怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

絶望に効くクスリ(薬)vol.5(小学館)山田玲司

2005-10-18 06:39:21 | 戯言
Vol.4のエントリーを書いた時、もうこの作品のエントリーは書かないつもりで「飽きた」と書いたつもりである。
(へんな言い回しだなぁ)
だけれどもちょっとした理由で書いてしまう。

ブログをやっていて、仕事上、非常に負のエネルギーというかモチベーションというか、そんなものとストレス解消ができるのは実感している。
それとは別に、ネット上らしい人のつながりを実感できるため、ブロガーであることは気持ちがいい。
絶望に効くクスリ(薬)はあるブログのエントリーをきっかけに入手したのだが、そのブログは急になくなってしまったようだ。
結構読ませてもらっていたし、私のブログのブックマークにも載せていたほど気にいっていたのだが・・・。
まあ、ネット上での人間関係の移り変わりというのは波がある。

さて、絶望に効くクスリ(薬)は今度こそ最後のエントリーになるだろう。

漫画作品はその作品自体の中にも旬があると思う。
長い作品は結構後半が大仰になり、「ああ、あがってしまったな」と思うことが少なくない。
そういった意味で「絶望に効くクスリ(薬)」は旬が来ていると思う。
そして、私には、引き出される人に対する興味はあっても、作品に対する興味はなくなってしまった。
毎回、次回予告がのっている単行本なのだが、人に対する興味よりも、作品の「型」が鼻につくようになってしまったから、きっと次巻は買わないと思う。
(それから辻元氏の話を読んでいて思ったのだが、過去を持ち上げてもレトロでしかなく、(薬)にはならないよと。)
(別に辻元氏に恨みはないのはお断りしておく。よほど自民党の嘘つき議員をムショにおくってほしい。)
私には、その昔、漫画作家に投資するように買っていた時代もあったが、そういうことはもうしない。

ちょっと今、思い付いてしまったので話が跳んでしまうが、「私はいつからこの手のものを消費する(だけの)人になったのだろう。」
(どこかでエントリーを起こそうかな)

光と影

2005-10-17 22:36:47 | 教育
3年生の理科で、「かげのでき方」「太陽(光)とかげの関係」「かげの向き」「時間経過による、かげの伸び縮み」などを勉強する。
よくありていの導入で、「かげ遊び」から子どもの気付きを拾い上げる方法がある。
その気付き(事実)を証明・説明させるために、観察・実験へ持ち込む。
最終的には、行われた観察・実験の報告から、科学的事実による実証で単元内容をまとめる。
(もちろん、他の学習過程を設定できるとは思うのだが、今回は学年の相談でこちらの過程を選択してみた)

問題は各実験の目的のとりかたである。
子ども達から出てくる「かげ遊び」からの気付きを元に、教師側のそれとない誘導的な指導も入れながらグループで取り組みやすいようにテーマを抽出していくつかに絞る。
そのテーマに対して学級全体で取り組むのだが、私はその取り組み形式にいくつかの疑問をもったので、全体で取り組むというイメージを持たせずに、個人の興味・関心を基調に取り組ませてみた。
そのやり方だと、はっきりいってテーマはバラバラだけでなく、単元に(直接的には)無関係なものも含まれるが、子どもの気付きを大切にできる点、実験の自由度や発展、単元自体の幅ができる点でよいかなと思ったのだ。

その代わりといっては何だが、実験計画は綿密に立てさせたつもりだ。
幸い、子どもの選択したテーマの中には教科書的な内容にふれるものも出ており、なんとか学習過程を終えられそうだ。
(これが出ないと、実験過程を2度3度と持たなければならなかった・・・)

先に述べた疑問点は「子どもの気付きを大切にできない」点についてだけを懸念しているのではない。
「グループによる実験は子どもの科学的なスキルをアップさせない」とも思ったからだ。
つまり、3人以上そろうと、構造的にだれかさぼってしまう部分が出る。
指導の仕方・技量なのかもしれないが、少なくとも私には難しい。

