このブログでは 「太宰治が死んで悲しむ5人」という題目で井伏鱒二、子守だった越野タケ、兄の津島文治、妻、津島美知子、そして愛人だった太田静子について私自身の断片的な感想を書いています。なるべくそれぞれの立場から見た太宰治への想いを書きたいと思っています。
津島家の当主としての長兄、文治は太宰の数々の恥じさらしな事件の後始末に翻弄されました。
昭和23年に太宰が死んで一番ホッとしたのは文治だったと思います。
しかし自分が青森県知事として、あるいは衆議院や参議院の議員として活躍し、年月が流れるにしたがって不幸な弟への思いは変わっていった筈です。
嫌なことは年月とともに次第に忘れ、39歳の若さで夭折した実弟の憐れさを感じた筈です。なにせこの弟ほど自分を頼りにした人はいなかったのです。
可愛いと思うからこそ最後までその生活の面倒をみたのです。その可愛いさを思い出すと他人へは言えない悲しみを感じていたに相違ありません。その悲しみは年月とともに深まった筈です。
そのようなことは、太宰治記念館、「斜陽館」と兄、津島文治の苦悩 という記事で一部書いたつもりです。
今日の記事は、下のような2つの記事の続編で、かつ完結編です。
太宰治が死んで悲しむ5人、その二;子守の越野タケさんの困惑と悲しみ
さて、ここで一番書きにくい妻、美知子と愛人、大田静子の苦しみと悲しみを取り上げないわけにはいけません。
この二人は立場が違います。美知子は井伏鱒二の媒酌で結婚した名家出身の女性です。一方、静子も育ちの良い文学少女で、「太宰の愛人」の一人だったのです。
私は美知子夫人へ同情を禁じ得ません。しかし慰める言葉もありません。
悲しみの深さ、無念さを考えると何も言えません。
何と言っても一番苦労したのは奥さんでしょう。女としてこのような男と結婚した不幸なほど悲惨なものはありません。見合いをさせ媒酌人になり自宅で結婚式披露宴をした井伏鱒二さんも一生悲しみ、負い目に思っていたに相違ありません。
この妻の美知子は心中事件のあと30年経過してからやっと、「回想の太宰治」という本を出しています。
一方、大田静子は太宰治に関する本を一切出していません。
太宰治の死後すぐに井伏鱒二らが静子を訪問して「斜陽」の印税、10万円を渡したのです。実は、「斜陽」の物語は静子が提供した日記通りだったのです。
そして井伏鱒二は静子が今後一切、太宰に関することを書かないという誓約書を取ったのです。
一方、太宰の死後、税務署の発表した課税対象の遺産が何億円あったという噂が世間に流れています。
太宰の本妻の娘、次女里子(津島佑)子と、愛人の娘、治子も作家として世に出ております。
しかし津軽に行ってみると長女園子の夫の津島雄二さんが衆議院として地元の為に尽くしているので評判が良いようです。地元ではまだ太宰の「恥さらし」については沈黙です。津島文治さんや津島雄二さんについては自慢げに話しをしますが、それ以外のことは話しません。
この連載で取り上げた5人とも既に旅立っています。?会一処です。
それにしてもこの世の苦しみと悲しみは底知れぬ海のように深いものです。
私も、これで、やっと太宰治から解放されました。疲れました。
下の写真は左から右へ順に新婚時代の美知子と太宰、長兄、津島文治、そして愛人、大田静子です。それぞれの画像集検索から選んだ写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
===以下の出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B3%B6%E6%96%87%E6%B2%BB ===
津島 文治(つしま ぶんじ、1898年1月20日 ? 1973年5月6日)は日本の政治家。
作家の太宰治(津島修治)は弟、俳優の津島康一は長男。元衆議院議員の津島雄二は、義理の甥にあたる。
1923年3月3日、大学を卒業。翌日に父が急死したため、津島家の家督を継ぐ。1925年、金木町長に選ばれ、2年間務める。1927年、青森県議選で最高位当選を果たし、最年少の県議となり、2期を務める。
1930年11月、弟修治(太宰)がカフェの女給田部シメ子と心中未遂事件を起こし自殺幇助容疑で鎌倉警察署に逮捕された時には、担当刑事が金木出身で津島家の小作の息子だったことや、管轄の横浜地裁の所長が黒石市出身で父源右衛門の姻戚だったことを利用し、自らの政治的影響力を行使して、修治を起訴猶予処分に持ち込んだ。
