怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

パズル

2005-10-30 23:28:42 | 戯言
大学時代からの友人Y氏と久しぶりに話をした。
彼とは長い付き合いになる。私の子どももよくなついている。
実のところは身体がしんどくて、子守りがつらくて家に呼び出したのだ。
元気のでない姿で迎えたので、彼には悪かったが、(さらに一方的で悪い友だが)話ができてよかった。

彼は教員ではない。
また、非常に社会的な話でバランス感覚がとれた意見を言ってくれる人である。
そういったことで、いきおい色々な話を聞いてもらっている。
彼もそんな私の癖を知っていてつき合ってくれるのだからありがたいことだ。

さて、感謝しながら本題にうつろう。
彼と話をしていて稀にパズルがそろうときがある。
今回はチェックまではいってもメイトまではいかなかったが、自分がなぜ教育のシステムにこだわるのかが分かった気がする。
昨今の教育施策に対する将来の見通しへの不安、恐怖は拭えない。
そして、周りで不要に疲れている人々、志半ばで倒れていく人々。
ewoman(イーウーマン)の陰山氏の対談でも、彼の動機の一つにも、そんな声を失った人々のことがあります。
(彼の著書でも繰り返し出てくる話ですね)
Y氏に残してしまったであろう疑問の答えの一つはここにもあるなと思う。

ときに、教育実践や教師の生活から離れて、なぜこんなに教育施策について思い悩まなければならないのか、自問自答していることがある。

今ひとつ、最近の報道に関して、教育ニュース観察日記ブログのカラさんのお話。
ここまでいくとレベルが違う話になるなぁというのが所感。
でも、気をつけたい所だ。

給与問題で、自分なりに結論をつけていることを書いて今日は終わろう。
私自身は給与が高い低いの論議は、どれもこれも相対論を出ていないし、歴史的な経過も正確に追い切れていないものが多いので、くみしない。
それよりも給与を下げることはかまわないが、同時に教職員の仕事の実際を改善する努力を怠ってきた文科省役人、教育委員会の犯罪行為は同時に処罰してほしい。
そして、多分、私の場合、給与以上の努力は断固拒否する立場に立つだろう。
なぜなら、仕事の評価を給与に転化してくれとは全然思わないが、評価以前で無用に給与を引き下げるのであれば、それよりも以前に立ち返り、給与の意味を問うてもいいと考えるからだ。
正当に評価され(これは実はそれほどいらないが)、教育活動がストレスなく行える実情が必要だと思う。
そのためであれば給与が引き下げられようと全然教職員のモチベーションは下がらないと思う。
労働組合が文句をいわないか?
人事院勧告を無視しているのに、すでに組織率が満たない団体の戯言を聞くようなたまか?
そう思う。
「不要な仕事を減らせないか?」と問えば、「手当は出ているだろう!」という暴論で締めくくる管理職もいなくなるしね。

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