後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ヨット遭難者を救助した海上自衛隊の飛行艇を絶賛する!

2013年06月24日 | インポート

太平洋横断中の辛坊治郎さんと岩本光弘さんを、荒れる海上に着水して救助した海上自衛隊、第31航空群第71航空隊の飛行艇の性能と隊員の勇気と熟練度にはすっかり感動してしまいました。

今回の事故は洋上を漂流していた大きな物体がヨット船底に3度ぶつかり、船体に亀裂を生じ、浸水して、20分以内に沈没するという大変珍しい事故でした。

ヨット歴40年の辛坊さんが早めに船体放棄を決断し、甲板上の救命筏を展開し、荒れる海上で全盲の岩本さんを助けながら救命筏へ乗り移ったのです。この早業が2人の命を救ったのです。

しかしそれよりも海上自衛隊の飛行艇US-2が危険をおかして荒れる海上に着水したことが一番感動的でした。

救命ボートを飛行艇からおろして救命筏の中から2人を救い出したのです。これには吃驚してしまいました。

小生も長年ヨットをしていたので、波高3m以上の荒れた海上でこんなに順調に救助出来たことには本当に感動しました。

11人の乗り組員の勇気と訓練のおかげです。

そこでこの海上自衛隊の救助用の飛行艇を調べました。

米軍の潜水艦哨戒機を参考にして、日本の新明和工業株式会社や三菱重工などが救難用飛行艇を開発して、2008年から海上自衛隊、第31航空群第71航空隊(厚木と岩国)へ配備しました。この海上自衛隊の飛行艇US-2のエンジンはロールス・ロイス社製です。

今回の救助活動はあまりにも鮮やかだったので、その海上自衛隊の飛行艇US-2

の写真を下に掲載いたします。写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/US-2_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F) です。

そして以下は事件のあらましです。

読売新聞2013年6月22日(土)01:41

辛坊さんら海自飛行艇が救助、健康状態良好
(読売新聞)

 小型ヨットで太平洋を横断中に遭難し、第2管区海上保安本部(宮城県塩釜市)に救助を要請していた全盲の

鍼灸師

(

しんきゅうし

)

・岩本光弘さん(46)と、読売テレビ(大阪市)でキャスターを務める辛坊治郎さん(57)は、21日午後5時53分に現場海域に着水した海上自衛隊の救難飛行艇に救助された。

 2人の体調は良好という。

 2人を乗せた飛行艇は同日午後10時30分頃、海自厚木基地(神奈川県綾瀬市、大和市)に到着。岩本さんは「ヨットの底を突き上げるようなゴンという音が3回ほど聞こえ、水が流れ込んできた。なすすべがなかった」と遭難時の状況を語った。当時、船内で寝ていたという辛坊さんは「あっという間にひざ下まで浸水した」と振り返り、「海上自衛隊の方が命をかけて救出してくれたことに感謝の気持ちでいっぱいです」と話した。

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我が庭の「潮来のあや」とアジサイの花

2013年06月24日 | 日記・エッセイ・コラム

5年前に潮来のあやめ祭りから、株付きで買ってきたあやめが今年も次々に咲き、終わりに近づいてきました。

それと入れ替わりのように、大輪のアジサイが色を重ねはじめました。まだ水彩画のように淡い色ですが、これからどんどん濃い色に変わって行きます。

季節の流れを庭の花々の変幻の様子から実感している今日、この頃です。

アジサイは梅雨の季節の花と思い、雨に濡れるアジサイを家の中から眺めています。老境の静かな時が今日も流れて行きます。晴れ間には、家内は庭の梅の実を漬けたカメを持ち出し、すだれを拡げてセッセと干しています。

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20世紀の独裁者(7)蒋介石とその反逆者、張学良の運命

2013年06月24日 | 日記・エッセイ・コラム

蒋介石は1887年に生まれ1975年に台湾で没しました。88年の人生でした。

一方、張学良は1901年に生まれ2001年に100歳の人生をハワイで終えました。

この2人は日中戦争で中国が敗けないような戦いを進めた非常に重要な人物でした。蒋介石は重慶に首都を移し、頑強に日本と戦いました。

一方、張学良は1936年に西安で上司の蒋介石に反逆し、彼を拘留し、共産党軍と協力して日本と戦うことを強要します。それまで日本との全面戦争に消極的だった蒋介石が急に共産党と組んで日本との総力戦を決意しました。

日本がどうしても日中戦争で勝てなかったのは張学良の力ずくの蒋介石の説得のおかげだったのです。考え方によっては張学良こそ日中戦争のキーパーソンだったのです。この2人の写真を下に示します。