1937年4月30日、立憲政友会から衆議院議員選挙に初めて立候補。その若さや家柄から「青森県の近衛公」と呼ばれ、将来を嘱望される。5月1日に開票、第2位で当選するも、5月4日に選挙違反の容疑で五所川原警察署に逮捕される。
1945年7月、疎開先の甲府で空襲にあった修治の一家を自邸に迎える。
1946年、進歩党から戦後初の衆院選に立候補。修治も背広にリュックサック姿で選挙運動に協力。同年4月10日の選挙において、全県一区(大選挙区制)定員7名中6位で当選。公務のため上京し、東京に住む。
1947年、青森県知事に就任(初代民選知事)。以後、3期(9年余)を務めた。十和田湖湖畔の裸婦像(「乙女の像」)は、津島が高村光太郎に依頼して制作されたものである。1948年、弟・修治が自殺。
1958年から衆議院議員として2期を務め、1965年から参議院議員として2期半余を務めた。なお、その間は自由民主党に所属していた。
1973年5月6日死去。享年75。
私生活では弟・修治(太宰治)の型破りな性格のために衝突をしばしば繰り返した。そのため、弟の自殺後にその名声が高まって文豪に加えられていく世間の状況には困惑していたという。
===以下の出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B3%B6%E7%BE%8E%E7%9F%A5%E5%AD%90 =
妻、津島美知子:
1947年(昭和22年)3月、次女里子を生む(後の作家津島佑子)。
1948年(昭和23年)6月、太宰が死去。12月、大家から立ち退きか買い取りかの二者択一を迫られて東京都北多摩郡三鷹町(現・三鷹市)を去り、東京都文京区駒込曙町(現・本駒込1丁目)に転居。
1949年(昭和24年)8月、文京区駒込蓬莱町(現・向丘2丁目)に転居。1958年(昭和33年)8月、文京区駕籠町(現・本駒込6丁目)に転居。
1960年(昭和35年)2月、正樹が肺炎で死去。享年15。
1964年(昭和39年)、園子が大蔵官僚の上野雄二(当時、大蔵省から外務省に出向中。後に衆議院議員)を婿に迎える。
1978年(昭和53年)、人文書院から『回想の太宰治』を上梓。
1997年(平成9年)2月1日、心不全で死去。遺体は、太宰の亡骸が眠る三鷹市禅林寺に葬られた。
===以下の出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E9%9D%99%E5%AD%90 ======
愛人、大田静子:
1947年5月24日、生まれてくる子の相談で通と共に三鷹の太宰宅を訪問。太宰からの冷たい態度に傷つき、自分に接近してきたのは小説の材料だけが目当てだったのではないかとの疑念を抱く。このとき、山崎富栄と鉢合わせする。5月25日、肝心の相談から逃げまわる太宰の態度に対して涙ながらに抗議。静子をモデルに描いた太宰作の油絵を贈呈されて下曾我に帰る。この日が、生きた太宰を見た最後となる。
1948年(昭和23年)6月13日、太宰が愛人山崎富栄と入水自殺。8月1日、井伏鱒二たちの訪問を受け、「太宰の名誉作品に関する言動を一切慎む」という内容の誓約書を取られ、その引換に『斜陽』改装版の印税10万円を渡される。
=====(完結)=======================
(上は小泊にある太宰とタケさんの像 右は晩年のタケさんの写真)
やっぱり本当のことを書いてしまいます。
かつて太宰治は「金木のごじゃらし(恥さらし)」と言われていたのです。
近年はその生家、「斜陽館」が観光資源になって津軽地方の経済が助かっているので、太宰治の悪口を言うひとは少なくなりました。しかし尊敬されてはいないようです。
尊敬と云えば、むしろ青森県知事を3期9年も務め、その後衆議院議員や参議院議員を務めた兄の津島文治氏のほうが皆に尊敬されています。
太宰治の子守をしていた越野タケさんも、彼の中学生以後の放蕩と4回もの自殺や心中未遂事件の噂に困惑し、悲しい思いで過ごしていたと思うのが自然ではないでしょうか。
彼女は小作の年貢米の代わりに津島家の子守になったのです。太宰が2歳の時でした。その家で、我が子のように愛した修治が、「金木のごじゃらし」と言われて非常に心を痛めたに違いありません。
太宰治は1909年生まれで、1948年に心中して果てました。