幸と言おうか不幸と言おうか、ゆったりと個人個人をチェックできる秋雨。
本当は光がなければ影ができない、最高に不適切な季節での単元設定なのだが、なぜか教科書ではこういう設定になってしまっている。

特別支援教育制度

2005-10-16 19:03:28 | 教育
ちょっとすぐに消すかもしれないエントリです。(自信ないなぁ)

小学校長のお仕事さんやTHE義務教育さんや教育ニュース観察日記さんなどの情報で充足している話なのかなと思いつつ、自分の所感だけでも記録の意味で書いておきます。

先日、特別支援教育についての説明が指導主事からありました。
養護学校の教諭を帯同しての、しっかりとした時間設定のものでした。
あまりのことに呆然として、またこの指導主事じゃぁ・・・と突っ込むの意欲もでませんでした。
(この指導主事の話の下手さ加減は、以前、どこかに書いた覚えがある。)

理念は確かに素晴らしいです。そのことはわかりました。
が、説明では、「かかる人は実質減ります、お金は出しません(ありません)、ノウハウを学ぶ機会はこれから考えます、早く担当者を設定してください。」という内容でした。

実は、このことに当たって、昨年度に生活指導部で名前だけの担当者を決めたのでした。
周囲の自治体の動きを見てからやってみたいとのことでしたが、こうやって迫られるような説明を受けると、あまりの「無策」「丸なげ」の現状に唖然とします。
おそらく周囲の自治体の様子を参考にしても、この自治体では予算的な縛りがきつく、真似することもできないでしょう。
そして、「また(丸なげ)か」の様相がジワジワと広がっていきます。

この特別支援教育でどれだけ現状よりも有為に子どもが救われるかは、現状の冷静な評価・判断がある一方で、当事者を中心にして、多様な方策を探る中で考えるのがベストだと思うのですが、そういうこととはほど遠そうです。
学力問題だ、暴力だ、不登校だと騒がれる中で、こういった施策を降らせて、だれが説明責任や実施の責任をとるのか考えてほしいものだと思います。
「呑気な定年前管理職や指導主事、現場を目にしない都教委はいいねぇ。」なんて、不当な暴言の一つも吐きたくなるというもんです。

PLUTO(小学館)浦沢直樹

2005-10-16 18:17:12 | 教育書
教育書ではないが・・・。

現在、第2巻発刊中。
ふとした拍子に手にとって買ってしまった。
漫画は以前、5千冊くらいを一機にBook Offしたときに買わないと決めたのだが、時代がひと回りしたということなのだろうか、タイムブランクにある作品の中で、欲しいなと思う作品もいくつか浮かぶようになってしまった。

リメイクとかって原作を超えることが前提の難しさがあるが、今のところ奇才浦沢直樹の勝ちだろう。

「鉄腕アトム・地上最大のロボット」は小学校時代に読んだ。確か鉄腕アトムの第3巻だったと思う。
同時収録はロボットの人権を獲得する話(「アトムの日」だったけ?)だった気がするが、タイトルも含めてあやふやなのでダメダメだが・・・。
その昔、国立近代美術館で「手塚治展」があった(ように記憶している)が、そこで中島梓(栗本薫名義だったっけ?)が「アトムの設定の異常性」を取り上げていた。
当時、成人していた私も、この「ロボットの人権」などから、異常なテーマが子どもの姿のアトムに秘められているなと感じて育ったことを再認識したものだ。
そういった意味での「ハズシ」がなければ、手塚治の原作の枠を超えずに強烈な浦沢ワールドは展開されていきそうである。
ノース2号の背景を創ったことなどは拍手を送りたい。

漫画作品で怖いのは、初志貫徹がなっていない作品を読む時。
浦沢氏の作品は、「Pinapple Army」や「Monster」などの大作でもそういった恐れがないことがわかっているので、次巻を長首で期待している。

しかし、オタク・サブカルは現代の基本だなぁ。

後輩について

2005-10-15 11:10:19 | 戯言
前任校との比較が多い私はつくづく経験が浅く、思慮も足りないのだと思う。
だけれども仕方がないとあきらめて書く。(せめてカテゴリを戯言にしておくか)

