今朝、出がけにTVニュースで、上越教育大学の学生が「3か月の教育実習をこなすことで、より実践的なスキルを身に付けて現場にでることができる。」という話をやっていた。
例の東京都などの青田刈り実習(=教師塾)と同様のものだろう。
上越教育大学の教官が「以前は大学の養成を、現場で実践をという形でうまくいっていたが、今はそうではなくなっている。」というコメントを述べていたが、そのことに対する批判的な視点はない部分が気になった。
現場を苦しめているのは、そういった現状に対してあくまでも受け身で行くことを強いる無言のプレッシャーではないだろうか。
今は以前と違うのだから、それなりの対策をとるということはわかる。
が、ちゃんとした分析もなく、若手を無用に鍛えればよいという考えはあまりにも短絡している。
実習生が清掃指導時に級友の机の向きが反対になって下げられていたことに対し、それを正しく直すように指示した。
ところが、当番の子は、自分がそういう向きにしたわけではないのでやりたくないといい、指示にしたがわず立ち去る場面がながれた。
実習生は指示が通らなかったことに対する指導を教諭に教わる。
こういうシーンは「指導力不足」を意味するのだろうか?
何をいいたいかというと、この実習が実践力を目指すのであれば、これが実践力になるのか?ということだ。
こんなものを繰り返すことにこの実習の意味を見いだすのならば、3か月だろうが、1年だろうが、その成果はたいしてかわらないだろう。
なんかあんまりな例を放送されて、教育や教員のイメージのへんな固定化につながらないといいなと感じた。
ここでは当たり前のように行われているが、初任者などではない学生をOJTのシステムに組込むようなことを考えは誤りだと思う。
もう、すでに現場OJTはほとんど無意味な研修漬け、現場実践からの乖離に悩む状況にあり、混乱をまねいているとさえいえる。
以前に示した「初任者の年間100時間程度に及ぶ学級からの引きはがし」「指針のない膨大な報告書」「5年間以上の研修設定」などを例にあげるだけでもひどいものだ。
しかも、そのほとんどが現場への負担を顧みない、児童のために働き、学ぶ教師を本来の姿を奪うものばかりだ。
(保護者がその実態を知ったならば・・・と考えると背筋が寒くなる)
今、新に初任者以前に学生さえ巻き込もうというのだからどうしようもない。
例の東京都などの青田刈り実習(=教師塾)と同様のものだろう。
上越教育大学の教官が「以前は大学の養成を、現場で実践をという形でうまくいっていたが、今はそうではなくなっている。」というコメントを述べていたが、そのことに対する批判的な視点はない部分が気になった。
現場を苦しめているのは、そういった現状に対してあくまでも受け身で行くことを強いる無言のプレッシャーではないだろうか。
今は以前と違うのだから、それなりの対策をとるということはわかる。
が、ちゃんとした分析もなく、若手を無用に鍛えればよいという考えはあまりにも短絡している。
実習生が清掃指導時に級友の机の向きが反対になって下げられていたことに対し、それを正しく直すように指示した。
ところが、当番の子は、自分がそういう向きにしたわけではないのでやりたくないといい、指示にしたがわず立ち去る場面がながれた。
実習生は指示が通らなかったことに対する指導を教諭に教わる。
こういうシーンは「指導力不足」を意味するのだろうか?
何をいいたいかというと、この実習が実践力を目指すのであれば、これが実践力になるのか?ということだ。
こんなものを繰り返すことにこの実習の意味を見いだすのならば、3か月だろうが、1年だろうが、その成果はたいしてかわらないだろう。
なんかあんまりな例を放送されて、教育や教員のイメージのへんな固定化につながらないといいなと感じた。
ここでは当たり前のように行われているが、初任者などではない学生をOJTのシステムに組込むようなことを考えは誤りだと思う。
もう、すでに現場OJTはほとんど無意味な研修漬け、現場実践からの乖離に悩む状況にあり、混乱をまねいているとさえいえる。
以前に示した「初任者の年間100時間程度に及ぶ学級からの引きはがし」「指針のない膨大な報告書」「5年間以上の研修設定」などを例にあげるだけでもひどいものだ。
しかも、そのほとんどが現場への負担を顧みない、児童のために働き、学ぶ教師を本来の姿を奪うものばかりだ。
(保護者がその実態を知ったならば・・・と考えると背筋が寒くなる)
今、新に初任者以前に学生さえ巻き込もうというのだからどうしようもない。
教育の質の向上を図るという目的で、このような”教員養成”に対する梃入れが行われたのでしょうが、いろいろと手法を見た限りでは、むしろ違和感を感じますね。率直に言って”的外れ”ではないでしょうか。
例えば実践演習において、
>実習生が ~(中略)~ に対する指導を教諭に教わる。
という部分1つとっても、それこそ本来実際の教育現場で1つ1つ学んでいかねばならないことであり、事前演習云々でどうにかなるという問題ではないはず。意義がどうにも感じられない。無論着任前の・・慣れのため等にシュミレーションとしてやるのならまだしも、何故養成の段階からこんなことを繰り返させるのか、心底理解に苦しみます。これでは結局教育のさらなる“マニュアル化”、ないしは”ルーチン化“につながるだけではないでしょうか。本末転倒でしょう。
こんなことは養成段階でいちいちやらせるよりも、初任段階での研修とあとは職務の中でそのつど学んでいくようにすればよいことではないかと思います。時間をかけるだけ無駄な気がしますね。
いずれにせよ、東京都の教師塾(私はNHKのニュースで杉並区の教員採用に関する指導例を見ました)もそうでしたが、何だか教育の根本部分に直接関わらないようなことばかりを無理やり習得させているだけのような気がしてなりません。むしろ“一定の型の教師”だけを養成しようとしているようにさえ感じられます。(いや、むしろこれこそが狙いか?“お上の僕”教師の大量生産が…。)
過度の研修漬けは、教師の意識改革が名目なのでしょうが、その改革のリードをとる者達の資質のなさは誰が責任をとるのでしょうね。
教師塾もそんな人的金銭的なサポートもなく、見通しも実りもない施策で意欲ある若者が無駄な労力を割いていきます。
そんな無策の責任者は、東京都の教師養成塾出身者のリサーチを行ってみてほしいものだと思います。
うまくやっているものもいれば学級崩壊している者もいるのです。
しかも、ほとんど同じ内容の初任研をかぶせているのですから怒りを通り越して笑ってしまいます。
こんなバカな研修で教師が完成するのならば、苦労はしないですね。
私はこんなアホな研修施策で教師の階層性が成り立つのなら、それは非常にもろいものだと楽観しています。ただ、そんなことで現場がどうなるのかは、多くのファクターが絡むので一様に荒れると表現してもイメージはつきにくいと考えています。