怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

させられる教育(岩波書店)野田正彰2002.06.12

2008-01-05 23:24:31 | 教育書
少し前に書いたけれども、ある場所で「卒業式などにおける君が代、日の丸の強制」で議論をしている。

私はこの本の発刊されたときには、どちらかというとイデオロギッシュな書籍からは一歩引いていた。
ある意味、個人的にはいろいろな想いがあるのだけれど、その点を発動してしまうと、教育公務員をやっていくにあたって、私の信念めいたものが言動にでやすくなって、それはそれでまずい時期かなと、その時は思っていた。
でも、やっぱりこういった問題はついてまわるのだなと、ちょっと古めだけれども手に取った。

なによりも、「いわゆる国旗国歌法」のきっかけになった広島の校長自殺という痛ましい事件の検証がのっていたからだ。

一般的には「君が代斉唱や日章旗掲揚に反対する公務員である教職員と文部省の通達との板挟み」という図式が背景として語られるのだが、こう書くと痛み分けのように見える。

でも、もうもの言わぬ校長の心の内はどうだったのだろうか?

また、本来は文科省の通達というのが、直接的に校長へ影響するものではない。
間には必ず教委の存在があるからだ。
事件の真相を見る視点を増やす意味でも読もうと思った。

読み進め、私の国旗国歌法成立時に想像していたことよりも、深刻な事実を想像せざるを得なくなった。

現時点の目で見ると、この様々な教委の言動は、全て信用失墜行為であり、国会等における文科省側の意見を法規的な縛りとするならば、明らかに法律違反であり、犯罪行為に限りなく近い。

特に、教育長として文科省側から天下って来た者に関しては、文科省側の政治的な真意というものが透けて見えるようで非常に怖い。

当時の国旗国歌法を制定に関わった自民党、公明党、自由党、民主党の一部などは、こういった事実を把握してなお制定に努力したのだから、そうとうに日本という国は人権や自由が抑圧されているといってもいいのではないだろうか。

サブタイトル「思考途絶する教師たち」は、その後の侵攻を予期した言葉で、「教育をおりる」と私が表現した部分にリンクすると思う。

7&Yというネット書店における書評で、「先生に教育をまかせっぱなしではいけない」という内容が書かれていたものを読んだが、教員という立場でいうのも何だが、こと「君が代、日の丸」に関していえば、「当事者、地域、学校で充分な審議がなされる必要」をいわれているのに、都教委の通達一本でそれが保古になっているという事実を考えれば、それだけで保護者や地域の人達が何をしなければいけないのかがわかる。

要は教育は政治的であるということだと思う。
学力問題だとか、出前授業だとかだけで学校に関わっていると思うのは本当は勘違いということだ。
(もちろん、そういった関わりを否定するつもりはない。推奨したい。)
PTAでさえ、学校の出先機関でしかないかもしれないということだ。

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