら大社造りではありませんでした。しかし千木は出雲式の竪削ぎなので安心しました。
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本殿と拝殿の間に 大きな石があります。
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説明書きを読むと なんと武内宿禰が 三韓征伐のときにこの地に旗を奉納して 戦勝を祈願したときに腰掛けた石だとあります。
まあでっち上げの記紀の内容に従っているので しょうがないですが武内宿禰の曾孫の襲津彦の活躍が
武内宿禰と混同して書かれているのは 理解出来ませんね。おまけに武内宿禰は 玄孫(やしゃご)のホムタ大王にも
仕えたと書いているので三百年以上も生きた事になるのです。もう少しまともな嘘を並べれば良いのに 記紀の編集者は
なにか 思惑があってそうしたのでしょうね。作者の太安万侶も出雲王家の血を引くお方ですから 何かしら暗示
したかったのでしょう。
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境内には変わったものがありました。古代出雲の 鳥居の原型です。二本の丸太を立てて その間に注連縄を渡すものです。
やがて幸の神三神信仰が盛んになると 三つ鳥居に変化します。
※ 三つ鳥居は 出雲市長浜神社や奈良県櫻井市檜原神社に現存します。
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次は白兎神社です。
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その2 稲葉神社 日向襲津彦が三韓征伐の折に戦勝を祈念してこの地に旗を立てたのが始まりとされる。
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三韓征伐について
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オキナガタラシ姫(息長帯姫)は 1世紀後半に朝鮮半島辰韓から渡来した辰韓の王子ヒボコの子孫です。
ヒボコは最初出雲王朝の直轄地に上陸しようとしたが、出雲の法律を守る事を拒否したため 出雲王に
上陸を拒否され、当時誰も住めなかった 丹波円山川上流の湿地帯に上陸し 苦労して開拓したという。
オキナガ姫はイクメ大王の孫 ワカタラシ大王の后になり、後の贈り名は神功皇后です。
そのとき辰韓が滅び新羅となりました。オキナガ姫皇后は新羅に対し辰韓の財産の分与を要求したが拒否されました。
夫君のワカタラシ大王に朝鮮出兵を持ちかけるが拒否されます。そのあとワカタラシ大王は戦死される。
そこでオキナガ姫は豊前中津彦に相談されるが これも拒否されて かつ中津彦も戦死する。
記紀はイクメ大王に始まる物部王朝が三代で終わった事を隠すため中津彦を大王に格上げして「仲哀」としているが
豊前中津彦は大王ではなく、オキナガ姫皇后の部下で 単なる豊前の豪族の王です。
次にオキナガ姫皇后は日向ソツ彦に相談されてソツ彦は 朝鮮出兵を快諾されます。
ソツ彦大王は初代大和大王「天の村雲大王」の異母弟高倉下(たかくらじ)の子孫の武内宿祢のひ孫で
武内臣ソツ彦といい 日向の王となられていたので日向襲津彦とも呼ばれていました。
高倉下の母姫は出雲王家の大屋姫だからソツ彦大王も当然出雲王家の血を引くお方なので臣を名乗っておられたのです。
襲津彦王は華麗な人脈を生かして紀伊家、尾張家、丹波海部家など全国から水軍を組織して三韓征伐の総大将となり、
朝鮮半島に向われた。
海上を埋め尽くした夥しい軍船を見た新羅王は戦わずして降伏したという。その後百済も降伏させたという。
三韓征伐に大成功を収めた結果、和国には朝鮮から莫大な税が入ってくるようになった。
そして襲津彦王は大和に凱旋し 大王となられた。
そして でっち上げの歴史小説である 記紀は 物部王朝を長く存在したように見せるため、九州から一度も出ずに
病死したイニエ王(イクメ大王の父君)を大和の大王に格上げして「ミマ来入彦イニエ大王」とでっち上げて
任那からイニエ王がやってきた事にしています。
しかし 任那ができたのは ソツ彦大王とオキナガ姫の三韓征伐が成功したずっと後の話なのです。
また不比等や持統たちは、魏書に何度も登場している「ヒミコ」を無視し続けていますが、どうも
神功皇后をヒミコと思わせようとしていたのではないでしょうか。武内宿禰が偽書に何回も書かれていますが
彼を300年以上長生きさせて 息長姫の時代まで活躍させたのは その表れだと思います。
※偽書では武内宿禰を載斯烏越(さいしうえつ)と書いていますが戴斯烏越(たいしうえつ)の戴と載の写し間違いと思われます。