さて、前任校では「後続の輩」がとても近い境遇で身近に感じられた。
(近い世代であったり、子持ちなどの他の要因や、それ以外の教諭のレベルの高さがそうさせていたのだろう。)

現在の職場では、私の年齢も息巻く勢いもそうさせるのだろう、あから様に先輩後輩関係ができている部分がある。
実際にはそんなにキャリアに違いがあるわけではないのに・・・。

そんな気持ちに繋がる話かどうかはわからないが、後輩の初任者の忙しそうな姿を見ていて書いてみる。

来月、音楽会があるのだが、その時に行われる余興的な「職員演奏」の世話役を初任者の二人が引き受けていた。
そういう折衝ものは古株がやるに限るのに・・・。
そう判断して、勝手に手伝った。
二人とも初任研の授業組み立ての真っ最中。普段よりサポートが必要なはずだ。
(このことに付随するバカ話を書けないのがちょっと話を分かりづらくしていると思うが)
「二人なら大丈夫なんじゃないか」という見切りで仕事を任されていたので、私が手を出さなければまったく進めない状況だった。

そういうときにふと思うのだが「若さという幻想への過度の期待」。
(結構今の状況に近いのかもしれない。現在の大量採用の状況。)
そんなとき、経験の浅い「新人=若手」の教諭はいろいろな仕事に立ち向かっていったことは想像に難くない。
ただ「そういう勘違いは状況が違うからやめてほしい」と思うのは、当時もサポートがなかったかもしれないが、その分罰則もなかったはずだということ。
今とは状況が違うと思うのだ。
初任者なんて、緊張の中の全力疾走であるのだし、つまずけば即、保護者や教育委員会などからクレームがつく可能性がある。

今、職場には、つかえない人がいて、サクッっと帰ってしまう。
だからかもしれないが、活用される人員が限られるのはわかるが、時に、配慮が欠ける時、危ないなと思う。
ま、今回のように、気付いた人がやればいいのだが、危なっかしい危なっかしい。
それに、気付く人は決まってそういう配慮が欠けていたために痛い目にあったことのある人だったりする。

「ちいちゃんのかげおくり」自分を追い込んで失敗

2005-10-14 22:46:14 | 教育
3年生の一番苦手な単元、国語の「ちいちゃんのかげおくり」だ。

何が苦手って、これほど範読していてつらいものはない。
はっきりいって、泣いてしまう。
ちなみに、道徳の国際理解、生命尊重を利用して、この時期、「東京大空襲」や「沖縄戦」などに触れているのだが、そんな資料を集めながら戦争の悲惨さに新にショックを受けるのは教師である私の方だ。
困ったもんだが、そういう感性なのだから仕方がない。
例えば、アニメ「火螢の墓」なんて、ほんとに落ち着いてみれない。

歳をとって、妻子を得て、涙もろくなったのだなと思っていたら、前任校の教諭にこういわれたことがある。
「泣いたの?ダメだよそれ。ぼくなんてあんなので泣くことない。だいたいノンフィクションじゃないのだし、泣かせにかかっている文章じゃない。そういうことじゃぁ、子どもに(冷静に)読み込ませることはできないよ。」

本当か?
作者の想いって「泣かせ」なのか?
じゃあ、なぜ、こんなテーマを選んだのだろうか?
ノンフィクションであるのかもしれないが、決して史実に外れたドラマではないし、泣くというのは冷静ではないが、ちゃんと読めていないことではないだろう。


ま、範読としてはマズイが・・・。

初読の感想は想像通り、場面の細部を読めていないもの、ちいちゃんの変化や死が読めていないものが多い。
読み深めていくうちに変わる子ども達の表情をちゃんと読み取りたい。