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上の左は1928年中国を統一し、国民党の頭として独裁権を確立したときの蒋介石の写真です。右は父、張作霖の死後、その後継者として意気盛んだったころの若い時の張学良の写真です。

私はこのブログ記事で1928年から1975年まで47年間にわたって中華民国の独裁者であった蒋介石の親日家としての2つのエピソードと、張学良の反逆後の悲劇的な後半生を簡略に描いてみたいと想います。

蒋介石は明治維新で近代化した日本に憧れ、20歳の時の1907年(明治40年)に東京振武学校へ留学します。そして1909年に大日本帝国陸軍の将校として迎え入れられ陸軍第十三師団の高田連隊の野戦砲兵隊の将校として訓練を受けたのです。それは1909年から1911年までの3年間でした。この時の野戦砲兵としての訓練がその後の中国の統一戦争に役に立ったことは間違いありません。

そして1911年に辛亥(しんがい)革命が起きると急ぎ帰国し、辛亥革命で活躍し、孫文が自分の後継者と考えるようになったのです。

蒋介石は日本と敵対せず満州国を容認し、終始一貫、日本人に親近感を持っていたのです。

その一つのエピソードは抗日戦争中の1938年(昭和13年)の「日本国民へ告ぐ」という声明にもあります。(http://www.geocities.jp/yu77799/shoukaiseki.html

その一部を転載すると以下のようになります。

======日本民衆は敵視せず===============

 これを要するに、中国の抗戦は単に生存自衛のためのみならず実に中日両国国民の未来の幸福を実現するにある。而して貴国の暴戻なる軍部は単に中国の敵人のみならずまた日本国民諸君の公敵でもある。

 中国は抗戦してより今日に至るまでただ日本の軍閥を敵として認め、日本国民の諸君を敵視してゐない。中国軍民は平和を愛好し、軍閥の圧迫を受けてゐる諸君に対し始めより利害の共同する良友と認め満腔無限の熱情と期待を抱くものである。

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そしてもう一つのエピソードは、日本の敗戦後の発表した「賠償放棄」声明です

これには敗戦で意気消沈していた日本人が非常に勇気づけられたのです。吃驚もしました。古今東西、戦勝国が敗戦国へ戦争賠償を要求しないことは稀れなことだったのです。中国を蹂躙した日本人は巨額の賠償を覚悟していたのです。

その賠償を放棄した蒋介石に対して日本は武力で勝って、徳で敗けたのです。

その結果、日本は国民党の支配する台湾と友好関係を築いたのです

蒋介石は戦争中、日本の新聞や雑誌でさんざん蔑まれました。多くの日本人は彼を軽蔑していました。それは日本の軍部の宣伝に過ぎなかったのです。

しかし戦後になって、そして現在振り返ってみると蒋介石は中国の生んだ傑出した独裁者でした。日本人は最近、蒋介石へ好意的ですが、彼は独裁者の悪は背負っていたのです。台湾の民衆を武力で弾圧し続けたのです。それが独裁者の宿命です。

このような独裁者へ反逆し、武力で拘留したのが張学良だったのです。それが1936年の西安事件なのです。

張学良は共産主義者ではありません。それが共産党の周恩来たちに説得されて国民党軍は共産党軍と仲良くし、抗日戦争に勝利すべきと信じるようになったのです。そして西安に督戦に来た蒋介石を拘留し、力ずくで彼を抗日戦争に引きずり込んだのです。

蒋介石は共産党と共闘する約束をしたので釈放されます。そして張学良を反逆罪で裁判にかけ10年の実刑判決を与えたのです。

張学良の悲劇はそこから始まりました。その後10年たっても、彼は釈放されず台湾へ連行され、1975年に蒋介石の死まで軟禁され続けていたのです。

中国の共産党は張学良を本土に帰し、平穏な余生を送るようにと招待しました。

しかし彼はそれを丁重に断り続け、1991年にハワイに渡り、最後の10年間は平穏な生活をしました。

しかし張学良は日本へ対して最後まで厳しい態度で政治家の靖国神社参拝を厳しく非難し。あくまでも抗日の姿勢を崩さず没しました。満州を事実上支配していた父の張作霖を関東軍が爆死させたのですから当然です。

1936年の西安事件から2001年の死までの間の65年間は失意の生涯だったのです。政治家として復活出来なかったのです。これも戦争の悲劇の一例です。

下に蒋介石の関連の写真と張作霖の爆死事件の写真を示します。

(写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3 です)

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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上は前列左から頭山満と一人おいて犬養毅と蒋介石の写真です。1929年、蒋介石が一時失脚し日本へ亡命し日本側の絶大な支援を得たときの写真です。

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上は1928年に関東軍の河本大作が張作霖の乗った列車を爆破したときの写真です。