4.石上神社(いそのかみじんじゃ)
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参道を歩いて行く。広く長い参道だ。
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鳥居をくぐってさらに歩いていく。
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珍しい種類の鶏がたくさん歩きながら 大きな声で鳴いている。
記紀の御伽噺では太陽の女神イザナミ(ヒバス姫がモデルといわれている)がスサノオの乱暴に困り
岩戸にかくれてしまい、世の中が真っ暗になったという。そこでなんとかしてイザナミを岩戸から
出てきてもらうべく、鶏を無理に鳴かせて朝がきたとイザナミに勘違いさせようとしたという。
そんな作り話をモデルにして 鶏を神の使いとして たくさん放しているらしい。
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楼門にやってきた。
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門の前に立つと拝殿が見える。
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楼門を潜り、回廊から境内を見たところ。正面に見えるのが拝殿である。
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この神社の神宝とされる七支刀は有名で、百済から献上されたという。説明文があり、剣に銘文が
象嵌してありそれを読み解くと 日本書紀の年代を訂正する必要がある云々と書いてある。
詳しい事はよく読めなかったが もともと嘘で固めた記紀だから訂正するもないだろうと思うけど。
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境内には出雲建雄神社というのがあり、その祭神を見てびっくりした。
主祭神は「天の村雲の剣の御霊」と書いてある。
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天の村雲の剣とは 大王家の三種の神器の一つで、徐福の長男で五十猛(のちの香語山)の皇子の
天の村雲が初代大和の大王に就任したときに 出雲王家からお祝いに贈られた出雲型の銅剣といわれる。
記紀ではスサノオがヤマタノオロチを退治したときに大蛇の尾から出てきた剣で「草薙の剣」と書き換えられた剣だ。
その剣は幾多の政権交代時に 天の村雲の実家の海部家から分家した尾張家により持ち出されて、今は尾張熱田神宮に安置されているという。
その剣の神霊が出雲建雄神社として 物部初代王朝の地に祭られているのだからびっくりだ。
徐福の長男 五十猛(後の香語山)の皇子天の村雲が初代大和大王となったが、徐福の次男穂穂出見の子孫の
物部家イクメ大王が 村雲の子孫磯城王朝を倒して物部王朝を打ち立てたのに、磯城家の家宝を祀っている
のだから なんかおかしい。まあ元を辿れば 兄弟の親父は徐福なのだから。
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主祭神はフツノ御霊など物部家の霊剣の御霊とされている。架空の大王の神武がどうのこうのとかいてあるので
おそらく記紀ができた後からくっつけた話だろう。
もともとこの神社はイクメ大王が大和入りして大王として政治を行った地なのだ。
また配祀神として「ウマシマジ」、「イニシキ」が書いてありとても驚いた。
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ウマシマジの尊とは架空の皇子である。
九州物部王家の彦渚建王(魏書にも名前が載っている)の長男物部の五瀬(いつせ)を大将に第一次東征が西暦80年頃
に開始される。
瀬戸内海を通り 紀ノ川河口に到着して上陸しようとすると 紀の国の大豪族で
高倉下の子孫たちが猛烈に反撃してきた。大将の五瀬は毒矢で戦死する。
五瀬の弟たち、稲飯と三毛入りたちは南紀へ迂回して新宮に上陸するがここでも高倉下の子孫たちに攻撃されて
熊野川の中洲から身動きできなかったという。そこで大和へ密使を送り登美家の当主に案内を頼む。
登美家当主 加茂建津野身は 戦乱に明け暮れている大和の平定統一を物部軍と共に行おうと決心する。
そこで加茂建津乃身が出向いて物部軍を先導して今の国道169号線沿いに大和入りし 登美家の領地の
磐余(いわれ)の地に落ち着き 稲飯たちは磐余彦と呼ばれる。
物部軍は登美家の当主に感謝して「ヤタガラス」と崇拝して末代まで感謝したという。
(※当時の支那の神仙思想に基づくヤタガラスの起源に着いては別の機会に説明したいと思います)
つまり 記紀の編集者たちは五瀬亡き後の大将が 稲飯か三毛入りかわからないので「ウマシマジ」という架空の皇子を
考え出したらしい。
(※武内宿禰の異母弟にウマシウチの宿禰と言う人物がいて 記紀の編集者はそれからウマシマジの名前を考え付いたという)
ちなみに私が熊野古道中辺路の熊野灘道を歩いていた時 新宮市の「浜王子神社」に立ち寄るとそこの主祭神は
「稲飯と三毛入」でこのお二人がこの地に上陸されたと書いてあり、びっくり仰天した記憶がある。
記紀のでっち上げの作り話の「神武東征」に毒されていない 歴史の事実が残っていて
しかも神社の由緒書きに堂々と書いてあり大いに感銘を受けた。
記紀ではその150年後の九州物部王家第二次東征(イクメ王ー贈り名は垂仁)
と第一次東征をあわせて「神武東征」と 無茶な作り話を書いた。
そして神武の即位を古代出雲王家初代主王の八井耳の時代(紀元前六世紀)まで引っ張ってさかのぼらせたものだから
各大王の年代がむちゃくちゃになったのだ。150年くらい生きた大王が何人もいらっしゃることになった。
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また「イニシキ」とはイクメ大王の長男でこの方はイクメ大王の王位を後継せず、
次男の「オシロワケ」が大王を継いで「景行」と贈り名をつけられた。
長男のイニシキは河内の国でタタラを行い鉄剣を百振り造り 石上神社に奉納したといわれているお方だ。
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5.大和神社へ続く
