旧出雲王国領の稲葉(因幡)の国を歩く その1宇部神社
古代出雲王国は紀元前6世紀頃成立し、当時和国で唯一の王国でした。
特に第七代主王(役職名は大名持ち)の臣津野(おみつぬ)の時代は
領土が大きく広がり、臣津野は「国引き王」と尊敬されました。
上の絵は「国来(くにこ)、国来(くにこ)」と人々を励まして 国土を引き寄せる臣津野王です。
(臣津野を祀る 出雲市長浜神社)
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当時は東は越の国(第八代副王 八重波津身に御輿入れされた沼川姫も越の国の方です。)から西は
宗像王国(臣津野王の皇子吾田片隅が移住して造りました)まで広範囲でした。当然伯耆、稲葉の国も
出雲王国でした。
当時の出雲王国は 各地を武力で制圧したのではなくて、国教「幸の神三神」の信仰を媒体にして各地の豪族を
束ねた宗教国家でした。
その稲葉の国の出雲王国の名残を尋ねます。
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その1 宇部神社 武内宿禰が住んだ場所が起源の神社
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記紀で武内宿禰と書かれた 武内臣太田根(たけしうちのおみ おおたね)はもともと物部武内彦だった。
西暦232年頃 九州物部王家のイ二エ王(記紀では崇神)が大和の磯城王家を倒すべく東征を開始して
とりあえず日向に 都萬王国を立て宇佐王家の宇佐豊玉姫(魏書ではヒミコとかかれた)と都萬宇佐連合王国を
打ち立てて 東征の準備に掛かり、各地から旧物部家の重鎮を呼び寄せ始めた。
紀の国にいた 物部彦布都押も息子の物部武内彦と共にかけつけた。才能溢れる武内彦はイ二エ王にかわいがられて
物部家の重鎮の称号「宿禰(すくね)」を貰う。このときから武内宿禰家を名乗る。
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しかし宇佐豊玉姫はイ二エ王の皇子イクメ(記紀では垂仁)やわが子豊彦(記紀では豊鍬入彦)より武内宿禰が
頭角を現すのを恐れた。 魏へ何回も献朝に行った武内宿禰、田道間守、イクメ皇子のうち 渡来朝鮮人の子孫但馬の
田道間守やイクメ王(魏書ではイサチと書かれた)は魏から中朗将という役職をもらっているのに ヒミコが親書に
何も書かなかったばかりに武内宿禰は 無官のままだった。
失望した武内宿禰は 東征戦争のさなかに イクメ軍を裏切り 磯城王朝側に付く。しかし磯城王朝軍はイクメ軍
に破れて 最後の磯城王家彦道主大王は娘のヒバス姫をイクメ王に差し出して 降伏し稲葉国造として 武内宿禰と共に
稲葉の国に住む。この時点でイクメ王は 名実共に大和の大王となり、石上神社で執政を行う。
武内宿禰はこの地に暮らしていたが ある日ヒバス姫皇后から「イクメ大王が武内宿禰に刺客を放った」と連絡を受けて
衣服を農民の姿に変えて 直ちに 旧出雲王家の向井家に助けを請う。向井家は武内宿禰を匿い 意宇の森に住まわせて
王家の娘を嫁がせて 出雲王家の称号 「臣」を与え 武内の臣太田根と名乗り意宇の森で生涯を終える。
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この旧出雲王家が武内宿禰の命を救った事が 後の和国の歴史に大きな影響を与えます。
息長帯姫(おきながたらしひめ記紀では神功皇后)と共に三韓征伐に大成功して 大君となった襲津彦王やその後の
ホムタ大王、(記紀では応神)、オオサザキ大王(記紀では仁徳)やそれに続く魏書にいう和の五王などの大王や
蘇我臣家、平群臣家などの王族や豪族を生み出し 和国の歴史を動かすのです。
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武内宿禰の系列です。和国の中心となる錚々たる人物の祖先です。
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宇部神社参道入口です。一宮なので恐らくここら当たりに一の鳥居があったのではないでしょうか。
私の個人的な感想ですが。
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これが現在の一の鳥居です。昔は二の鳥居だったのかもしれません。
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現在の二の鳥居です。この鳥居を潜ると長い石段へ続きます。
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長い石段を登ると
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なにやら大きな垂れ幕が掛かっていました。酉年にちなみ鳥戦ーちょうせんと読むのでしょう。
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広い境内です。
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拝殿の前には 御所に似せて右近の橘、左近の桜が植わっていました。武内宿禰から沢山の大王が輩出した事
を暗示しているのでしょう。ちなみに左近の桜は枯れたのか、今は三春の滝桜の娘桜が植わっていました。
