(上は小泊にある太宰とタケさんの像 右は晩年のタケさんの写真)
やっぱり本当のことを書いてしまいます。
かつて太宰治は「金木のごじゃらし(恥さらし)」と言われていたのです。
近年はその生家、「斜陽館」が観光資源になって津軽地方の経済が助かっているので、太宰治の悪口を言うひとは少なくなりました。しかし尊敬されてはいないようです。
尊敬と云えば、むしろ青森県知事を3期9年も務め、その後衆議院議員や参議院議員を務めた兄の津島文治氏のほうが皆に尊敬されています。
太宰治の子守をしていた越野タケさんも、彼の中学生以後の放蕩と4回もの自殺や心中未遂事件の噂に困惑し、悲しい思いで過ごしていたと思うのが自然ではないでしょうか。
彼女は小作の年貢米の代わりに津島家の子守になったのです。太宰が2歳の時でした。その家で、我が子のように愛した修治が、「金木のごじゃらし」と言われて非常に心を痛めたに違いありません。
太宰治は1909年生まれで、1948年に心中して果てました。
越野タケは1898年生まれで1983年に85歳で亡くなっています。
1944年に太宰治は30年ぶりに越野タケさんを訪ね、会っています。
この時、太宰は35歳でタケさんは46歳でした。
この30年ぶりの再会を太宰は「津軽」という小説で以下のように書いています。
フィクションですから再開の様子の真実からだいぶ違うのです。その違いは以下の文章の下に引用した越野タケさんのインタビュー記事をご覧になれば明快です。
===「津軽」よりの抜粋:http://www.geocities.jp/sybrma/index.html =====
・・・・・・・
「龍神様(りゅうじんさま)の桜でも見に行くか。どう?」と私を誘つた。
「ああ、行かう。私は、たけの後について掛小屋のうしろの砂山に登つた。砂山には、スミレが咲いてゐた。背の低い藤の蔓も、這ひ拡がつてゐる。たけは黙つてのぼつて行く。私も何も言はず、ぶらぶら歩いてついて行つた。砂山を登り切つて、だらだら降りると龍神様の森があつて、その森の小路のところどころに八重桜が咲いてゐる。たけは、突然、ぐいと片手をのばして八重桜の小枝を折り取つて、歩きながらその枝の花をむしつて地べたに投げ捨て、それから立ちどまつて、勢ひよく私のはうに向き直り、にはかに、堰を切つたみたいに能弁になつた。
「久し振りだなあ。はじめは、わからなかつた。金木の津島と、うちの子供は言つたが、まさかと思つた。まさか、来てくれるとは思はなかつた。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかつた。修治だ、と言はれて、あれ、と思つたら、それから、口がきけなくなつた。運動会も何も見えなくなつた。三十年ちかく、たけはお前に逢ひたくて、逢へるかな、逢へないかな、とそればかり考へて暮してゐたのを、こんなにちやんと大人になつて、たけを見たくて、はるばると小泊までたづねて来てくれたかと思ふと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいぢや、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行つた時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持つてあちこち歩きまはつて、庫(くら)の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔噺(むがしこ)語らせて、たけの顔をとつくと見ながら一匙づつ養はせて、手かずもかかつたが、愛(め)ごくてなう、それがこんなにおとなになつて、みな夢のやうだ。金木へも、たまに行つたが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでゐないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」と一語、一語、言ふたびごとに、手にしてゐる桜の小枝の花を夢中で、むしり取つては捨て、むしり取つては捨ててゐる。
「子供は?」たうとうその小枝もへし折つて捨て、両肘を張つてモンペをゆすり上げ、「子供は、幾人。」
私は小路の傍の杉の木に軽く寄りかかつて、ひとりだ、と答へた。
「男? 女?」
「女だ。」
「いくつ?」