越野タケは1898年生まれで1983年に85歳で亡くなっています。
1944年に太宰治は30年ぶりに越野タケさんを訪ね、会っています。
この時、太宰は35歳でタケさんは46歳でした。
この30年ぶりの再会を太宰は「津軽」という小説で以下のように書いています。
フィクションですから再開の様子の真実からだいぶ違うのです。その違いは以下の文章の下に引用した越野タケさんのインタビュー記事をご覧になれば明快です。
===「津軽」よりの抜粋:http://www.geocities.jp/sybrma/index.html =====
・・・・・・・
「龍神様(りゅうじんさま)の桜でも見に行くか。どう?」と私を誘つた。
「ああ、行かう。私は、たけの後について掛小屋のうしろの砂山に登つた。砂山には、スミレが咲いてゐた。背の低い藤の蔓も、這ひ拡がつてゐる。たけは黙つてのぼつて行く。私も何も言はず、ぶらぶら歩いてついて行つた。砂山を登り切つて、だらだら降りると龍神様の森があつて、その森の小路のところどころに八重桜が咲いてゐる。たけは、突然、ぐいと片手をのばして八重桜の小枝を折り取つて、歩きながらその枝の花をむしつて地べたに投げ捨て、それから立ちどまつて、勢ひよく私のはうに向き直り、にはかに、堰を切つたみたいに能弁になつた。
「久し振りだなあ。はじめは、わからなかつた。金木の津島と、うちの子供は言つたが、まさかと思つた。まさか、来てくれるとは思はなかつた。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかつた。修治だ、と言はれて、あれ、と思つたら、それから、口がきけなくなつた。運動会も何も見えなくなつた。三十年ちかく、たけはお前に逢ひたくて、逢へるかな、逢へないかな、とそればかり考へて暮してゐたのを、こんなにちやんと大人になつて、たけを見たくて、はるばると小泊までたづねて来てくれたかと思ふと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいぢや、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行つた時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持つてあちこち歩きまはつて、庫(くら)の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔噺(むがしこ)語らせて、たけの顔をとつくと見ながら一匙づつ養はせて、手かずもかかつたが、愛(め)ごくてなう、それがこんなにおとなになつて、みな夢のやうだ。金木へも、たまに行つたが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでゐないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」と一語、一語、言ふたびごとに、手にしてゐる桜の小枝の花を夢中で、むしり取つては捨て、むしり取つては捨ててゐる。
「子供は?」たうとうその小枝もへし折つて捨て、両肘を張つてモンペをゆすり上げ、「子供は、幾人。」
私は小路の傍の杉の木に軽く寄りかかつて、ひとりだ、と答へた。
「男? 女?」
「女だ。」
「いくつ?」
次から次へと矢継早に質問を発する。私はたけの、そのやうに強くて無遠慮な愛情のあらはし方に接して、ああ、私は、たけに似てゐるのだと思つた。・・・・・
====タケさんの証言:http://www.seinan-gu.ac.jp/kokubun/report_2003/dazai_ie.html ========
