アウトドアライフの記録

四季それぞれに あちこちの山に登ったり、桜や紅葉の写真、および南の島の記録を写真とともに整理して、ブログにまとめました。

古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて松江市山代二子塚古墳と安来市荒島の王陵の丘 2015年1月21日

2015-02-14 11:32:32 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて
6世紀のヒロニワ大王の時代に 出雲王家の向山代彦が亡くなった。
そのときの葬儀に 勅旨として「日置志毘」が参列したという。

彼はそのまま出雲王家領内にとどまり、ヒロニワ大王(欽明)の指示で
古墳の造営をしたという。

ヒロニワ大王の父君はオホド大王(継体)で オホドは元来出雲王家の人で「オホドの君」と呼ばれていたが
越の国の蘇我の刀自に婿養子に行った。

その後三国国造として越の国を発展させ、当時の若狭、近江から越後にかけての
出雲王家の血筋を引く「蘇我、道連合王国」の盟主的存在となる。

そして 大和の平群王朝が途絶えたときに大和の豪族たちに請われて 大和大王となった方である。

蘇我氏の祖先は初代大和大王「天の村雲」の弟「高倉下」であり、その母親は出雲王家の「大屋姫」だ。

高倉下の子孫の「武内宿禰」がイクメ大王に反旗を翻して破れ 逃げたときに出雲王家はかくまったという。
武内宿禰の終焉の地が松江市の「武内神社」となっている。

そんないきさつで オホド大王やヒロニワ大王は 出雲王家に感謝の気持ちを持ち続けたという。

日置志毘の子孫も出雲に住み続け、向井家やその分家、また西出雲王家「神門臣家」の王陵を
次々と作りつづけたという。

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山代二子塚古墳の入口である。
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全体像である。
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反対側の南側から見た全体像でも 小高い丘にしか見えない。
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これが古墳完成時の復元創造図らしい。
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古墳の調査をする前の航空写真らしい。周りに民家が 古墳に喰らい付くように 建っている。
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古墳の東側は古墳断面が見えるように建物で覆われている。
戦時中に 陸軍が古墳の一部を削り取ったという。しかし石室は無事で未調査らしい。
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古墳の南側に「資料館がある。午後4時半まで営業しているが 私は4時半過ぎに訪れた。
親切な館長さんが わざわざ閉めた扉と断層見学質の扉を開けて見せてくださった。
有り難うございます。
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資料館の中の石室のレプリカ。
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この石室は近くの向山古墳の石室のレプリカだそうだ。
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山代二子塚古墳の近くに「風土記の丘」がある。この周りの古墳が案内されている。
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風土記の丘の屋上展望台から見える古墳「岡田山古墳」も向家の分家の古墳だとか。
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王陵の丘
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まず造山古墳へ行ってみた。ここの古墳群は1号墳から4号墳までが 散策公園になっている。
この写真は1号墳の全体像だ。ゆっくりと見て回る。
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1号墳の頂からは眼下に「王の海」(中海)が広がる。
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次に塩津神社へ行く。この神社は塩津古墳群の足元にあり、下は古墳の一部だったと思われる。
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何時の時代なのか、古墳の一部が削られて石室が露出している。
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石室の中は覗けるようになっている。石の加工技術が高く、石の接する面は密着している。凄い高度の技術だ。
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1号墳に登ってみた。側面には葺き石がしてある。
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海側の2面だけ葺き石がしてあったそうだ。
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葬儀の儀式に用いられた土器はそのまま墳丘墓の上に置かれていたそうだ。
この古墳の真下を山陰道がトンネルで貫いている。まだ未発掘だそうだ。
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1号墳から4号墳を見たところ。4号墳は小型の円墳だ。
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この荒島地区の古墳群も時期的に、日置志毘の子孫が東出雲王家の分家のために築いたものと思われる。

出雲に住み着いた日置志毘は 出雲王家から姫を嫁にもらい 「臣おみ」の性を名乗ることを許されたとか。

日置の臣志毘の子孫たちは 西出雲王家の墳墓をも 王家の谷西谷に次々と築いたという。

蘇我王朝の直接の祖先は 高倉下の母君、西出雲王家の大屋姫なのだから。
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コメント (1)
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