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襲津彦大王の活躍舞台の変遷を曽祖父の武内宿禰からまとめました。
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記紀ではホムタ大王は息長姫と中津彦の子だとしていますが、ホムタ皇子が生まれたのは三韓征伐の後なので
当然 ホムタ大王の父親は息長姫と講堂を共にしていた襲津彦大王です。
しかし実際のホムタ皇子は7歳にして夭折されました。息長姫は困り果てられました。お世継ぎが居ないと
新羅が年貢の支払いをしなくなるのは目に見えているからです。
そこで親交のあった上毛野国造家の竹葉瀬ノ君が同じ7歳と知り 秘密裏に呼び寄せて息長家の皇子としました。
竹葉瀬ノ君は 宇佐豊玉姫が生んだ 豊彦(記紀では豊鍬入彦と書かれた)がイクメ大王に追われて東へ逃げた
子孫です。その話を聴いて 一番喜んだのが 宇佐八幡宮です。宇佐豊玉姫の子孫から大王がでたのです。
もともと宇佐八幡宮は 豊玉姫(魏書でヒミコと書かれた一番最初の姫)を祀っていたが その竹葉瀬ノ君の話を聴いて
急遽ホムタ大王とおまけにホムタ大王の母親とされる 息長姫を祀り 現在も主祭神 はこのお三方です。
一般的には 宇佐八幡と何の関係も無い ホムタ大王、息長姫が主祭神 に成っているのは こんな意味があったのです。
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また襲津彦大王の弟武内臣若子の娘岩野姫はオオサザキ大王(仁徳)の皇后となり、イザホワケ大王をお生みになった。
それで当分ソツ彦王家が続くのです。
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稲葉神社について
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三韓征伐の準備中、襲津彦王は親族の住む紀州、日向はもちろんの事、尾張や丹波但馬若狭で勢力を持つ
名門海部家の建振熊(たてふるくま)宿禰からも協力を取り付けて 多くの漁船軍船を集めました。
その途中 この地に立ち寄り稲葉山の麓にある金亀にある祖先の墓所にお参りしたあと この地に旗を立てて
戦勝を祈ったといわれます。それがこの稲葉神社のはじまりです。
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稲葉神社の表参道は分かりづらくて 近寄れませんでした。裏側には大きな道路が走っていて、隣には稲葉小学校が
あり、そこの駐車場に勝手に車を止めさせてもらいました。ごめんなさい。
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境内は比較的広く、良く整備されていました。
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拝殿です。近所の方が何人か御参りされていました。
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本殿です。残念ながら大社造りではありませんでした。しかし千木は出雲式の竪削ぎなので安心しました。
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本殿と拝殿の間に 大きな石があります。
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説明書きを読むと なんと武内宿禰が 三韓征伐のときにこの地に旗を奉納して 戦勝を祈願したときに腰掛けた石だとあります。
まあでっち上げの記紀の内容に従っているので しょうがないですが武内宿禰の曾孫の襲津彦の活躍が
武内宿禰と混同して書かれているのは 理解出来ませんね。おまけに武内宿禰は 玄孫(やしゃご)のホムタ大王にも
仕えたと書いているので三百年以上も生きた事になるのです。もう少しまともな嘘を並べれば良いのに 記紀の編集者は
なにか 思惑があってそうしたのでしょうね。作者の太安万侶も出雲王家の血を引くお方ですから 何かしら暗示
したかったのでしょう。
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境内には変わったものがありました。古代出雲の 鳥居の原型です。二本の丸太を立てて その間に注連縄を渡すものです。
やがて幸の神三神信仰が盛んになると 三つ鳥居に変化します。
※ 三つ鳥居は 出雲市長浜神社や奈良県櫻井市檜原神社に現存します。
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次は白兎神社です。
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