・・・・ここで注目したいのは生前のタケの証言である。ビデオは昭和五十六(一九八一)年に地元テレビ局RABで特集された「昭和十九年初夏『津軽』~太宰と小泊村~」というものであった。その時タケは八十三歳である。「津軽」を再現するように、昭和五十六年の小泊小学校の運動会の時にインタビューしたものであった。タケの話によると、その時彼女は四十七歳、太宰は三十六歳だった。太宰の服装は編み上げの靴に妙な飾りのようなものの付いた帽子を被り、ゲートルを巻いていた。再会の瞬間は、彼が首を傾げて、あ、いたいたと言い、太宰の右の目の下にはほくろがあったから、太宰と分かったそうである。一方、太宰の方も、タケのほくろを見てわかったようだとタケは言う。その後、小説のように龍神様の桜を見に行きそこで十分ほど話をした。話らしい話ではなかったが、太宰が自分は小さい時どんな子だったかを聞いてくるので、本が好きなとても良い子だったと言うと、ふうん、と笑ったそうである。タケが何のために来たのかと聞いた時には、会いたいと思ってきたと言ったということだ。タケの語る津軽弁は私には聞き取れないが、字幕が付いていたので助かった。大変暖かみのある声で、田舎のお婆さんが持つ独特の安心感を感じた。またそのほかにもタケのインタビューのビデオがもう一つあった。その中では、タケから見て太宰がどんな子どもだったかが語られていた。初めて津島家に来た時、他の兄弟に対しては「さん」付けで呼んだが彼には「修ちゃ」と一度呼んでみたら呼びやすかったので、それからずっとそのように呼んでいたそうだ。まるで本当の家族のように親しかったことが分かる。彼は良い子で「嫌だ」、と言うことがほとんどなかったが、食事の時だけは苦労をしたという。ご飯を一膳食べさせるのがやっとで、彼はよく逃げ回っていたようだ。しかし、家の人々は全く構わなかった。「人間失格」の中で、太宰自身の投影だと思われる主人公大庭葉蔵が幼少時代に、食事の時間が苦痛でならなかったと書いている。「末っ子の自分は、もちろん一ばん下の座でしたが、その食事の部屋は薄暗く、昼ごはんの時など、十幾人の家族が、ただ黙々としてめしを食っている有様には、自分はいつも肌寒い思いをしました。」(「人間失格」)家族の集まる食事の時間に我が儘を言って構ってもらいたかったのだろうか。一種の甘えと見られるが、なお家族は気にすることなく、本当の家族ではない子守のタケだけが彼の甘えに応えた。・・・・
================================
上の2つの抜粋文をご覧になって皆様はどのようにお考えでしょうか。
太宰治が1948年に死んでタケさんはホッとしたでしょう。肩の重荷がとれたように感じたに違いありません。もうこれ以上、恥さらしな事件が起きなくなったのですから。
しかしそれから年月が流れていくにしたがって、タケさんの心の中に悲しみの情がしだいしだいに大きくなって行ったと思います。自分の子供のように育てた人間の非業の死を憐れに思ったに違いありません。悲しんだに違いありません。
タケさんにもう少し長生きして貰いたっかと思います。太宰治が多くの人々にしたわれて金木の斜陽館に多くの訪問者が絶えない様子を見てもらいかったと、私はむなしい思いをしながら帰って来ました。(続く)
(写真の出典:http://jp.wsj.com/article/SB10001424127887323924104578522463208911192.html)
最近の習近平国家主席の外交戦略は驚くことが多く、従来の中国の国際外交とは格段の差があるようです。
アフリカ諸国へ驚異的な巨額の経済援助を発表し、貧困に悩むアフリカ諸国から喝采を浴びています。その後で安倍首相がアフリカを訪問し、中国よりは少ない経済援助を発表しました。明らかに後手に回って、外交戦で敗けてしまったのです。
その前後に習主席はパレスチナ自治区の代表とイスラエルの大統領を北京に招き、中東和平のための「置き石」をおいたのです。この「置き石」はいずれ罠になり、イスラエルが苦杯を甞め、アメリカの面子が潰れる可能性がある「置き石」のようです。
今日の新聞には、上の写真のように習主席がカリブ海のトリニダート・ドバゴを訪問し、同国とジャマイカ、バハマ、スリナムなど、カリブ海の9ケ国の首脳を食事会に招待したのです。そしてその席上で、中国が9ケ国へいろいろな形の援助をすると発表したのです。
その後は中米のコスタリカとメキシコを公式訪問してからアメリカで6月7日と8日にオバマ大統領と会談するのです。
オバマ大統領はこの5月初旬にメキシコとコスタリカを訪問しています。その同じ場所を訪問し、アメリカの影響を無にしようとしているのです
カリブ海の9ケ国の首脳を食事会に招待しただけでなく、留学生の奨学金や、技術指導や種々の形の経済援助などを約束したのです。このように習主席の外交戦略のほうがキメ細かで、経済不振にあえぐ国々の人々の心に響いたに違いありません。
アメリカのフロリダ州の沖近くの国々に手を伸ばす中国の外交戦略は侮れません。