次から次へと矢継早に質問を発する。私はたけの、そのやうに強くて無遠慮な愛情のあらはし方に接して、ああ、私は、たけに似てゐるのだと思つた。・・・・・
====タケさんの証言:http://www.seinan-gu.ac.jp/kokubun/report_2003/dazai_ie.html ========
・・・・ここで注目したいのは生前のタケの証言である。ビデオは昭和五十六(一九八一)年に地元テレビ局RABで特集された「昭和十九年初夏『津軽』~太宰と小泊村~」というものであった。その時タケは八十三歳である。「津軽」を再現するように、昭和五十六年の小泊小学校の運動会の時にインタビューしたものであった。タケの話によると、その時彼女は四十七歳、太宰は三十六歳だった。太宰の服装は編み上げの靴に妙な飾りのようなものの付いた帽子を被り、ゲートルを巻いていた。再会の瞬間は、彼が首を傾げて、あ、いたいたと言い、太宰の右の目の下にはほくろがあったから、太宰と分かったそうである。一方、太宰の方も、タケのほくろを見てわかったようだとタケは言う。その後、小説のように龍神様の桜を見に行きそこで十分ほど話をした。話らしい話ではなかったが、太宰が自分は小さい時どんな子だったかを聞いてくるので、本が好きなとても良い子だったと言うと、ふうん、と笑ったそうである。タケが何のために来たのかと聞いた時には、会いたいと思ってきたと言ったということだ。タケの語る津軽弁は私には聞き取れないが、字幕が付いていたので助かった。大変暖かみのある声で、田舎のお婆さんが持つ独特の安心感を感じた。またそのほかにもタケのインタビューのビデオがもう一つあった。その中では、タケから見て太宰がどんな子どもだったかが語られていた。初めて津島家に来た時、他の兄弟に対しては「さん」付けで呼んだが彼には「修ちゃ」と一度呼んでみたら呼びやすかったので、それからずっとそのように呼んでいたそうだ。まるで本当の家族のように親しかったことが分かる。彼は良い子で「嫌だ」、と言うことがほとんどなかったが、食事の時だけは苦労をしたという。ご飯を一膳食べさせるのがやっとで、彼はよく逃げ回っていたようだ。しかし、家の人々は全く構わなかった。「人間失格」の中で、太宰自身の投影だと思われる主人公大庭葉蔵が幼少時代に、食事の時間が苦痛でならなかったと書いている。「末っ子の自分は、もちろん一ばん下の座でしたが、その食事の部屋は薄暗く、昼ごはんの時など、十幾人の家族が、ただ黙々としてめしを食っている有様には、自分はいつも肌寒い思いをしました。」(「人間失格」)家族の集まる食事の時間に我が儘を言って構ってもらいたかったのだろうか。一種の甘えと見られるが、なお家族は気にすることなく、本当の家族ではない子守のタケだけが彼の甘えに応えた。・・・・
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上の2つの抜粋文をご覧になって皆様はどのようにお考えでしょうか。
太宰治が1948年に死んでタケさんはホッとしたでしょう。肩の重荷がとれたように感じたに違いありません。もうこれ以上、恥さらしな事件が起きなくなったのですから。
しかしそれから年月が流れていくにしたがって、タケさんの心の中に悲しみの情がしだいしだいに大きくなって行ったと思います。自分の子供のように育てた人間の非業の死を憐れに思ったに違いありません。悲しんだに違いありません。
タケさんにもう少し長生きして貰いたっかと思います。太宰治が多くの人々にしたわれて金木の斜陽館に多くの訪問者が絶えない様子を見てもらいかったと、私はむなしい思いをしながら帰って来ました。(続く)
文芸部の高校生の頃、越野タケさんにお会いして、彼の性格、生い立ち等お聞きすることが出来ました。夜汽車に乗っての金木町訪問でした。タケさんの紹介で近くのお寺で、太宰も見たであろう、「あの世の極楽図と地獄絵図」の迫力に驚いたことを今でも覚えております。貴重な経験でした。
有難う御座いました。
私は防府市出身の俳人・種田山頭火の句が好きで心が慰められますが、防府で山頭火は恥さらしの乞食坊主とされてきました。
近年、立派な記念館ができました。芭蕉の句碑より山頭火の句碑の方が多いそうです。
芸術家というのは生きるのが不器用ですが、その創造物は国民の財産となることを
常識とすべきでしょう。