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拝殿とそれに続く本殿です。
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残念ながら 本殿は大社造りではありませんでした。しかし千木は出雲式の縦削ぎです。
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拝殿のちょうちんの菊の紋も大王の祖先を暗示しているのでしょう。
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境内の池と赤い端の由緒は不明でした。
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拝殿から境内を見たところです。この右手に面白いものがあるので見に行きました。
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宇部神社の由緒書きです。作り話の記紀のとおりです。五代の大君に使えて齢360歳で あの世へ旅立ったとか、
応神の成長を見守ったとか、デタラメブリに笑ってしまいますね。360歳まで生きた人間が古今東西いるのでしょうか。
応神の父親は襲津彦大王です。記紀ももう少しまともな嘘を造ればいいのに。
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其処から少し丘を登ると双履石成るものがありました。武内宿禰が履いていた草履をここに脱いであの世へ旅立ったそうです。
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武内宿禰は イクメ大王が放った刺客のことを聞くと 急いで衣服と草履を脱ぎ捨てて 農民の姿に変装して
出雲の向家へ逃れました。その草履が石になったそうです。
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神社の脇の山道を進むと伊福吉部徳足姫の墓所があるというのでいってみました。
たまたま通りかかった地元の方に道を聞くと「ここから歩いていくとお墓だが、今は放置された梨畑の
有刺鉄線や倒木が道を塞ぎ 人間は通れないよ。猪の巣だけん」と言われました。
少し進みましたがあまりにも酷い状態で 進めませんでした。
伊福吉部家は宇部神社の社家で 出雲王家の親戚で、徳足姫は文武天皇に采女として仕え従7位の官位を貰っていたと
墓碑に書いてあるそうです。
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次は稲葉神社です。
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古代出雲王国は紀元前6世紀頃成立し、当時和国で唯一の王国でした。
特に第七代主王(役職名は大名持ち)の臣津野(おみつぬ)の時代は
領土が大きく広がり、臣津野は「国引き王」と尊敬されました。
上の絵は「国来(くにこ)、国来(くにこ)」と人々を励まして 国土を引き寄せる臣津野王です。
(臣津野を祀る 出雲市長浜神社)
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当時は東は越の国(第八代副王 八重波津身に御輿入れされた沼川姫も越の国の方です。)から西は
宗像王国(臣津野王の皇子吾田片隅が移住して造りました)まで広範囲でした。当然伯耆、稲葉の国も
出雲王国でした。
当時の出雲王国は 各地を武力で制圧したのではなくて、国教「幸の神三神」の信仰を媒体にして各地の豪族を
束ねた宗教国家でした。
その稲葉の国の出雲王国の名残を尋ねます。
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その1 宇部神社 武内宿禰が住んだ場所が起源の神社
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記紀で武内宿禰と書かれた 武内臣太田根(たけしうちのおみ おおたね)はもともと物部武内彦だった。
西暦232年頃 九州物部王家のイ二エ王(記紀では崇神)が大和の磯城王家を倒すべく東征を開始して
とりあえず日向に 都萬王国を立て宇佐王家の宇佐豊玉姫(魏書ではヒミコとかかれた)と都萬宇佐連合王国を
打ち立てて 東征の準備に掛かり、各地から旧物部家の重鎮を呼び寄せ始めた。
紀の国にいた 物部彦布都押も息子の物部武内彦と共にかけつけた。才能溢れる武内彦はイ二エ王にかわいがられて
物部家の重鎮の称号「宿禰(すくね)」を貰う。このときから武内宿禰家を名乗る。
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しかし宇佐豊玉姫はイ二エ王の皇子イクメ(記紀では垂仁)やわが子豊彦(記紀では豊鍬入彦)より武内宿禰が
頭角を現すのを恐れた。 魏へ何回も献朝に行った武内宿禰、田道間守、イクメ皇子のうち 渡来朝鮮人の子孫但馬の
田道間守やイクメ王(魏書ではイサチと書かれた)は魏から中朗将という役職をもらっているのに ヒミコが親書に
何も書かなかったばかりに武内宿禰は 無官のままだった。
失望した武内宿禰は 東征戦争のさなかに イクメ軍を裏切り 磯城王朝側に付く。しかし磯城王朝軍はイクメ軍
に破れて 最後の磯城王家彦道主大王は娘のヒバス姫をイクメ王に差し出して 降伏し稲葉国造として 武内宿禰と共に
稲葉の国に住む。この時点でイクメ王は 名実共に大和の大王となり、石上神社で執政を行う。