ジョン・ケネディー大統領の時代にソ連がキューバに核兵器を持ち込もうとした戦略を思い出させます。あの時はソ連が屈したので戦争になりませんでした。
最近、中国は尖閣諸島の領有権問題は棚上げにし、問題解決は将来の賢い人々にまかせるとする1972年の田中首相との約束に帰ることを一方的に発表しています。
武力で威圧して日本を追い出そうとする強固路線をやめて、日中平和条約の付帯条件へ戻ることに方針を変化させたようです。この付帯条件は田中角栄首相がその後、何度も証言していますから確実な約束だったのです。
中国の武力威圧を利用した国際外交が東南アジア諸国から激しい反発を受けていて、アメリカからも非難されていました。
このような平和的な時代に古色蒼然たる「砲艦外交戦略」は、中国の国益にとって大きなマイナスになることをやっと悟ったのです。
経済的な援助競争によって中国の市場に取り込もうとする戦略は許されるべき資本主義のルールと考えられます。
中国が最近その外交戦略を良い方向へ変えたような印象です。
しかし武力に頼ろうという毛沢東以来の体質はそう急には改まりません。
日本としては注意深く見守りながら中国の外交の先手を打つような戦略を強力に進めるべきです。
安倍首相も外交にもなかなか頑張っていますが、どうも習主席の後手ばかり打っているようです。たまには先手も打って貰いたいものです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
私は太宰治が死んで深く悲しんだ5人の人々のことを考えています。
井伏鱒二と、兄の津島文治と、乳母がわりの越野タケ、そしてもちろん妻の美知子と3人の子供、愛人の太田静子と子供のことです。
昭和23年、太宰治と山崎富栄が心中したのです。
井伏鱒二は「荻窪風土記」で彼の死について書いています。
・・・・少なくとも自棄っぱちの女に水中へ引きずり込まれるやうなことはなかったろう。・・・
太宰治が大学入学のために上京した直後から作品を読んでくれ、生活の上でも親身の世話をしてくれたのが井伏鱒二だったのです。
彼ほど太宰の才能を高く評価した文学者はいませんでした。
大学を退学になり行きづまった太宰を郷里へ連れ帰ろうとした兄の文治を、説得して執筆を続けさせたのも井伏鱒二と檀一雄でした。
初婚相手の初代と離婚した太宰の荒れた生活に心を痛め武蔵野病院の精神科へ無理に入院させたのも井伏でした。
昭和13年、甲州の御坂峠の天下茶屋に太宰を呼び寄せて生活を一新させたのも井伏でした。
そして甲府の石原美知子と見合いをさせ、井伏の自宅で結婚披露宴をしたのです。それは太宰にしばしの幸せな家庭生活を経験させたのです。
しかし太宰治は恩人の井伏に秘密で、愛人太田静子との関係を続けていたのです。
そして昭和23年、太宰治と山崎富栄が心中したのです。
以下はその太宰の遺書です。
======妻に宛てた太宰の遺書(抜粋)=========
「美知様 誰よりもお前を愛していました」
「皆、子供はあまり出来ないようですけど陽気に育てて下さい。あなたを嫌いになったから死ぬのでは無いのです。小説を書くのがいやになったからです。みんな、いやしい欲張りばかり。井伏さんは悪人です。」
奥名(※4年前に戦場で行方不明。新婚生活は12日間しかなかった)と少し長い生活ができて、愛情でも増えてきましたらこんな結果ともならずに
すんだかもわかりません。
山崎の姓に返ってから(※まだ奥名籍だった)死にたいと願っていましたが・・・
骨は本当は太宰さんのお隣りにでも入れて頂ければ本望なのですけれど、それは余りにも虫のよい願いだと知っております。
太宰さんと初めてお目もじしたとき他に二、三人のお友達と御一緒でいらっしゃいましたが、お話しを伺っております時に私の心にピンピン触れるものがありました。
奥名以上の愛情を感じてしまいました。
御家庭を持っていらっしゃるお方で私も考えましたけれど、女として生き女として死にとうございます。
あの世へ行ったら太宰さんの御両親様にも御あいさつしてきっと信じて頂くつもりです。
愛して愛して治さんを幸せにしてみせます。
せめてもう一、二年生きていようと思ったのですが、妻は夫と共にどこまでも歩みとうございますもの。
ただ御両親のお悲しみと今後が気掛りです。」
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