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参道を歩いて行く。広く長い参道だ。
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鳥居をくぐってさらに歩いていく。
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珍しい種類の鶏がたくさん歩きながら 大きな声で鳴いている。
記紀の御伽噺では太陽の女神イザナミ(ヒバス姫がモデルといわれている)がスサノオの乱暴に困り
岩戸にかくれてしまい、世の中が真っ暗になったという。そこでなんとかしてイザナミを岩戸から
出てきてもらうべく、鶏を無理に鳴かせて朝がきたとイザナミに勘違いさせようとしたという。
そんな作り話をモデルにして 鶏を神の使いとして たくさん放しているらしい。
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楼門にやってきた。
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門の前に立つと拝殿が見える。
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楼門を潜り、回廊から境内を見たところ。正面に見えるのが拝殿である。
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この神社の神宝とされる七支刀は有名で、百済から献上されたという。説明文があり、剣に銘文が
象嵌してありそれを読み解くと 日本書紀の年代を訂正する必要がある云々と書いてある。
詳しい事はよく読めなかったが もともと嘘で固めた記紀だから訂正するもないだろうと思うけど。
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境内には出雲建雄神社というのがあり、その祭神を見てびっくりした。
主祭神は「天の村雲の剣の御霊」と書いてある。
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天の村雲の剣とは 大王家の三種の神器の一つで、徐福の長男で五十猛(のちの香語山)の皇子の
天の村雲が初代大和の大王に就任したときに 出雲王家からお祝いに贈られた出雲型の銅剣といわれる。
記紀ではスサノオがヤマタノオロチを退治したときに大蛇の尾から出てきた剣で「草薙の剣」と書き換えられた剣だ。
その剣は幾多の政権交代時に 天の村雲の実家の海部家から分家した尾張家により持ち出されて、今は尾張熱田神宮に安置されているという。
その剣の神霊が出雲建雄神社として 物部初代王朝の地に祭られているのだからびっくりだ。
徐福の長男 五十猛(後の香語山)の皇子天の村雲が初代大和大王となったが、徐福の次男穂穂出見の子孫の
物部家イクメ大王が 村雲の子孫磯城王朝を倒して物部王朝を打ち立てたのに、磯城家の家宝を祀っている
のだから なんかおかしい。まあ元を辿れば 兄弟の親父は徐福なのだから。
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主祭神はフツノ御霊など物部家の霊剣の御霊とされている。架空の大王の神武がどうのこうのとかいてあるので
おそらく記紀ができた後からくっつけた話だろう。
もともとこの神社はイクメ大王が大和入りして大王として政治を行った地なのだ。
また配祀神として「ウマシマジ」、「イニシキ」が書いてありとても驚いた。
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ウマシマジの尊とは架空の皇子である。
九州物部王家の彦渚建王(魏書にも名前が載っている)の長男物部の五瀬(いつせ)を大将に第一次東征が西暦80年頃
に開始される。
瀬戸内海を通り 紀ノ川河口に到着して上陸しようとすると 紀の国の大豪族で
高倉下の子孫たちが猛烈に反撃してきた。大将の五瀬は毒矢で戦死する。
五瀬の弟たち、稲飯と三毛入りたちは南紀へ迂回して新宮に上陸するがここでも高倉下の子孫たちに攻撃されて
熊野川の中洲から身動きできなかったという。そこで大和へ密使を送り登美家の当主に案内を頼む。
登美家当主 加茂建津野身は 戦乱に明け暮れている大和の平定統一を物部軍と共に行おうと決心する。
そこで加茂建津乃身が出向いて物部軍を先導して今の国道169号線沿いに大和入りし 登美家の領地の
磐余(いわれ)の地に落ち着き 稲飯たちは磐余彦と呼ばれる。
物部軍は登美家の当主に感謝して「ヤタガラス」と崇拝して末代まで感謝したという。
(※当時の支那の神仙思想に基づくヤタガラスの起源に着いては別の機会に説明したいと思います)
つまり 記紀の編集者たちは五瀬亡き後の大将が 稲飯か三毛入りかわからないので「ウマシマジ」という架空の皇子を
考え出したらしい。
(※武内宿禰の異母弟にウマシウチの宿禰と言う人物がいて 記紀の編集者はそれからウマシマジの名前を考え付いたという)
ちなみに私が熊野古道中辺路の熊野灘道を歩いていた時 新宮市の「浜王子神社」に立ち寄るとそこの主祭神は
「稲飯と三毛入」でこのお二人がこの地に上陸されたと書いてあり、びっくり仰天した記憶がある。
記紀のでっち上げの作り話の「神武東征」に毒されていない 歴史の事実が残っていて
しかも神社の由緒書きに堂々と書いてあり大いに感銘を受けた。
記紀ではその150年後の九州物部王家第二次東征(イクメ王ー贈り名は垂仁)
と第一次東征をあわせて「神武東征」と 無茶な作り話を書いた。
そして神武の即位を古代出雲王家初代主王の八井耳の時代(紀元前六世紀)まで引っ張ってさかのぼらせたものだから
各大王の年代がむちゃくちゃになったのだ。150年くらい生きた大王が何人もいらっしゃることになった。
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また「イニシキ」とはイクメ大王の長男でこの方はイクメ大王の王位を後継せず、
次男の「オシロワケ」が大王を継いで「景行」と贈り名をつけられた。
長男のイニシキは河内の国でタタラを行い鉄剣を百振り造り 石上神社に奉納したといわれているお方だ。
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5.大和神社へ続く
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