少人数学習と習熟度別学習

2005-10-13 18:53:01 | 教育
研究のテーマに触れる話なので、学校が特定されないようにさわりだけ。

妙なロジック。
「少人数学習の指導の工夫として習熟度別学習が有効である。」
ふんふん。
けれど、少人数であることは習熟度別学習の十分条件ではないよねぇ。


例えば、一学年4クラスの時に、過配教諭1名で5クラスにし、少人数型にもっていきつつコース分けによる習熟度別学習を設定したとする。
少人数であることと習熟度別にすることとは指導の工夫として同じ土俵の上であるのだから、「少人数と習熟度」という並列比較はできても、過配の1名を含まない通常の状態での習熟度別学習をしたとき、つまり「4クラス対5クラス」という物理的な異相と比較することをもって優位とするのは疑問が出て当然ではないだろうか。
(当然、5クラスの方が優位)
それが「優位だ」「可能だ」とうたうのは、少人数学級を肯定ししていることと同意で、東京都の言っている「少人数過配による習熟度別編成実施」に対して、根幹から「少人数を考えるなら少人数クラス」と、疑問・反意を呈しているということになりはしないか。

ま、私の主張上はバカボンのパパなのだが。
「これで・・・。」
でも、わかんねぇだろうなぁ。こういう視点で見てくれるものじゃぁないし。

研究発表を前にして

2005-10-13 18:37:27 | 教育
研究発表のための紀要原稿が仕上がり、印刷屋さんに送られた。
あとは細かい校正作業があるだけで一段落。
次はプレゼンと本時の仕上げ作業、校内環境整備の本格着工(工事はしないが)になる。
多くの研究が割と少数の人によって成立しているなと感じる。
もちろん、物理的に無理なのは承知だが、そんな話ではなくて、その後が気になる。

研究の成果は誰のものだろうか。
(児童のものとかいう「お為ごかし」は通用しない話としてだ。)


たかが紀要のDTPのマネごとをやったからって「研究に向いているよ」は言い過ぎだろう。
また、「研究に関して、文章もかけない、意思統一も、切り捨てもできないのでは給与格差は不可避だろう」などというのは、最終的に成果主義のわなにはまること必至だろう。
そんなお世辞や檄を飛ばすよりも、実をとれなかった責任を感じてほしいものだと思う。
研究は常に危ういバランスを持っていると思う。

実践から排出された人材=陰山氏

2005-10-12 22:57:37 | 教育
例えばこんな記事=「百ます計算の陰山英男氏、NPOで教師支援へ」

素直にいいなと思う。
彼の著作などは結構目を通した時期がある。
百ますなんて、実際にやってもみた。
岸本氏のような大家と比較しても遜色ない存在かもしれない。
そして、中教審特別委員を通過して私学の付属小学校副校長という研究職へなるといわれている彼。
いろいろ公立というしばりの中で飛行を続けていたら火星についていたというような感じもしないではないが、結局、こういう着地もありなのかな。
そう思う。
そして、また新にNPOという形で実践にかかわっていこうとすることはいい発想の一つかなと思う。
いい継続と成果があればいいなと思う。

私とは違うし、(そうする必要もないが)届かない存在になったような気がするが・・・関係ないね。
外野のようでそうでない、そんな立ち位置があったということに気付かせてくれた人というのが今の私の評価。
そういった意味で気になったので書き留めておいた。

またとっちらかったエントリーになった。(爆)

子どもとつくる対話の教育(山吹書店)鈴木和夫著

2005-10-11 00:08:55 | 教育書
藤田氏の著作に続いて読み始めている書物。
まずは、「おすすめ!」の意味をこめて、読み出しの感想。
(このパターンは以後何回か使いそう)

いきなり「キレる子」についての実践報告からだったが、知らずとのめり込んでしまった。
恥ずかしい話、実践記録文献については
(限定的な条件が絡んでいるので自分自身への適応が困難ではないかとネガティブに考えてしまい)
私はあまり触れない人なので、最初は「ちょっと・・・」とひいて読んでいた。