今回の津軽への旅では、五能線の鰺ヶ沢駅から岩木山中腹に登り、ナクア白神ホテルに一泊しました。
五能線の西には下の写真のように日本海が広がっています。
鰺ヶ沢まで北上し岩木山の中腹にあるホテルに登って行きました。
登るにしたがって岩木山の山容が大きく迫って来ます。
その様子を示したのが下の写真です。
岩木山の本当の美しさは津軽平野から見た富士山のような均整のとれた姿にあると言われています。津軽富士と呼ばれているように、津軽の人々にとって故郷の象徴なのでしょう。
その姿は翌日、竜飛崎の帰りに津軽平野を北から南へ縦断した時見えました。確かに美しい名峰です。
しかし霞んだ空気が岩木山を囲んでいて写真が撮れませんでした。
そこで一番下の写真のように冬の岩木山を弘前市郊外から写した風景を示します。
写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%9C%A8%E5%B1%B1です。
「またお茶?」<o:p></o:p>
「まぁ、そう言うな、なんだかいろんなこと、思い出しちゃってね」 <o:p></o:p>
確かに片付けは全然進んでいない。いや、勝手気ままに生きた父は簡単に片付けたが、母への想いや疑念は、高齢になった今も、整理がついていない。換言すれば、母はまだ私の中では死んではいない。<o:p></o:p>
「おかあさんの自伝だっけ、ずっと見てる本」<o:p></o:p>
「うん、まだ正体が解からない人なんだ」<o:p></o:p>
不謹慎な言い方だ。分かってはいるが適切ではある。<o:p></o:p>
急に妻が笑顔になった。<o:p></o:p>
「何、その笑い…」<o:p></o:p>
「手のかかる子ですけど、よろしくおねがいします」<o:p></o:p>
「あ、横浜へ行っておふくろに紹介したときか」<o:p></o:p>
「そう、三十八九の息子のことだから可笑しくて。からだが弱くて心配し続けたってこと?」<o:p></o:p>
いや、中学生になってからは柔道に精出すほどに丈夫だった。その後もケガこそすれ大病は患っていない。むしろ三十五歳過ぎまで、アルバイトと独学を続けたこと、つまり定職に就かず経済的に不安定だったことが大きいのだろう。<o:p></o:p>
「ふつうの半生じゃないのはおかあさんと一緒ね。誰にでもできることじゃないし」<o:p></o:p>
「結果が全てだから、褒められた半生じゃないさ。とくにおふくろにとってはね」<o:p></o:p>
同じアルバイトを四年近く続けて貯金し、一年半、食うや食わずの山篭り生活をしてようやく司法試験二次論文式に辿り着いたときも母は、言わば眉一つ動かさず、笑顔の欠片も見せなかった。<o:p></o:p>
(金を稼がない子は悪い子なんだ、この人にとっては)<o:p></o:p>
親と家庭への反発心はさらに硬くなった。<o:p></o:p>
結局青雲の志はこの年で雲散霧消する。張りも金も全く無い夏の暑さが忘れられない。<o:p></o:p>
ただ自身が老いの境地に立ってみると、少し違うような気がしてくる。<o:p></o:p>
数年前、東北の同人誌の主幹と文通したことがある。何かの折に「家庭環境」についての想いが相互に語られ、結果、「しきみのように」を寄贈することになった。彼の人は齢八十、名門K大学出の文士だった。母や私とは天と地ほどに環境が異なる。一と月ほどして長文の書簡をもらった。<o:p></o:p>
「君は大いに勘違いをしている。これほど立派なお母さんをもちながら、一体何が不足なのだ」<o:p></o:p>
思慮深いはずの彼が不肖の息子を叱るような口調で諄々(じゅんじゅん)と説いている。大人同士のマナーなどどこ吹く風の立ち入りように私は唖然とした。次いで反発がきた。<o:p></o:p>
「地方の名士、乳母日傘(おんばひがさ)で育ったあなたに何がわかる」<o:p></o:p>
その後二回ほど型どおりの交信はあったが、自然な形で関係は終焉を迎えた。そうだ。問題の書簡の末尾はあたかも坊主だった。『吾唯足知』(われただたるをしる)<o:p></o:p>
傍目八目という。彼には母と私の関係が読めていたのかもしれない。つまり、母の、褒めたり励ましたり出来ないほどの親としての負い目と、私の、折々に期待している旨の一言さえあればもっと頑張れたという子としての甘えを。そして最後には、いつも、いくつのときも、責められるのは私という現実を。<o:p></o:p>
