怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

英語教育の話(噂程度だが)

2005-10-29 00:30:06 | 教育
飲み会で話題の一つになった。
それはTHE義務教育(小学校編)ブログさんなどでは当然の話題になっている小学校段階の英語教育の話だ。

話の発端は、英会話を習っているF先生が、来年度に英語教育導入に関する検討などへの学校対応担当のようなものになってほしいとの要請があるということだった。(と思う。正式な分掌名などが不詳。)
そこで前任校などでやってきた実践や済美小学校などの研究指定校の実践例、そしてその他の昨今のキーワードを混ぜ込みながらS先生がF先生への資料提供や協力の意志、これからの見通しの持ち方を説明していた。

私はだまって聞いていたのだが、あまりの見通しに対する楽観性や閉鎖的な行動方針を聞くに及んで、思わず口を挟んだ。
一つには、実現のための英語教育自体のハードルはさておいても、現状の英語教育導入にやっきになっている学校の多くは、その他の事情で立ち行かない現状を抱えている。
だから、それほど楽観的に事を進めることはできない。
今一つには、総合的な学習の時間に端を発する教育界の混乱などのこと。
混乱の例としては、学校の安全性を確保するための配慮のことや、カリキュラム的な例では大きくは情報教育など。
その様に常に新たな負担に耐えてきたことと、管理の強化の割には下からの声を聞くシステムのなさは教師側に冷静な判断をさせない要因になっている。
一方、我々教員は末端公務員なだけに、お上のいう事を「ハイハイ。」と聞かなければならないし、極端にそういう状況に追い込まれてきている。
例えば、残業しようが何しようが、手当もないし、教師側の提案でシステムが改善されるわけではない。
すぐに管理職(や、その上層)の思うように引き込まれる。

そんな状況で、「英語教育」を効果的に達成することを現場におろしても実現性は低いだけでなく、実践や理念がいい形で拡大するわけがない。

私の主張は、別に「新しいこと」を「するな!」といっているのではない。
現状のその他の教科・教科外項目についての正当な評価と、英語なら英語の研究をしっかり実現性、再現性の高い教科・単元に完成させてからでも、英語教育導入は遅くないということだ。

この点をS先生に説明していたら、「志が低い」といわれたが、S先生は大きな勘違いをしていると思った。
なんでも末端の教諭が研究を重ねたり、丸投げを請け負ったりしているうちに、子ども達の教育が立ち行かない状況になっているのは自明のハズ。
S先生と話していても、その点はなんとなく共感してもらえそうなのだが、この手の話になると、出世の話とからんで身を乗り出してくる。
それが「志」なのだろうか?
本末転倒ではだめだし、教師の心身をだれが守ってくれるかも問題だと思う。
ましてや教員同士の競争に持ち込んで、この手の具体的な実践についてどうこうしたいという話は、あまり動機不純でつき合えない。
しかも、このての「英語教育!」を叫んでいるのは本来一部の外野であるはずの輩。
そんな場所からもってくる、「これが実践例!これが見通し!これがキーワード!」はあまりにも怪しい。
先のTHE義務教育(小学校編)ブログさんの想像するものとは大きくズレたものだと思う。
すでに教員の人事考課制度は毒を生み出していると感じる。