しかし、すぐに分かった。
「キレる子」に関して示唆にとんだ対応過程、その葛藤の様子に愕然としたのだが、それだけでない。
すぐにその息づかいさえ感じれるほどのリアリティが私の実体験を呼び起こさせ、いきおい自分の過去の苦い実践経験を思い出した。
そしてその時の何が問題点であり、解決しなければならない課題だったのかを再確認させられて、不思議だが困惑するようなショックをうけた。


思い起こせば、一つには、その時の私が未熟であったことである。
当時、自分がいかに学級作りに関して経験不足で煮詰まっていた状況であったか。
また、ケツを割って児童と向き合いながらも、日々、会議だ何年次研修だと追われるノルマに振り回されて自分を失っていたこと。
加えて、見通しのない中で未消化な授業を行ってきたこと。
けれども、これは今だから分かることなのだ・・・。端的にまさに中途半端だった。

思うに、ここに書かれた実践とはほど遠い保護者との関係をもっていたことも思い出される。
めちゃくちゃだった。
この本の表題を借りると、対話の成り立っていない1年だった。

(蛇足)
そのときの私がもう少し若かったならば、きっと仕事はやめていただろう。
きっとそれが思いを伝えられない自分の腹いせのように感じたことだろう。
やめなかったのは、もっとつらい時期があったことと(したたかだが)家族の存在。
そして、自分だけが悪いのではないという思い。
ごう慢と言われようが、その時に私が見ていた教育的(?)な見通しが誤っているということを認めたくなかった。
結果的には、その時、保護者と対峙していたこと自体で全て誤りだったのだが、当時の自分にはそんな余裕はなかった。
(しかし、その当時、周囲からいくつかひどいアドバイスを受けたことは、今となっては反面教師的によかったと言える。後輩に対して同じ誤ったアドバイスを送ることはないから。)
自分にしか分からない表現になってしまった。
これから、もといである。


また、私はこのT男の例を読んで、少し見通しのもてた次の年度でもった3年生たち、特に、R男やY男、K男などを思い出した。
前の年度の失敗を繰り返すようなことは当然嫌だった。
非常に苦痛の研修も終わり、分掌も前年度比20%ぐらいにしてもらい、学級経営にのみ力を注いだ一年になった。
一緒に組んだS先生は、未熟な私の話を初めて聞いてくれた同学年の人でもあった。
多いに胸を借りながら努力した。
受け持った子どもたちは、(私の尊敬する)前担任の愛情を一身に受けて育ったやさしく素直な子ども達だった。
彼らはそんな私に一生懸命応えてくれた。

「会議なんてほっておいて児童と向き合った。」(徹底的に気になり、それが必要な児童から話を聞いた)
私が異動する時、涙を流してくれる保護者さえ出る学級になった。
「それほど保護者との距離も短くなった」(これは保護者側の努力がとても大きかった)
私を真の意味で教師として育ててくれた学級には今でも感謝している。

今、そんなことを目一杯思い出してしまった。
そして、この実践の奥に、先に見えるものには追い付いていない自分を感じつつ、この方向に自分は進んでいいるのだなということもジワッと感じた。


またもや好書物の予感。

義務教育を問いなおす(ちくま新書)藤田英典:読了

2005-10-10 00:38:58 | 教育書
読了に長い時間がかかってしまった。(8月25日からだと1か月半)
それだけの分量があったが、秋だというのに、ここのところ読書が進まない。
2学期がそれだけフル操業であったし、体力的にもきつかったのだが、一番の理由はこの本自体にあるようだ。

「問いなおす」と題をふっていながら、藤田氏の主張はすでに末章末尾にまとめられ、議論は終結しているように思える。
以下に抜粋ありで箇条書きにしてみる。
(1)息切れするような改革・実践は成功する可能性が乏しい。
(2)豊かな学習と経験の場を確保し続けるためにも、豊かで安定した時間のリズムを確保することが重要である。
(3)全ての子どもは尊厳的存在であり、かつ、有為な人材である。
(だから、差別なく教育というプロジェクトに参加する権利が保証されるべきだ)
(4)時間も人手もお金もかけずに教育がよくなることはない。
(5)学校・教師に対する過剰の要求に関わる教育施策の悪意と過少の信頼に関わる当事者外の悪意
(「悪意」というのはyoの表現。不可抗力であれ、悪い結果を産むためになされることであり、責任をとれない点で有罪といえる問題であるから、こう表現した。)