彼が私への通信を止めた理由。それが「逝去」かもしれないと気付いたのは、ごく最近のことだ。慙愧(ざんき)の至りと言える。母の「自伝」の奥底にあるものを見つけた彼の大きさに、いまは感謝の気持ちで手を合わせている。<o:p></o:p>
長い時間と思ったのに数分なのか。<o:p></o:p>
妻が何か言っている。<o:p></o:p>
「……それだけいろいろなものをもらっておいて、ぜいたく言わない。頭のいい人は悩みが沢山あって大変だね、わたしなんかとっても楽チン」<o:p></o:p>
――そういえば私が中学生のころだったと思う。何某によれば、私を養子に欲しがる老夫婦がいたらしい。暮らし向きは相当良い人だとのこと。八人も子がいた母だが、断ったという。理由は知らない。もちろん母は、そんなことがあったなど、噯(おくび)にも出さなかった。<o:p></o:p>
あらゆる求人が三十五歳までと制限つきだった頃、なかなか勤め先が見つからず、さらには当面の資金にもこと欠く危機に陥った。薄暗い家で終日無為に過ごしていたある日、母がぼそりと言った。<o:p></o:p>
「ほんとに、そっくりだよ、お前は」<o:p></o:p>
私にはすぐに分かった。怠け者の父に酷似していると罵られたと言うことが。よりによってあの父に。<o:p></o:p>
この家では、金は全知全能にして全ての評価尺度。そうとしか思えなかった。母への小さな憎悪が芽生えたのを覚えている。<o:p></o:p>
(あの親父に似てると言うなら狂ってみろよ、「駿、勉強しなよ」と口走ったあの日みたいに!)<o:p></o:p>
「どうしたの、目が潤んでるよ。涙?」<o:p></o:p>
妻が覗き込むようにして言った。<o:p></o:p>
「まさか、花粉だよ、花粉症」<o:p></o:p>
「一月に? ……今度の休みでいいよ、整理」<o:p></o:p>
「ああ」と小さくうなずいた私。<o:p></o:p>
小学三年生のときに、「要擁護」の判定を受けていた私は、勉強しながら療養できる施設に半年間も入っていた。雑木林と畑と剥き出しの黒土が混在する景色のど真ん中に在る「学校」だった。月に一度の面会の日、同年代の生徒たちがベランダに出て、保護者が道の向こうに見えるのを待つ。親を見つけて手を振り、ベランダから次々に消える子ら。一人残され(また来ないんだ)と、両手で手摺を叩く私がはっきりと見えた。<o:p></o:p>
そこには「…お金ないんだ」と納得する自分もいた。<o:p></o:p>
あのときの気持ちのままでずっと、最期まで、いや弔ってからも、待っていたような気がする。<o:p></o:p>
――そう、潜在意識の中で。<o:p></o:p>
背後で、サッシ戸を押す風の声が聞こえた。(連載の終わり)
五能線は秋田県と青森県の日本海に沿った地域を走るJRの鉄道です。東能代を起点に十二湖駅、深浦駅、鰺ヶ沢駅、五所川原と続いて川口で本線に合流し、弘前駅が終点です。車両といい、駅舎といい、全てが昔を思い出させるノスタルジックな鉄道なので鉄道ファンにとっては憧れの路線なのです。
その五能線の東能代から4つ目の駅が十二湖駅です。駅の西側は広大な日本海です。ここで下車して東へ向かい、そこから白神山地へ分け入り、大崩(おおくずれ)という山の下まで登ると30ケ程の湖が点在しています。33のちいさな湖がありますが、大崩の山頂からは12湖だけ見えるので白神十二湖という名前になっているそうです。
なお五能線を離れ日本海沿いにさらに北上すると十三湖という大きな汽水湖があります。これは浜名湖のように海につながっていて、北前船の重要な風待ち港がその中にありました。その中に一つの島があり、観光地になっています。
まぎわらしいのですが十二湖と十三湖は全く違う観光地なのです。
下には五能線の西に広がる日本海の写真、大崩という山の写真、鶏頭場の池の写真2枚、そして最後の5枚目に青池の写真を順々にしめします。
写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。
龍飛崎は険しい断崖絶壁です。20kmの向うには北海道の松前が見えます。
絶壁の下にへばりつくように三厩(みうまや)の漁港と小さな村落があります。