武内宿禰はこの地に暮らしていたが ある日ヒバス姫皇后から「イクメ大王が武内宿禰に刺客を放った」と連絡を受けて
衣服を農民の姿に変えて 直ちに 旧出雲王家の向井家に助けを請う。向井家は武内宿禰を匿い 意宇の森に住まわせて
王家の娘を嫁がせて 出雲王家の称号 「臣」を与え 武内の臣太田根と名乗り意宇の森で生涯を終える。
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この旧出雲王家が武内宿禰の命を救った事が 後の和国の歴史に大きな影響を与えます。
息長帯姫(おきながたらしひめ記紀では神功皇后)と共に三韓征伐に大成功して 大君となった襲津彦王やその後の
ホムタ大王、(記紀では応神)、オオサザキ大王(記紀では仁徳)やそれに続く魏書にいう和の五王などの大王や
蘇我臣家、平群臣家などの王族や豪族を生み出し 和国の歴史を動かすのです。
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武内宿禰の系列です。和国の中心となる錚々たる人物の祖先です。
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宇部神社参道入口です。一宮なので恐らくここら当たりに一の鳥居があったのではないでしょうか。
私の個人的な感想ですが。
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これが現在の一の鳥居です。昔は二の鳥居だったのかもしれません。
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現在の二の鳥居です。この鳥居を潜ると長い石段へ続きます。
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長い石段を登ると
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なにやら大きな垂れ幕が掛かっていました。酉年にちなみ鳥戦ーちょうせんと読むのでしょう。
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広い境内です。
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拝殿の前には 御所に似せて右近の橘、左近の桜が植わっていました。武内宿禰から沢山の大王が輩出した事
を暗示しているのでしょう。ちなみに左近の桜は枯れたのか、今は三春の滝桜の娘桜が植わっていました。
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拝殿とそれに続く本殿です。
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残念ながら 本殿は大社造りではありませんでした。しかし千木は出雲式の縦削ぎです。
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拝殿のちょうちんの菊の紋も大王の祖先を暗示しているのでしょう。
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境内の池と赤い端の由緒は不明でした。
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拝殿から境内を見たところです。この右手に面白いものがあるので見に行きました。
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宇部神社の由緒書きです。作り話の記紀のとおりです。五代の大君に使えて齢360歳で あの世へ旅立ったとか、
応神の成長を見守ったとか、デタラメブリに笑ってしまいますね。360歳まで生きた人間が古今東西いるのでしょうか。
応神の父親は襲津彦大王です。記紀ももう少しまともな嘘を造ればいいのに。
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其処から少し丘を登ると双履石成るものがありました。武内宿禰が履いていた草履をここに脱いであの世へ旅立ったそうです。
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武内宿禰は イクメ大王が放った刺客のことを聞くと 急いで衣服と草履を脱ぎ捨てて 農民の姿に変装して
出雲の向家へ逃れました。その草履が石になったそうです。
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神社の脇の山道を進むと伊福吉部徳足姫の墓所があるというのでいってみました。
たまたま通りかかった地元の方に道を聞くと「ここから歩いていくとお墓だが、今は放置された梨畑の
有刺鉄線や倒木が道を塞ぎ 人間は通れないよ。猪の巣だけん」と言われました。
少し進みましたがあまりにも酷い状態で 進めませんでした。
伊福吉部家は宇部神社の社家で 出雲王家の親戚で、徳足姫は文武天皇に采女として仕え従7位の官位を貰っていたと
墓碑に書いてあるそうです。
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次は稲葉神社です。
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