ぐれいと!
この本を読まにゃ、教育について何やら語れそうにないねぇ。
なんにしても私のブログの存在価値も疑われるほどに、私の主張と重なるところが多い。
(別に誇っているわけではない。当たり前だといいたい。)

氏は、中教審義務教育特別部会委員なのだが、委員会内では唯一の教育改革反対派(唯一だから派ではないか・・・)。
いくつか議事録を読んでいるが、彼の主張はこの本にある通りでなされている。
蛇足だが、強烈なのは、その主張は委員会では本流として無視されているように思えることだ。
彼の言う「改革のための改革」はこんなところからもかいま見れる。
(私が彼ならば会議場で物を投げているだろう。それほど中教審は議論が成り立たないし、腐っている。)


この本を読んでいて主張に同意しつつ、それとは別に、自分の無力感に悩まされた。
結局、ブログで書いても100人も読んでくれるだろうかというところ。
まあ、ブログの当初の目的ではないにしろ、少々自分のうだうだ加減にちょっとね・・・。

恒常的に読んでくれている方へ
「いつもありがとうございます。」
「実は、もうすぐ1周年なんです!」(24日です。)
「私は、まだまだ書き足りないです!」
「煮え切らない私に、もう少しおつきあいください!」

長期欠席とメランコリー

2005-10-08 23:55:38 | 戯言
年内に研究発表があると言えばいいわけがましいが、ほとんどDTP屋の状況、長時間労働にちょっとモチベーションが下がり気味でブログから離れていた。
いろいろ出てくる情報の最終的なイメージを作っている。
オリジネイターよりも、やはりアレンジャーの才能が勝っているなぁと自己能力を確認。
先日の金曜日は遠足。土曜は我が子の運動会。
繰り返して言い訳がましいが、いろいろ疲れている。
持病の喘息が睡眠時間と体力を程度良く奪ってくれるおかげで家ではぐったりしている。

最近のいい話は、昨年度もっていた(諸条件があり、今年度は通常学級に来れなかった)子が、移動教室に元気に参加してくれたこと。

私は、中学時代に、荒廃した学校に恐怖とストレスを覚え不登校になった経験がある。
その味がフィードバックすることがある。
たまにぶり返すこのトーンダウンは、鬱傾向なのかどうかは知らないが、非常に精神的にまいってしまう。

「学校は楽しいことがあるんだよ。」
「そりゃ、つらい時やがんばらなくちゃならないこともあるけれどね。」
「でも、あとで振り返って、今の自分と繋がっている何かがあって、そんなものが自分を支えているような気がしたとき嬉しいものだよ。」

職場の先輩同士の会話を横で聞いていた。
「これからは歯車になった自分を上手にアピールしていくことで自分の仕事や収入が確保されていく。
だから、そういうような人かどうかを見切り、古株は使える人のみ相手にして、若い人にはそうなるように指導していくべきだ。」
そんな内容。
民間出身の人らしいといえばそう聞こえる主張。
対していた先輩の方は
「うん、そうかもしれないね。」
そううなずきながら、今までの人間関係や協調・連携で成し得た成果も捨てきれない様子。
私の見立てでは、先の先輩はとても上手な人で、そう、うまく行きそうな気がする。
でも、私は保守的な人だから、今まで築き上げてきたであろう教育界の遺産を生かす方向もあるのではないかと考えている。
そして、どうせ歯車になるのなら、自己アピールよりは、その目的と共にありたい。
ま、不良教師の戯言だが。
思わずそばにいた初任者に
「どんな教師になりたい?」
なんて聞いてしまった。
「今が精いっぱいです。」
との答え。
そうだよな。
私の場合も見通しが少しきくころには、こんなにレベルダウンした現場となげいているだけだものな。

さて、仕事の続きしよっか。