村落はまさしく地の果てです。太宰治が「ここは本州の極地である。このを過ぎて路はない」とと書いているとおりの風景でした。
断崖の上には龍飛崎灯台と陸上自衛隊のレーダー監視台があり小さな部隊が常駐しています。
岩礁と三厩漁港と灯台の写真をお楽しみ下さい。
上の写真の左方向から正面位に津軽海峡の向うの北海道が見える筈ですが、昨日は霞んで見えませんでした。漁港は三厩漁港です。
・灯台は断崖の上の頂上にあります。上の写真の右のほうに灰色の小さなドームが写っています。陸上自衛隊のレーダー監視台です。山の向う側の斜面に津軽海峡監視部隊の駐在施設があります。
・この灯台は日本海と津軽海峡を行き来する船のために働いています。
晴天に恵まれたので鮮明な写真が撮れました。(2013年5月31日撮影)
東北新幹線の北上駅からバスで五能線沿いに北上し、竜飛岬を観光し、金木で太宰の生家の斜陽館を見て新青森駅から帰ってきました。鰺ヶ沢から岩木山中腹に登り、ナクア白神ホテルに一泊しました。津軽半島をグルリと回る旅でした。
五能線乗車体験、12湖、白神ブナ林、13湖、竜飛岬、津軽鉄道乗車体験、斜陽館などはみな印象深いものでしたが、それらについてはいずれ写真をまじえてご報告いたします。
それよりも何よりも一番心を痛めた光景は五能線沿いの漁村の生活の厳しさです。
冬の地吹雪は4ケ月も続き、漁に出られる日は数えるほどしかありません。
生活が困窮します。
日本海からの雪まじりの烈風を防ぐための木造の高い囲いが家の中を真っ暗にします。
燃料節約のためにストーブもたかず、炬燵だけで厳寒の冬を過ごすのです。
子供たちは高校がないのでみな五所川原や弘前や青森へ出て行ってしまいます。就職口が無いにので学校を終えると大部分は東京です。
残った老夫婦はゆっくりながら次第に死に絶えて行きます。
村落に残るのは廃屋だけです。
日本海沿いの村落を通り抜けるバスの車窓からは雨戸を締め切った無人の家々が数多く見えるのです。
その光景は去年の6月に北海道の函館の東の太平洋岸の漁村の下のような光景と寸分違わないのです。
日本国中、山奥の村落も廃屋が沢山あります。しかしそれらは観光ルートからかけ離れた場所にあるので都会の人々に目には入りません。
しかし漁村は、その先に美しい浜辺や灯台のある岬があるので必ず通り抜けることになります。
この日本の現実を忘れないで考えることも重要なことと感じさせる五能線沿いの道行でした。
さて竜飛岬の帰りは津軽半島の真ん中を南下しました。
津軽平野の広大な水田が全て田植えを終えています。水を満々とたたえている水田は残雪をいただいた岩木山を写しだしています。
この水田地帯にくると家々が急に立派に見えます。広い明るい農道が走り、村落の集会所や農協の建物が立派なのです。
山々の向う側の漁村の光景とはまったく違うのです。
しかしその光景は第二次大戦後の占領軍の命令による農地解放と小作人制度の廃止によって次第に出来てきた風景なのです。
戦前の小作人は地主の搾取が厳しくてろくにコメのご飯も食べられなかったのです。
冷害の年には娘たちが売られていったのです。小作人の家々は貧しい小さな藁葺の小屋や地主の納屋だったのです。
そんな時代を示すものが部屋数が19もある太宰治の生家の津島家の豪邸、斜陽館なのです。津島家は津軽平野の何人かいた大地主の一人だったのです。
下にその写真を示します。
この家は太宰治の父が建てたもので津軽平野の中の金木という所にあります。
太宰治の祖父が金貸しで財をなし、農地を買い集め大地主にのし上がったそうです。写真はいずれ示しますがこの家はすべて高価な青森ヒバで出来ており、その内部には洋風の部屋も含め19室ある豪華なものです。使用人が30人いて、小作人が300人いたそうです。
言い方を変えれば津島家は小作人の収奪によってますます金持ちになって、このように贅沢過ぎる豪邸を建てたのです。
しかし戦後はこの家も人手に渡り、「斜陽館」という旅館になっていたのです。
平成の時代になってかから金木町が改修し、地元活性化のシンボルとして公開しているのです。
今回の津軽半島の旅で一番心を打ったものが漁村の悲惨な光景と、水田地帯の大地主の小作人搾取によって出来た豪邸のすごさでした。
美しい風景については写真をまじえて今後、ご報告して行きます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)